扉を開けた途端、飛び込んできたのは金色の獣である。

　瞬く間に、力ずくで組み伏せられ、ドクトルはうめいた。はずみで飛んだ眼鏡のレンズが石の床に砕ける。

　月光が蒼くふちどる黒い影がのしかかり、荒い息遣いが耳を打つ。爪なのか、鋭利なものが喉笛に食い込んで熱い。

　顔に覆い被さるように垂れてくる、うねる金の髪。その間から、爛々と光を放つ金色の眼。

「久しぶりだな、ドクトル」

　獣はそう言って、歯を剥いた。或いは、笑ったのかもしれない。逆光の中そこだけ白い糸切り歯に、ドクトルはようやくぼやけた焦点を結ぶ。

　そして、息を呑んだ。

「ヨハン」

　呆然と、呟く。ドクトルを組み強いている金色の獣は、死んだはずの息子・ヨハンの顔をしていたのである。

「俺はヨハンじゃないぜ。よく見な、ドクトル」

　ヨハンの顔をした獣が、両手でドクトルの首を締め上げる。ドクトルは仰向けにのけぞり、徐々に狭くなる視界に、ヨハンの姿を探した。

　ドアからの月明かりが届かぬ奥、ランプに丸く照らされて、水槽の底に横たわる白い裸体が見える。

　あれが、ヨハン。それでは、この獣は。

　急速な窒息に、ドクトルの視界は暗転した。

◆

　ドクトルが息子のヨハンを連れて、この山上の廃屋に移り住んだのは、春の頃である。

　十三歳のヨハンは、奇病を発症していた。

　そのウイルスに感染すると、高熱が何日も続き、やがて全身の皮膚がひび割れて破れ、出血して確実に死に至る。治療法は、現代医学には存在しない。

　高山地帯の少数民族の村で見つかったこの病は、俗にオオカミ熱と呼ばれていた。同じウイルスに感染したオオカミの血をすすれば、治癒することもあるという、村の言い伝えのためである。言い伝えに医学的裏付けは何もなく、一種の迷信には過ぎなかったのだが。

　ドクトルはこの迷信に一縷の望みをかけた。ヨハンを連れて人里を離れ、山上の檻に実験体として数十頭のオオカミを飼った。

　オオカミから血清を作ることを、医学的に試みようとしたのである。

　その成果が、あったのかどうか。奇跡的に、ヨハンは生き延びた。通常、発症して数週間で死に至るところを、半年も永らえたのである。

　それでもやはり、ヨハンは死んだ。

　全身から血を滲ませて横たわるヨハンの遺体を、ドクトルは丁寧に拭った。もう流れなくなった血を拭い取ってしまえば、失血のために青白く透き通った肌に浮かぶ白い亀裂は、描かれた紋様のように美しい。枕に沈む金の髪はやわらかく渦巻いて、静かに呼吸をしているようにさえ見える。

　早逝した母親のマリアと同じ、眠るような死に顔だった。ドクトルは傍にうずくまり、じっとその顔を眺めた。

　もう、死んでいる。医師であるドクトルにはよくわかっていたが、埋葬するに忍びなかった。白い肌と金の髪を焼き、或いはそのまま、暗い土に埋めるなどできなかった。

　人里離れた山中で、それを咎める者もない。ヨハンの死を、知らせるべき者もない。

　やがて死後硬直がはじまり、かすかに身じろぎ収縮し、また弛緩していくヨハンの傍らで、ドクトルはただ一人、じっとレンズ越しの視線を注いでいた。

　やがて臓物が熟れはじめる前に、ドクトルはヨハンの体を抱き上げ、外に連れ出した。青い月に照らされて、小屋の外には、ワインの貯蔵庫がある。もともと、葡萄畑に隣接した葡萄酒の醸造小屋だったのだ。

