アカシはもともといつだってポーカーフェースというか無愛想な鉄面皮で、その表情の変化は俺以外の人間にはわからないくらい微細なのだが、それにしたってあまりに不機嫌だった。

　いや、表情が、というのではない。不機嫌のオーラがヒリヒリと全身を覆っている。

　俺には具体的な心当たりがなく、というよりも今回はさんざん面倒をかけたので、逆に心当たりはありすぎるのだが、タイミング的に納得が行かなかった。

　すべての事件は解決し、厄介のタネだったトラブル・ストーンはしかるべき人の手に委ねられ、後はもう解放されるだけである。俺に至っては、明日からの生活の糧を得て、貧乏のどん底だった人生に明るい光明が見えてきたくらいだ。

　にもかかわらず、アカシは不機嫌に見えた。

「なあ、アカシ」

　そろりと声をかけてみる。

　別に俺には、アカシの不機嫌を取り繕うべき義務はないし、不機嫌だからといって被害を被るわけでもないのだが、今回は本当にあれこれ世話になったので、礼くらいは言っておかなければと思ったのだ。

　実際、俺につきあわされて昨夜大立ち回りをした挙げ句、往復二時間社用車の運転までさせられているのだから、不機嫌に見えるのは単に疲労の成果もしれない。もちろん、運転に関しては、俺が替わると申し出たものの、社の車を部外者に運転させられないからと断られた経緯はある。

「今回はいろいろ、マジ助かった。サンキュウ、な」

　言葉は我ながら軽いが、声には最大限の労りと感謝を込めた。俗に言う、猫なで声である。他の誰でもない、俺の猫なで声が、アカシの機嫌と疲労回復には最も有効であるということを計算した上のやり口だ。

　アカシのオーラが、ほんの少し和らぐ。

「匿ってくれて、変な追っ手も退治してくれて、商談までまとめてくれたしな。ローズも感謝してたぜ」

　ところがそこで、アカシのオーラにまたトゲが生えた。

「別に、あの人の商談を助けたつもりはありませんよ」

　低い声で、ぼそっとつぶやく。

「いやいや、お前がいたからミセス・クライスラーも納得してくれたって、ローズが言ってたぜ。耳打ちだったから、お前には聞こえなかったかもしれないが、お前によくよく礼を言えって、ローズが」

　俺が言い切らないうちに、アカシは急にハンドルを切って追い越しレーンに入った。加速のＧが、俺をシートに押しつける。

　そりゃ、見渡す限りハイウェイはガラガラだが、運転がちと乱暴すぎやしないか。

「へえ、あなたにキスをしながら、そんなどうでもいいことを言っていたんですか、あの人」

　トゲトゲと、アカシが言う。

「いや、本題は別だったが」

　俺はシートに深く沈んだまま目だけを動かして、不機嫌のオーラの主を窺う。

「本題？　唇を合わせなければ言えないような？」

　端正な横顔は、不機嫌というより、むしろ泣き出しそうに見える。

「いやローズが言ってたのはむしろ……おい、アカシ。まさかとは思うが」

　思いついて、聞いてみる。

　アカシは何も答えない。意地のように、正面を向いたままだ。

「ローズに妬いたんじゃないだろうな？」

　アカシのトゲが、思い切り伸びて、そのまま硬直した。まさかの図星、らしい。

　たしかに、ローズは美人だ。ゴージャスなブロンドにグリーン・アイズの典型的セクシー美女で、スタイルも抜群である。なおかつ、そういう自分の容姿が男たちにどういう効果をもたらすかを熟知していて、武器として使いこなしている。もちろん、無類の女好きの俺にもその武器は有効だ。

　いっぽうの俺も、自分のマスクの甘さには自信があり、多少キザなセリフを吐いても絵になってしまう恵まれたルックスは、駆け引きの道具と自覚している。というか、顧客が有閑マダムに偏った探偵としては、メシのタネだ。

　で、女との挨拶代わりのキスなんてのは、三度のメシと似たような位置づけである。何でも好き嫌いなく食うが、美味ならばなおよい。

　で、そんなローズとオレが、耳元に唇を寄せて密談したり、人前でチュッチュしていたところで、二人の中を怪しむヤツなんかこれまでに一人もいなかった。束の間の学生時代、広いキャンパスで俺たちは有名だったが、俺やローズと親しいヤツはもちろん、顔見知り程度のヤツまで、おそらく誰一人として疑わなかっただろう。

　実際、俺とローズは悪友で、いやむしろ天敵で、それ以上の間柄ではない。男女間に友情が成立するかどうかの不毛な論議をする気はないが、事実としてセックスに至らない男女というケースはある。俺とローズは、少なくとも現時点では、そうだ。

