とにかく、アカシに連絡を取らなければ。

　壁に備え付けの内線電話に手を伸ばした瞬間、いきなり傍らの円盤型カッターが高速回転をはじめた。

「のわっ！　何だ？」

　考えるまでもない。これも石のせいだ。

　この三日は精密機器のない空間にいたから、まるで何もなかったが、今は精密機器だらけの部屋にいるのだ。トラブルのひとつもないほうがおかしい。

　次に、冷却装置のスイッチが入った。箱型の装置から真っ白い煙が吹き出す。最大出力というか、単に暴走しているだけのようだ。

　そして、灯りが消えた。

　あたりはまた闇だ。暗闇に、高速カッターの回転音と、冷却装置から冷気の漏れる音が響いている。天井を見上げれば、ショートしているらしい小さな火花がチカチカと見える。焦げ切れたコードがブラリと落ちてきて、危うく首をすくめて避ける。

　このトラブル・ストーンめ。三日の沈黙を巻き返すように騒ぎはじめやがって。

　胸に向かって毒づいた瞬間、ドアが開いた。

　ＩＤカードがなければ開かないはずのドアだ。ガードマンか他の研究員でなければ、アカシが急を察して来てくれたのか。

　だが、逆光に浮かんで見えた顔は、濃いパープルの奇天烈面のヤツだった。

　しかも、書架に挟んだヤツの五倍くらいの太さで、ダストシュートに落としてきたヤツの二倍くらいの身長の巨漢である。アゴがケツのように割れていて、パープルの化粧も、いちばん似合っていない。どう見ても、最悪の相手だ。

　ヤツは、ドアが開いたことに驚いているようだった。つまりこれも、石の呼んだ誤作動というわけだ。とことん、いらんことをしやがって。

　ヤツは部屋の中を見まわし、俺に気づいた。部屋の中は暗かったが、胸ポケットに入れたままの石がパープルの強い光を放ってアピールしていたのだ。猛獣のように、巨漢の影が俺に突進して来る。

　俺は、飛びすさって避けた。

　振り下ろされた男の腕が壁にめりこみ、電話機をあえなく破壊する。メキリというイヤな音。武器はなく、腕そのものが凶器らしい。さっき資料室のベンチを折ったのも、おそらくコイツの腕だろう。あれにまともに殴られたら、骨の二三本は、軽く折れるに違いない。

　ドアが閉まって、あたりは再び闇になった。円盤カッターの回転音は続き、冷却装置から漏れた冷気もいっこうに止まる気配はない。時折、天井からショートしたコードの火花が散る。

　この異常な事態において、俺の胸の石は相変わらず煌々と発光し、格好の的になっている。

　風を切って、男の腕が迫る。俺はカンで避けるが、何しろ暗くて見えない。円盤型カッター等の物騒な暴走機器がどこにあるのかもわからない。気づけばあっという間に、絶体絶命に陥っている。

　いっそ石を放り出して逃げようかとも思ったが、胸ポケットに手を突っ込むような余裕さえない。

　凶器の腕を持ったヤツの鼻息が荒いのが、唯一の手がかりで、俺はひっくり返りもんどり打ちながら、その獣じみた唸り声から逃げ回った。

　逃げながら、どんどん奥へと追い詰められていく。機器はあちこちに置いてあるらしく、俺はしょっちゅう引っかかっては物を倒した。そのたびに石は誤作動を引き起こし、あるいは俺自身間違ってスイッチを入れたりした。着慣れない白衣の裾が、そのへんの物を倒したり、ひっかかったりしてさらに混乱を大きくする。

　石の光を目がけて追ってくるヤツにも機器は見えないらしく、ぶつかったりつまづいたりするたびに、その頑丈な手足で破壊する。破壊された機器は、派手にスパークし、ヤツの凶々しい姿を断片的に浮かび上がらせた。