　石作りのひんやりした貯蔵庫には、今はドクトルの研究標本が並んでいる。貯蔵庫の最奥の、ひときわ大きな空の水槽の底に、ドクトルはヨハンを横たえた。

　これからどうしようというわけでもない。このままではヨハンは腐る。保存しなければ、と思いついただけだ。ただどうすればよいのかは、皆目わからなかった。

　ヨハンが死んだのに、自分はどうして、ここに一人存在しているのだろう。

　息子が死んで、ただ一人きりでドクトルが残る。充分に予測可能な事態であったにもかかわらず、その後どうすべきか、ドクトルは考えたこともなかったのだ。

　ランプの朱い光で水槽のヨハンを照らし、ドクトルは傍らに座り込んだ。

　床に転がっていた瓶を拾い、崩れたコルクを歯で抜いて口に含む。

　長いこと忘れられていたであろう饐えた葡萄酒は、まるで人の静脈のように濃厚で、その芳香だけで眩暈を誘った。

◆

　疼痛に目を開くと、目の前でヨハンが笑っている。金の髪に金の瞳。白い頬を切り裂いて、開いた朱い口から生き物のような舌が覗く。血の、においがする。

　仰向けに倒れたドクトルの上に、四つ足でのしかかっている。

「思ったとおり、あんたは美味いな。ドクトル」

　ヨハンの顔をした獣は、言った。眼に禍々しい光を宿したそれは、ヨハンではありえない。

「……ヨハン？」

　けれどドクトルの口をついたのは、やはり息子の名前だった。とうに、死んだはずの。

「俺はヨハンじゃない。あんたのヨハンは、もう死体だ」

　獣は言って、ドクトルの額を舐めた。倒れたはずみに切れていたのか、じくりとしみる。

　額を舐めた舌は、まぶたを過ぎて頬に伝い、切れた唇をかすめて、喉に落ちた。犬歯をやわらかい喉笛に突きたてられ、ドクトルはうめく。

「何をしている、ヨハン」

　身じろいだが、想像をはるかに超える力で押さえ込まれている。獣の体はドクトルより明らかに小さい。しかし獰猛な筋肉が、物理的な比重を軽々と凌駕する。

　喉笛の皮膚だけを剥いで、獣の牙が離れる。続く激痛に、ドクトルは喘いだ。

　逃れようともがくドクトルを力ずくで押さえこんだまま、牙はさらに下へと落ちる。鎖骨を覆う薄い皮膚ごと衣服をくわえ、獲物の肉をちぎる獣の勢いで引き裂く。白衣が悲鳴をあげて破れ、ボタンがちぎれ飛んだ。

　ドクトルの肉を食らおうとしているのか、衣服を裂いて嬲っているだけなのか、わからない。ただ牙と爪とが動くたびに、ドクトルの白衣と青白い肌とが裂け、鮮血に染まる。獣の牙からからしたたる血のにおいは、ドクトル自身のものだった。

　疼痛が途切れなく襲い、ドクトルの喉から苦痛とも拒絶ともつかぬ叫びが漏れる。

「やめろ、ヨハン」

　叫び声に、ヨハンの顔が再び視界に現れた。丸みを帯びた白い頬に、赤黒い血をべったり塗りつけている。

「うるさい、ドクトル。それとも先に、その舌を噛み切ってやろうか？」

　金の髪が覆い被さってくる。ドクトルの血を存分に吸った舌が、口腔にもぐりこみ、中をまさぐる。切れていた口の中の血を、吸い上げている。

　文字通り貪るような接吻に、ドクトルは眩暈を覚えた。明滅する視界に、ヨハンの金の瞳が爛々と光っている。

　唇を離れた獣の口が、今度は耳に移行する。耳朶をちぎれる強さで噛みながら、熱い吐息と舌が耳孔に入り込んでくる。

「あんたのヨハンが死んで、あんたは生きたまま腐ろうとしている。だからまだ温かいうちに、あんたの生きた血肉を貪らせろ。俺は、ずっとあんたを食いたいと思っていた」

　獣の唸りにも似たその響きは、不思議に抗いがたい蟲惑をはらみ、ドクトルはあきらめたように目を閉じた。

◆

　性器を、舐められていた。快感を目的とした愛撫ではなく、ただ追い立て、狩ることを目的とした、獣の行為だ。

　それでもドクトルは、自分の体が反応していることに気付いた。

　妻のマリアが死んでから、誰とも交わったことはない。病弱で幼いヨハンと、静かで穏やかな日々を過ごしてきた。互いに慈しみ、睦みあうことは知っていても、蹂躙し辱めるような情交は知らない。