　にもかかわらず、この男と来たら、どうも本気で嫉妬しているのである。

　さっきローズに対して無愛想だったわけも、不機嫌なオーラも、腑に落ちた。ついでに言うと、ローズが必要以上に俺に絡んできたわけにも、思い当たった。ローズは遠回しにアカシをからかっていたのだ。

　つながった途端、俺は吹き出した。

「ありえねえ！　ありえねえって、アカシ。お前、面白いこと言うわ」

　シートベルトの中で、腹を抱えて俺は笑う。こういうのは、何というか新鮮だ。俺のキスの価値なんて、目が合ったら愛想笑いをするのと同程度のものだと思っていたのに。

「だいたい、ローズには彼氏がいたろ？　バイクで迎えに来てた、マイクってゴッツい王子様が」

　指をパチンと鳴らして、思い出させる。アカシだって、マイクと抱擁するローズを見ているじゃないか。

「……だから、余計に不快なんです」

　だがアカシは、まっすぐ正面を向いたまま、生真面目に答えた。

　そうだ、コイツはこういうヤツだった。

　俺は身を起こすと、シートベルトを抜け出した。運転しているアカシのアゴをつかまえて、覆い被さる。

「ちょっと、カーマイン？　何を……ンッ！」

　舌をつっこんで、かき回してやった。昨夜のように舌を拘束するリングがない分、俺のテクニックを駆使するスペースは広い。

　空気が抜けたように車が減速し、ハンドルが左右に振れる。

「こういうディープなのは、ローズとはしてないぜ？」

　ほんの数秒で解放して、シートベルトに戻ると、アカシは真っ赤になって怒鳴った。

「あ、危ないでしょう、カーマイン！」

「スリリングでより感じたろ？」

「カーマイン！」

　確認済みのことではあるが、一直線のハイウェイはガラガラである。見渡す限り、他に車はない。四車線をヘロヘロと蛇行した後、アカシはようやく立て直した。

「何なら、そのへんのモーテルで休憩してくか、アカシ？　俺、結構気分だし、今回の礼も兼ねて」

　からかいついでに、ウインクしながら誘ってみる。

「お断りです」

　予測通り、ノリの軽い誘いは、すげなく断られた。

「カーマイン、繰り返し言いますが、私はいつだって、あなたが望むことなら何だって聞きますよ。何の代償もなく、相当の無理をしてもね。だから金輪際、私に対して、キスだのセックスだのを駆け引きに使うのはやめてください」

　まっすぐ前方をにらみ据えたままで、アカシは俺に説教する。

「へいへい、悪かった。どうせ俺は軽いよ。キスもセックスもバラ売りで、愛にはどこまでも不誠実で。あの石も俺には災厄をこれでもかとお見舞いしてくれたしな」

　価値観の違いといえばそれまでだが、コトはアカシと俺の間のことらしいので、俺は素直に詫びておく。

　ついでに、スネておく。あのトラブル・ストーンは、言い伝えの『愛に不誠実な者には災厄をもたらす』をまったくもって見事に実行してくれたものだ。

「あの石に関することなら、科学的な裏付けとは異なりますが」

「え？　科学的な裏付けがあるわけ？」

　そういえばアカシは、ミセス・クライスラーの前でも、さんざん盛り上げておいてミステリーの確信を言わなかった。俺も気にはなっていた。

　あんな石ごときに俺の愛を試され、一方的に不誠実の烙印を押されたのでは納得が行かない。あれだけの目に遭わせるのなら、俺が仕方ないと思えるような理屈を並べ立ててほしいものだ。

「いいえ。ただの仮説ですから、裏付けはまだ何も」

　だがやはり同じところで、アカシは口を閉ざす。科学者なりの慎重さなのか、単にじらしているのかとも思えてくる。これは、どうにかしてでも、聞き出してやらねばなるまいか。

「で、どうしますか？　社に車を返す前にあなたの事務所まで送りましょうか？」

　いたってクールに、アカシが聞いてくる。

「車は、早めに返さなきゃまずいよな？」

「ええ。一日分の手続きしかしていませんので。何か不都合が？」

　ちらりと運転席を盗み見る。相変わらず表情は硬いが、とりあえず、不機嫌なオーラはもう消えている。あれこれ文句を言われるものの、やはりこれも俺のキスの効果だろうとは思う。

「いや。じゃあ、先に車返して、それからお前んち」

「は？」

　多分にわざとらしく聞き返される。たしかに誤解を招く物言いではある。駆け引きのキスやセックスは禁止されたばかりなのだ。

　しかし、俺にとってキスはキスで、セックスはセックスである。前提がどうのこうのという理屈が通用するようなら、俺は俺じゃない。いつだって本能の赴くままに生きているのが、俺なのだ。