　しっちゃかめっちゃかの地獄絵図である。

　ついに部屋の角に追い詰められて、俺は叫んだ。

「助けろアカシ、死ぬぞこのバカ！」

　泣き言より先に、ここにはいない友人への罵声が口をつくあたりが俺らしい。

　絶妙のタイミングで、入口のドアが開く。

　非常灯の薄闇に浮かぶ細面の輪郭は、今度こそアカシだった。

「カーマイン！」

　俺を呼ぶアカシの声が、凛と響く。

　やっと、来てくれたのだ。

　ほっと安堵しかけてから、目の前の巨漢の腕がまさに俺に振り下ろされようとしているシルエットに気づいた。あんなメガネが来たところで、ピンチなことにかわりはない。

　だがヤツも、突然現れたアカシに気を取られたらしい。一瞬、動きが止まる。

　その隙に、俺は大男の股の下をくぐった。女には見せられない情けない構図だが、他に脱出口もない。廊下からの光を頼りに、障害物を越えて出口に走る。

　アカシもこちらへ駆け寄ってくる。

　その背後で扉が閉まった。あたりはまた闇に沈む。

　どうにも、イヤな予感がした。

「おい、まさかドア」

　アカシに助け起こされながら、予感を口にする。

「そのまさかのようですね、カーマイン。私はドアを閉めていません。誤作動で閉じ込められたようです」

　冷静な答えが返ってくる。

「って、どーすんだ！」

　やはり、アカシが来たところで足しにはならない。下手をすれば、二人揃ってパープル化粧のイカれたヤツに殴り殺される。

　だがアカシはぽんと俺の肩を叩いて囁いた。

「ドアは、後の問題です。まずはアレをどうにかしましょう。罠を仕掛けますかね」

「罠？」

　聞き返す前に、アカシが俺を抱えて横に転がった。間一髪、背後から迫った腕が、ドアの電子ロックを破壊して派手にスパークさせる。これで、ドアは完全にイカれただろう。

　あっけに取られていると、腕を引っ張られ、今度は逆方向に転がされた。パープル化粧の次の攻撃を避けたらしい。すぐ傍らの床に、拳のめり込む重い音が響く。

「見えるのかよ、アカシ？」

「ええ、暗視スコープを持ってきましたのでね。あなたは無駄に動かないで」

　ニヤリと笑ったアカシの口元が見えたような気がしたのは、完全に気のせいだ。俺には、自分の胸で人体をも透かして発光するパープルの石だけが視界だったのだから。

「ヤツは、その石の光を目印にしているんでしょう。だったら、罠に誘いこむのは簡単です。あなたがおとりになればいい」

　暗闇の中、俺を抱えるようにして逃げまわりながら、いとも簡単に提案する。そう言いながら、手は素早く機器のパネルをいじっているらしい。カチカチ音がして、動いていなかった機器が作動を始める。

「罠って、機械を使うのか？　暴走しないか？」

　それでなくとも、さっきから余計なトラブルばかり招いてきた石である。だがアカシは、頓着しなかった。

「わかりませんね。試してみないと」

　いつもいつも思うのだが、土壇場でのアカシのこの余裕はどこから来るのか。いやむしろ土壇場だからこそ、アカシの本性が出るのかもしれない。いつものポーカーフェースの銀縁メガネの下の、好戦的で凶悪な本性。

　アカシは今、どんな表情をしているのだろう。

　手荒くアカシに腕を引かれ、あるいは襟首を掴まれて、パープル化粧から逃げまわりながら、ふと考える。そんな余裕はないというのに。

「準備オーケー。私が操作しますから、あなたはまっすぐに走って。十歩目で直角に右に伏せてください」

　肩を抱き寄せられ、耳元に囁かれた。そのまま体の向きを変えられて、トンと背中を押される。

「俺はおとりかよ、コノヤロ！」

　怒鳴って、俺は走った。こうなりゃ、運をアカシに任せるしかない。

　言われた通り十歩目で直角に右に伏せる。真っ直ぐ行けば十一歩目に踏み込むはずだった位置で、何か機械が作動する音が響く。

　バチッという一瞬のスパーク音。直後にウイイインという単調な唸りと、ガシャーンと硬いものが落下する音。ギュムウという奇声。

「罠にかかりましたよ、カーマイン」

　アカシに呼ばれて振り返る。

　さっきまでは動いていなかった電動ドリルが、今は高速回転している。粉塵避けの強化ガラスが周囲を覆い、中は作業用ランプで照らされている。箱型のガラス・カバーの内側には、パープルの化粧をした顔がベッタリ貼りついている。

　まさか、ドリルにえぐられているのではないかと驚いたが、巨漢は狭いガラスの中で器用に横向きブリッジの体勢を取り、ドリルの回転からは免れているようだった。そのかわり、どうにも身動きはできそうにない。

「ショートしたコードの電気ショックの後で、電動ドリルのカバーの中に入ってもらいました。それにしてもずいぶんと体の柔らかい人ですね。ここまで行くと、特異体質かもしれない」

