いや、手がかりがあまりにもないことが、逆に手がかりに思われた。ファーストフード・ショップで貧しい夕食を頬張りながら、俺は考える。

　シュバルツは、真っ黒な毛並みの大型犬だ。単体で街をフラついていたのであれば、目撃者がいないはずがない。それでも一通りの聞き込みにも関わらず、近隣の住人に誰一人見覚えがないということは、実際にシュバルツは街を歩いてはいないのだ。

　とは言え、まだ邸内にいるという可能性はきわめて低い。あの屋敷のことは、植え込みの数から夫人のベッドの裏側の模様まで熟知している俺が、入念に探し回った。それでも、シュバルツはいない。

　となると、結論は一つ。魔法でなければ、シュバルツは邸宅の敷地内で拉致されたのだ。

　大きな布か、箱か、大型犬の姿を隠す媒体を使い、外へ運び出す。犬の姿が見えなければ、近隣の住民の記憶にも残らない。しかも賢い犬である。よほど犬の扱いに慣れているか、内部に協力者でもない限り、犯行は困難だ。そしてこの時点まで身代金要求等がないということは、部外者による営利目的の略取ではあり得ない。

　何かがつながる気がした。やはり、手がかりはまだ邸内にある。

　夜はとうに更けていたが、俺はハンバーガーの残りをコーラで流し込むと、ブラックマン宅に向かった。

◆

　青銅の瀟洒な柵でできた門は、左右上下の四カ所にアンティークなライトを灯し、景観と防犯の双方に役立てている。その四つのライトが地面に描く輪のギリギリ外側を、怪しい人影がうごめいているのだ。

　シルエットから察するに、中肉中背の男だ。チューリップ・ハットを目深にかぶり、長いトレンチコートの襟をわざとらしく立て、夜だというのにサングラスに、マスクまでしている。それが、地に描かれたライトの輪に踏み込まないように注意しつつ、それでも周囲の闇よりは明るい門の近くを落ち着きなくウロウロと歩き回り、時折伸び上がってはブラックマン宅を窺っている。格好といい、行動といい、まるで絵に描いたような不審人物である。

　俺はあまりのわざとらしさに笑いを吹き出しそうになった口元を抑え、足音をひそめた。

　シュバルツの失踪に関連する人物かもしれない。

　忍び足で、闇に紛れ、不審人物の背後を取る。間抜けな不審人物は俺に気づく気配もなく、ほんの少し手を伸ばせば、捕獲だ。

　だが俺が襲いかかろうとした瞬間、眩しい光が視界を白く塞いだ。車のサーチライトだ。エンジン音が近づいて急ブレーキを踏む。目を腕でかばう俺の目の前で、不審人物を横からかっさらい、開いたドアの中に吸い込んだ。そのまま、猛スピードで走り去る。

「何だあ、ありゃあ」

　車の残した排ガスの中で、俺は咳をこぼす。

　誘拐の現場に遭遇したのか。いやむしろ、俺からあの不審人物を守ったのか。サーチライトと暗がりの狭間の出来事で、ナンバーを確認する暇もなかった。どこにでもある、黒塗りの車だったと思う。

　そして一瞬、サーチライトに照らし出された、チューリップ・ハットにトレンチコートの怪しい不審人物。俺はどこかでアイツを知っているはずだと思った。どこでだったかが、どうにも思い出せないが。

　顎に手を当てて考えてみたところで、住宅街の静寂が続くばかりだ。

　俺は記憶の捜索をいったん中断することにして、ブラックマン宅の門に向かった。

◆

　俺は当然食い下がった。

　ことは失踪である。時間が経てば経つほど、手がかりは失われて行く。内部に犯人がいるなら、なおさらだ。

　インターホンを連打しつつ、がしゃがしゃと門の柵を揺らす。あまりスマートではないやり方だが、非常手段だ。門から屋敷までは遠いが、夫人の部屋に物音が届く可能性はある。たとえ夫人が実際には気づかずとも、夫人が気づく可能性だけで、顔色を変えるヤツがいるはずだ。