　引き裂かれた衣服の間から、屹立している己の性器に、淫乱な獣の舌が絡んでいる。時折歯を立てられて、喘ぐ。喘ぎながら、腰をくねらせて愉悦を示す。

　獣の息遣いと、器官の絡む卑猥な音が石作りの空間に響く。血のにおいと、雄のにおいが充満している。開いたままの戸口から差し込む蒼い月が、獣に犯されるドクトルの裸体を嬲る。月光の届かぬ奥の暗闇に、冷たいヨハンが眠っている。

　不意に吸い上げられて、ドクトルは身震いした。根元まで、獣に飲み込まれ、しゃぶられている。あふれたドクトルを嚥下する音が、聞こえる。

　目の前には、獣の陽物が押し付けられている。仰向けになったドクトルの上に四つ足をついて、獣はドクトルの股間を貪り、獣の陽物はドクトルの唇に触れているのだ。

　獣の舌が、男性器の裏を伝い、腿の間にもぐりこむ。反応を見ながら道を伝い、肛門に達する。思わず跳ねたドクトルの腰を、獣は裏返すように膝から抱え、舌を内部に差し込んだ。中で、うねうねと蠢く。

「うあっ、あぁ……ヨハン！」

　この期に及んで何故、息子の名前が口をつくのか。幼くして死んだ息子が、このような獣として蘇るなどありえはしないのに。

「うるさい、ドクトル」

　獣の腰が動いて、陽物をさらに押し付けてくる。小さな体には似合わぬ、発情した雄の、決して幼いヨハンのものではありえない、それ。

　強引に、口腔にねじこまれる。自分の血の味と、獣の雄の味。まるで、饐えた葡萄酒のように濃厚で、眩暈を誘う。

　ドクトルはきつく目を閉じてそれを味わった。ようやく身近に感じ始めた死の、甘く美しい味がした。

◆

　どれくらい、口を蹂躙されていたのか。

　不意に引き抜かれ、転がされて、うつ伏せにされた。背中に残っていた白衣を、牙と爪とが皮膚ごと引き裂いていく。

　裂けた肌に獣の舌が這うと、ドクトルは喘ぎを漏らす。

　苦痛とも喜悦ともつかないその声に、背中で獣が吐息を笑いに震わせる。

「あんた想像以上の美味だぜ、ドクトル」

　ドクトルの髪をつかんで、獣が耳元で揶揄する。その声にさえ、ドクトルは背を小さく波打たせる。

　以前は淡い金髪だったドクトルの髪は、ヨハンが病んで以来、月光のような冷たい銀色になり、今は赤黒い体液とほこりとにまみれている。体中の裂傷が、石の床の硬さに疼く。

「イイんだろ、あんた」

　からかいに震えながら何度も頷く。まなじりからあふれた涙が、石の床にしみをつくる。石の上には黒いしみが既にいくつもあり、月光を鈍く反射している。

　そのしみに頬を押し付けられて、腰だけを高々と持ち上げられる。尻の肉に、獣の爪が食い込んでいる。

　いきなり、押し入ってきた。

　したたるほどに互いの唾液が絡んではいたが、そもそも受け入れるべき部分ではない器官の、粘膜と筋が音を立てて裂けていくのがわかる。肌についた無数の傷よりも、鋭い痛みを伴う亀裂が無数に走る。