　水槽の魚を観察するように、ガラスの中を覗きこんで、アカシが感嘆する。

　ドリルの作業用ランプに照らされたアカシは、いつものメガネではなく、金属製のゴーグルで目許を隠していた。さっき言っていた、暗視スコープというやつらしい。両目が筒状に突出した、旧式の悪役ロボットのようなゴーグルである。今にも目からビームが出そうだ。

　ゴーグルが顔の上半分を覆い、下から覗いた唇はかすかな笑いに歪んでいる。アゴのラインがシャープで端正な分、非人間的な凄みがある。並べて見ると、ガラスの中に閉じ込められたパープルの化粧面のほうが、まだ愛嬌があるかもしれない。

　近寄り難く、生き物の体温を感じさせない微笑。あるいはこっちが、アカシの本性なのか。

　俺は相変わらず、パープル化粧から逃げまわっていたときと同じく、床の上にへばったまま、身動きできずにいる。

「むしろ、我々のほうが危険かもしれませんね。カーマイン」

　アカシがスッとこっちへ屈む。

　俺は思わず、後ろに下がった。

　天井で火花が散って、焼け焦げたコードの束がブラリと垂れ下がる。いつのまにか、そこかしこに切れたコードがジャングルのように垂れ下がって、パチパチ火花を散らしている。それを、アカシは首を捻っただけで避けた。

「コードが落ちてきて危険です。とりあえずこの下へ」

　へたばっている俺の肩を両手で掴んで、傍らの作業テーブルの下に押しこむ。テーブルはそう大きくもなく、俺はうっかり頭をぶつけて慌てて首をすくめた。

　続いてアカシがもぐりこむと、二人は密着どころか、俺の膝の上にアカシが乗っかるような状態になった。それでも、アカシのケツはテーブルの外に出ているんじゃないだろうか。

「カーマイン。装置の暴走や、電流過多で焼け切れるコードは、その石のせいですか？　夕方までよりもずいぶん派手な光を放っているようですが」

　鼻と鼻をつき合わせるようにして、アカシが尋ねる。レンズの突出したゴーグルに至近距離から覗き込まれると、かなり不気味だ。目をそらしながら、俺はうなずいた。

「やっぱり、この石のせいだろうな」

　胸ポケットから石を取りだして、手のひらに載せる。半端な楕円のリングは、明るいパープルの光で周囲を照らした。不可思議な光は、触れるものを半透明に侵す。俺の手も、覗き込むアカシのアゴも。

「カーマイン。実は、この加工室の床下には、岩石粉砕用のダイナマイトがストックされています。少量ですが、ここでショートしているコードの火花から引火すれば、この部屋くらいは吹き飛ぶ量でしょう」

　淡々と説明するアカシの肩越しに、天井から雨のように降り注ぐ火花が見える。機器のゴムカバーなんかは、もう焦げてあやしい臭いの煙を上げ始めている。

「出口のドアは、電子ロックを破壊されていますから容易には開きません。警備室に助けを呼ぼうにも、内線電話まで壊されているようですね。この部屋は携帯電話の電波も遮断されていますし」

「それで」

　アカシは涼しい顔で回りくどい状況解説を並べているが、一言で片付けるならば八方塞がりである。俺は、その先を急かした。

「ドアをこじ開けて脱出口を作るか、その石を何とかするか、いずれかですが」

　アカシは俺の手から、石のリングをつまみ上げた。パープルの光が、アカシの指を透かし、ゴーグルに隠された目許を照らす。

　石を、どうするつもりなのだろう。

　ぼんやり眺めていると、不意に、ゴーグルの下の唇がニヤリと笑った。口を開けて、光る石のリングを呑み込む。

「ゲッ？　おいアカシ！」

　俺は慌てた。まさか、腹の中に収めることで、この石をどうにかできると思ったのだろうか？　無事ローズに返せば当面の俺のメシのタネになるというのに、アカシの腹なんぞを膨らますのに使えるか。