　俺は伸び上がって、運転席のアカシの耳元に囁いた。

「っつか正直、ローズなんかに嫉くお前に欲情した。ヤらせろ」

　アカシはみるみる耳を赤くして、アクセルを思い切り踏み込んだ。

　つくづく、アカシのヤツは顔に似合わず運転が乱暴だと思う。

◆

　俺が聞くと、アカシはぼんやりした表情で、首を傾げた。

「何が、ですか？」

　メガネをはずしているので、瞳の焦点があっていない。額からすらりとした鼻筋にかけて、濡れた髪が貼りついている。指ですくいあげてやると、アカシは眉を寄せてうめいだ。

「う、動かないで。カーマイン、まだ」

　アカシが倒れ込んできて、覆いかぶさるように俺の頭を抱えた。俺の膝に乗っているので、アカシのアゴが、ちょうど俺の額の高さになる。

「俺は動いてないって。むしろお前が」

「しゃ、しゃべらないでください。中に響く」

　見上げると、アカシの閉じたまつげからしずくが滴った。唇が少し開いて、苦しげに息をついている。

「へいへい。じゃあ、俺は黙ってますから、あの石のミステリーとやらを、講釈して聞かせていただけますかね、ドクター・アカシ」

　唇をベロリと舐めると、アカシはビクリと身を震わせた。俺にしがみついて、中をキュッと締めつけてくる。

　動くなしゃべるなと言いながら、これでは煽っているようにしか思えないのだが。

　どうやら本当に、声だけでも響くらしい。極力刺激しないように気をつけながら、俺は気長に待つことにした。形だけのイヤイヤをするお嬢さんを素直に待って焦らすのも、俺の常套テクニックだ。ちなみに、乞われてもすぐには応じないのが、コンビ・テクニックである。

　しかし待つだけの長期戦となると手持ち無沙汰で、俺は周囲を見ることで気を紛らわすことにした。

　アカシのマンションの広いバス・ルームは、独特の香りの湯気で満たされている。

　アカシが湯に溶かしたスパの素の香りだ。最初は妙なニオイだと思ったが、慣れてしまえば湯がなめらかで心地いい。

　アカシはまだ、シャツを羽織ったままだ。乳白色の湯の中で、白い布地が肌に貼りついて透けている。別に趣味というわけではない。単に脱がせている暇がなかったのだ。

　湯の支度をしに来ただけのアカシを、無理矢理バス・タブに引っ張り込んで、またがらせた。抵抗するのを、湯の中で下半身だけでも剥いたのが、むしろ俺の高等テクニックというものである。

　アカシのヤツは、徹夜の寝不足だったせいか、ほとんど挿れたと同時にイッてしまい、ぐったり動かなくなった。やたらと恥ずかしがるアカシを、俺が強引に、といういつもと逆のパターンがツボにハマっただけかもしれないが。

　そういえば、アカシとはほとんど体格差がないので、アカシが上というのもきわめて珍しいパターンである。ましてや正面座位となると、水の浮力を借りてこそできる体勢だ。麗しの淑女が相手のときには、俺は結構好きなポジションである。

　さて、俺のほうはといえば、昨夜は確かに徹夜だが、その前まで昼も夜も寝て過ごしていたので、体力はあり余り、妙なノリのハイ・テンションが持続したままである。

　いくら白いからわかりにくいとはいえ、アカシの放出した残骸が浮かんでいると思われる湯に、平気で浸かっていられるテンションというのは、相当だ。それどころか、アカシを相手に次はこっちだと息を詰めているあたり、もはや異様なテンションである。

　揺れる吊り橋を渡った男女の間には恋愛感情が芽生えるというが、昨夜の大乱闘が俺にも似たような効果をもたらしたのだろうか。それとも、これもあの石の仕業か。

「……で、アカシ。あの石が招いた災厄は科学的なタネがあるのか？」

　俺はあえてクールを装い、アカシの意識を外へ誘ってみる。

　かすかな震動に、アカシは身じろいだが、まだぼんやりと視線をさまよわせている。

「なあ、俺があの石を持っている間、蛇に威嚇されたり、犬に吠えられたり、自動ドアにはさまったりしたのは、科学的に説明がつくのか？」

　重ねて聞いてみる。

　結局は俺も、あの石のミステリーが気になっているわけだが、直接あの石の災厄に巻き込まれたのだから、知る権利くらいあるだろう。

　アカシは視線を漂わせながら、でもただの仮説ですから、と答えた。飽くまでも科学者の分別とやらで、他人に話すつもりはないらしい。

　俺は、アカシの腰をつかんだ。軽く、回すようにゆさぶりをかける。

「アッ！　カーマイン、ちょっ……クッ」

　途端にアカシが悲鳴を上げる。度を過ぎた快感は、衝撃に等しい。

　濡れたシャツに透ける胸の突起に歯を立てて、俺は囁いた。

「何でもいいから、タネ明かしをしろよ、ドクター」

　一種の脅迫である。俺は荒っぽいことはまったくしないのがポリシーだが、この手の脅迫は、はっきり言って得意だ。濡れた服がすれるだけでも響くらしく、アカシの中が不規則に脈動する。