　案の定、玄関が開いて、人影が小走りに出てきた。執事のクロードだ。

「静かにしないか！　奥様はお休みだ」

　門の柵越しに俺をにらみつける。夫人の前ではないので、いつもより態度がでかい。

「ちょうどよかった。アンタに聞きたいことがある。奥様は起こさなくていいから、中に入れてくれないかな？」

　小首を傾げて提案してみる。可愛いコぶってみたところで、コイツに効果がないのはわかっているのだが。

「お前なんかと話すことはない。明日また出直せ。いや、明日も取り込んでいるだろうから、当面この屋敷には近づくな」

　執事はアゴを突き出して、吐き捨てた。愛嬌を振りまくのはどうも逆効果だったようだ。

　仕方なく、俺は脅迫に入る。

「入れてくれなきゃ、ここで騒ぐぜ？　シュバルツの行方は、執事が知っているはずだってね」

「なっ！」

　執事が眉と口ヒゲとを同時に逆立てる。

「な、何を言っている！？　いったい何を根拠にそんなデタラメを……！」

　柵にとりついて泡を吹く執事に、俺は片目をつぶってにやりと笑った。

「俺とゆっくり話したほうがいいんじゃない？　こんな往来じゃなくて、密室でさ。でなきゃ、ここから奥様に聞こえるよう、セレナーデにして歌ってもいいぜ？　俺の甘い声でさ」

　今回の俺の役回りはとことんダーティーらしい。鷲鼻の頭にぎゅっと皺を寄せて、執事はゴクリと唾と怒号を飲み込んだ。電子ロックを内側から解除して、門を開く。

「話だけは聞こう。騒がれてはたまらん」

「話せるね、クロード」

　こめかみに血管をピクピクさせる執事の後について、俺は再びブラックマン宅へと招かれた。

　時刻は既に、二十二時。主人のいないブラックマン宅は、静まり返ってはいるが、どこか落ち着かない様子だった。

◆

　通されたのは客間ではなく、どうやら使用人用の休憩室だ。入り口のドアを背に、執事が仁王立ちで腕組みしている。

　部屋には飾り絵の一枚もなく、椅子とテーブルのセットだけが置いてある。天上から吊された灯りはアンティークなオレンジで、執事の顔にくっきりと陰影を刻んだ。

　俺は手近な椅子を引き寄せると、革張りの背を股に挟んで座った。古びて見えるが、上等の椅子で、クッションがほどよく利いている。

「さんざん街を探し回ってみたけど、シュバルツの目撃情報はまったくなかったよ」

　椅子の背に頬杖をついて、俺は下から執事を見上げる。

「それは、お前が無能な探偵だからだろう」

　執事の鼻の穴は大きくふくらみ、口ヒゲが定期的に荒い鼻息に震えている。至近距離から冷静に観察すると、面白いヤツではある。

「たしかに自分で有能とは言い張らないけどね。別に無能でも、聞き込みくらいはできるよ。あれだけデカイ見事なワンちゃんだ、フラフラ街中をウロついてりゃ、誰かの記憶には残るはずだ。それがまったく目撃されていないとなると、街には出ていないってことになる」

　クッと肩を揺らして、執事は大げさに笑った。

「ハハハッ！　そりゃあ、そうなるだろうな。それで、シュバルツはどこにいる？　まだこの屋敷にいるとでも？　お前は無能の報告に来たのか？」

　俺が大した情報を得ていないので、安堵したらしい。急に余裕を取り戻したようだ。

　だがその反応は、逆に俺の確信を深めた。

「いや、この屋敷にもシュバルツは間違いなくいない。探したからな、俺が隅々まできっちり。すると、残るのは、シュバルツの姿を消して屋敷の外に連れ出した可能性、だけになる」