　石は、アカシの口の中でも強い光を放ち、細いアゴの輪郭を内側から透かしている。まだ、喉まで呑み込んではいない。

「このバカ、返せ！」

　俺は、アカシのアゴを掴んだ。力ずくでも、吐き出させてやる。

　だが同時に、アカシも俺の顔を両手で掴んだ。ぐっと、思わぬ力で引き寄せられる。噛みつくように、唇を合わせられた。

　こんなときに、いったいナニを考えているんだ。

　予測していなかった展開に、一瞬頭が真っ白になる。

　思わず見開いたまぶたに、ゴーグルの硬い感触が当たって痛い。

　俺は手を伸ばして、アカシのゴーグルをむしり取った。ゴーグルに引きずられて乱れた前髪をかきあげてやると、ようやくいつものアカシの顔が覗いた。

　寄せられた眉、華奢なラインの頬と、はにかみに閉じられたまぶた。内側から石の光に照らされて、パープルに透けている。

　俺は少し、安堵する。こけおどしのゴーグルをはずしてしまえば、アカシはアカシだ。これなら、アドバンテージは俺にある。

　掴んだアゴのちょうつがいに力をかけて、強引に口を開かせ、舌を差し込む。小さくアカシが吐息を漏らす。

　深く探ると、石のリングは、アカシの舌にはめられていた。

　指には余る、腕には細すぎるリング径は、温かい舌の中ほどにぴったりとはまっていた。冷たくなめらかな舌触りのタン・リング。まさか、こういう用途だったとは。

　吸い上げたくらいでは、リングは動かない。唾液が真空を包み、貼りついているのだ。

　舌先でリングの側面をつついてみるが、頑強に曲がった舌先がそれを拒む。なめらかなリングはとらえどころがなく、角度を変えて追いかけても、ぬるぬると逃げ回る。

　俺はいったん、リングから舌を離した。

　一度舌を抜き、もう一度差し込んで、上アゴの裏を一気に奥まで舐める。舌先が触れるか触れないかの、ギリギリの力加減がテクニックだ。

　ぎゅっと眉根を寄せて、アカシが反応する。

　逃げないよう、アカシの両耳を手のひらで塞いで、同じことを数回繰り返す。口の中が強張り、反対に弛緩し、従順になるまでには三十秒とかからない。ついでに隅々まで舌先でかき回して、すっかりやわらかくとろけたところを、音を立てて吸い上げる。

　アカシの舌のリングは、ついに動いた。

　舌の先に引っ掛けて、ぬるりと抜き取る。

「バカが。俺にキスで挑むなんざ、百年早い」

　戦利品を舌で弄びながら、俺は笑ってやった。まだ互いのアゴと顔をホールドしたままだ。すっかり熱くなった石が、二人の間に唾液に濡れて光る。

　唇を開き、恍惚とした表情で、アカシはうっすらと目を開いた。

「おさまりましたね、カーマイン」

　やや回りの悪い舌で、アカシが囁く。

「気が済んだみたいですよ、その石」

　もう一度言われて、やっと気付く。

　あたりの騒動が、すっかりおさまっていたのだ。あれほど騒がしかった火花の雨はやんでいて、暴走していた円盤型カッターもいつのまにか沈黙している。焼け焦げたゴムの異臭はまだ残っているが、火災の気配はない。

　あれほどメチャクチャだった災厄は、いつのまにか過ぎたようだ。

「マジ……？」

　俺の舌に乗ったリングも、もうさっきまでのような強烈な光は放っていない。淡く、闇に溶けそうにぼんやり光るだけだ。

　いつのまにおさまったのか。何故、おさまったのか。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。

　それなのに、アカシはまるで展開を知っていたように、現状をスルーして先の話をした。

「そろそろ、異変に気付いた警備室がドアを開けにきてくれるでしょう。あの紫の人たちを警備に引き渡したら、社の車であなたを送りますよ。引渡しの期限は正午でしたっけ？」

　アカシはあくまで淡々としている。もしかしたらパープル化粧に殴られるか、ダイナマイトで吹っ飛ぶかして、死にかけていたかもしれないという危機感は、この男にはないのだろうか。

「なあ、アカシ」

　じっと、アカシの顔を覗き込む。左右対称で、鉄面皮で、何を考えているのかが読み取れない。そのくせ何故か、この男の感情は、俺にだけはわかる気がするのは気のせいか。

「何です？」

　わずかに首をかしげるアカシの唇を、もう一度俺は塞いだ。驚いて抗うのを、押さえ込んで、リングが絡んだままの舌を差し込む。

　アカシ自身は何も言わなかったが、瞳が誘ったのだ。

　俺には、たしかにそう見えた。だから、俺も反応した。それが事実だ。

　愛に不誠実なものには災いをもたらす。そんな石の言い伝えなんか、知ったことか。

　穏やかなパープルに光る石のリングは、警備がドアを開けるまでの数分間、何度も二人の舌を行き交った。