　だがその激痛にさえ、ドクトルは全身をわななかせて、愉悦を訴えた。

「あ、う、ああ、ぁア……ヨハン！」

　息子の名を、呼ぶ。

　途端に、腰を打ち付けられた。勢いで顔面が石の床につぶれる。石の床に爪を立て、頬を床に擦りながら、ドクトルは息をはずませて喘いだ。

　まるで壊そうとするかのように、激しく揺すぶられる。中のものが摩擦を帯びて出入りし、裂傷から熱い血があふれて下肢を伝う。

　背中に、獣が覆い被さってくる。荒い吐息が無防備な背を嬲り、痩せて浮かんだ肩甲骨に、牙が突きたてられる。音を立てて、血をすすられる。

　自分の血肉は、うまいのだろうか。

　鋭い痛みと体温とともに流れ出ていく血が、被虐の果ての甘美な死をドクトルに予感させた。

「……ヨハン、ヨハン」

　うわごとのように、嗚咽の合間に、ドクトルは息子の名を呼んだ。

　蒼い月光の届かぬ奥の暗がりに、ドクトルが愛した息子の遺体は横たわっている。水槽の底に冷たく沈む、裂傷の紋様を刻み込まれた白い肌、うねる金の髪、眠るように安らかな死に顔。

　何故、神はヨハンの命を奪ったのか。ドクトル一人を、何もない闇に残したのか。

　ドクトルはいつ、ヨハンのもとに行けるのか。

「あんたはまだ、そいつを呼ぶのか」

　誰かに、訊かれた。なじり、咎めるような声ではない。むしろ、哀願するような響きだ。

　だがドクトルは首を振り、なおもヨハンを呼び続ける。

　ヨハンの名を呼ぶことを、禁じられるくらいなら。

「いっそ、殺し──」

　ドクトルの呟きは、獣のたぎる脈動に両断された。

　体内を、燃えるように熱い、爪よりも牙よりも鋭い、壮絶な刺激が貫いていく。ドクトルは一瞬硬直した背を、大きくしならせて、それから弛緩した。

◆

　だが冷たい床の感触は、ドクトルがまだ医学的に死に至っていないことを自覚させた。痺れた感覚のあちこちから、ゆっくりと激痛が蘇ってくる。

「あんたにはただの実験動物だったかもしれないがな」

　すぐ傍で、誰かが低く囁いている。

「俺たちはあんたを好きだったぜ。あんたが息子に執着するように、俺たちはたぶんあんたに執着していた。檻の中では、あんただけが世界だったからな」

　身じろいだはずみに、どこかの傷が裂けた。外も中も、痛い。これでもまだ、人は死ねないのか。

「暗い檻に閉じ込めて、無表情にエサと病原菌とを交互にくれるあんたが、好きだった。次々に仲間を殺して、血清を試験管に集めるあんたが、それでも好きだった。息子が死んで、あんたがフヌケた隙に檻を破って出てみたが、外には何もない。俺たちの世界はやっぱりあんただけなんだ、ドクトル」

　うつ伏せの体を、仰向けに転がされる。震動で肛門から、内部に注ぎ込まれていたものがあふれる。急激に冷めていく自分の体温よりもはるかに熱い、獣の生命の温もり。

「あんたの愛するヨハンが死んで、どうやらあんたの魂まで一緒に逝ったらしいな。このままだとあんた、息子の死体の傍でのたれ死んで、やがて腐るだろう。だから俺たちは、まだ温かいうちに、あんたの血肉を最後の一切れまで貪るぜ。いいだろう、ドクトル？」

　唇を、舐められた。親にはぐれた獣の仔がするような、幼い仕草だ。

　ドクトルはうっすらと目を開いた。

　金色の獣が、じっと覗き込んでいる。先ほどまでのヨハンの姿は、蒼い月と饐えた葡萄酒が見せた幻だったのか。爛々と光る瞳は、どこか淋しげだ。

　……ヴォルフ？

　ドクトルは呼んだ。切れた唇、破れた喉から発する音はかすれて、声にはならない。

　呼ばれた獣は、月光の中でびくりと震えた。

　開いたままの扉から、足音を忍ばせて数十頭の獣が入ってくる気配がある。歩み寄る影が、ドクトルの上に落ちる。複数の獣の息遣いが耳を打つ。

　まだ温かい血肉を、獣たちが食らいに来たのだ。

　ドクトルは何故か安堵した。

◆

　ヴォルフ。

　それはヨハンのために実験体としていた獣の種族の、ドクトルの故郷の言葉での呼称である。