「わかりました、わかりましたから、カーマイン！」

　繋がったまま、逃げるに逃げられず、アカシは早々と降参した。

　崩れてきたアカシを、今度は背中に手を添えて支えてやる。湯を吸った服地は冷たいのに、内部の肌はじっとりと熱い。奇妙な手触りだ。

「……私のほんの思いつきですよ」

　俺の首にしがみついて、呼吸を整えてから、アカシはそう前置きした。非科学者の俺としては、つじつまさえ納得できれば、細かい根拠はどうでもいいのだが。

「色が変わったのは、ごく簡単な原理です。温度によって過敏に色の変化を起こす、液晶のような性質を持っていたんでしょうね。カーマインの体温に反応していたんだと思いますよ」

　言われてみれば、たしかにそうだ。ローズはハンケチーフに包んで持ってきたが、俺はずっと胸ポケットに突っ込んでいた。寝るときも、パープル化粧の連中に追われて走り回っていたときも、ずっと俺の心臓の上にあったのである。温度に反応するのならば、色も変わるというものだ。

「じゃあ、蛇は。犬とラジオと自動ドアは」

「音、ですよ。あの石、二本のリングを重ねた形になっているでしょう。あれは接着剤で貼り合わせているのではなく、それぞれのリングに独特な溝を彫り、噛み合わせているんです。そして溝のわずかな隙間、そこの湿度や温度が一定より低くなると、音を発する」

「音？　音なんかしてたか、あの石」

　俺はずっと肌身離さず持ち歩いていたが、音なんかには気づかなかった。

「おそらく。ヒトの耳には聞こえないような、超音波と呼ぶべきものです。言い伝えのコウモリだとか、蛇や犬が反応したのはこの音波に反応したのでしょう。自動ドアや機械の暴走も、電子回路が共振を起こしたためかと。隙間に充分な温度と湿度が確保されていなければ、ひずみを埋めようと石の内部が振動して音波を発する。逆に、定期的に唾液等で湿したり、体温で温めることが、あの石を鎮める手段といううわけですよ」

　それで、人の舌や唾液に触れる、『婚姻の輪』タン・リングというわけか。アカシの予測が当たっているとすれば、かなりエロティックなアイテムである。

　しかし、俺ははたと思いつく。

「おい待てよ、アカシ。するともしや、唾液なんてまどろっこしいことをせずとも、たとえば湯につけるだけでもよかったことにならないか？」

　単純に温度と湿度の問題だとすれば、何も唾液に限ったことではない。

「ええ、まあ。そう、ですね」

　しれっとアカシが答える。

　だとしたら、俺たちは非常に間抜けだ。あの火花の雨が降る緊迫した状況で、呑気に男二人でディープ・キスをかましていたというのは、どう考えても間抜けだ。

「お湯につけるだけでも、トラブルは治まったかもしれませんね。でもまあ、私の推測にしろ、言い伝えにしろ、どこまでも不確かな話で、確信はありませんでしたよ。まさか、本当にそれで治まるなんて」

　俺を間近に覗き込みながら、アカシが首をかしげる。自分の分野の話になって、余裕が出てきたようだ。

「何だよ、お前にも確信はなかったのか？　それでまあ長々とキスをしてくれたよな」

　オーバー・アクションで肩をすくめる。振動にアカシは瞬間体を強張らせたが、ユラリと体を起こした。

「……どうせ死ぬなら、あなたとキスをしながらがよかったってのが本音ですかね」

　ニヤリと歪めた唇を、寄せてくる。

　どうやら回復してきたらしい。絡めてくるアカシの舌は、タン・リングを交わせるほどには大胆にはなったが、俺から見ればまだまだヘタクソで。

「おい、イクのはいいけど、人の舌を噛むなよドクター」

　合間に俺は釘を差した。

◆

『先日は、伝説の石のミステリーを目の当たりにできてうれしく思います。あの美しいパープルは、カーマインもついに真実の愛に目覚めた証でしょう。知的な彼にくれぐれもよろしく』

　知的な彼、とはアカシのことだろう。キスのたびに人の舌を噛むようなヤツとの間抜けな関係を、真実の愛などと呼ばれても正直困惑するだけなのだが。

　相変わらず背後に傾いだままの事務所のデスクにそっくり返って、俺は鼻を鳴らした。