　どう、罠にかけるか。俺は慎重に言葉を選ぶ。今は夫人がそばにいない。執事を相手に、憶測だけですべてをぶちまけるのは、まだ危険だ。

「シュバルツの姿を消す？　お前は何を言っているんだ？　犯人は魔法使いか？　ハッ、ばかばかしい」

　執事が両手を広げて空を掴む。わかりやすいヤツだ。

「まあ、マジックのタネはいくらでもあるよ。暗幕でも、鏡を張ったびっくり箱でも。ところで昨日、ご主人の出張の支度は誰がした？」

　不意に投げられた問いに、執事が一瞬動きを止める。

「……奥様だ。いつもそうだ」

「トランクは、いくつ？」

　目を細めて、俺は畳みかける。

「……し、知らない。奥様に聞け」

　一呼吸遅れて、俺の意図に気づいたらしい。執事が言葉を詰まらせる。

「じゃあ同じ質問を、荷物を取りに来た会社の人にしてもいいかな？　奥様が荷造りしたトランクの数と、会社の人がセスナに積み込んだトランクの数と、数合わせをしてみても？」

　執事が目を剥いて、グウと言った。意地でもグウの音だけは発するらしい。シャレの利いたヤツだ。

「それと、もうひとつ。シュバルツは確か、ご主人の他には、執事でないと散歩に行くのもいやがるって奥様が仰っていたな。逆を言えば、アンタなら、賢いシュバルツを誘導できるんだよな？」

　にやりと笑う。

「おっ、お前！　何が言いたい？　わた、私がシュバルツをトランクに入れて、外に出したとでも……！」

　執事が猛然と襲いかかり、両手で俺の胸ぐらを掴み上げた。椅子に置いていた尻が、引きずり上げられて数センチ宙に浮く。呆れた馬鹿力だ。

「そういう可能性もあるなってだけだよ。けど、そんなことをする動機がアンタにはないだろ、クロード？」

　なだめるように、執事の腕を叩く。

　実際、可能性がそれしか残されておらず、執事の言動がいかに怪しかろうと、証拠もなければ、そもそもの動機が謎なのだ。今の時点では、とても夫人にも話せない。

　舌打ちとともに放り出されて、何とか着地する。乱れた襟を手で直しつつ、俺はなおも執事を挑発する。

「続きは、奥様が目覚めるのを待ってからな。それまで、ご主人のトランク・コレクションでも見せてもらおうかな。ああ、案内はいらないよ。親切なメイドさんにでも聞くからさ」

　見るからに狼狽した執事の態度で、推理の方向性の確信は取れた。俺は執事の横をすり抜けて、部屋を出ようとする。これ以上、こいつと二人きりでいるのはまずい。

　だが部屋の戸は丁寧に施錠されていた。この部屋に入ったときに、執事が後ろ手で締めていたらしい。用心深いヤツだ。

　開錠に手間取った一瞬の隙に、後ろから肩を掴まれる。

　振り向けば、ごく間近にオレンジの灯りに照らされた執事の顔が迫っていた。

　逆立った濃い眉と口ヒゲ、もみあげに縁取られた男らしい輪郭、怒りに輝くブルーグレーの鋭い目。パーツ一つ一つを見れば、苦み走ったいい男ではあるのだが、今はとにかく形相がもの凄い。

「離せよ。肩が痛い」

　愛想笑いを作ってみたところで、離すわけがない。ギリギリと指が肩に食い込んでくる。

「お前」

　と、執事がヒゲの下の口を開いた瞬間、電子音が響いた。

　音源は、ヤツの左ポケット。電話の子機だ。会社からの連絡待ちで、わざわざ持ち歩いていたのだろう。俺にとっては救いの神だ。

「電話だぜ？」

　俺に言われるまでもなく、執事が電話にとりつく。その隙に俺は、内鍵を開けて廊下に脱出する。

　一歩外に出ると、夫人が立っていた。

　部屋着の上にシルクのガウンをまとっている。今の今まで眠っていたのだろう。電話のベルで起きてきたにしては、タイミングが早すぎる気がするが。

「会社からの電話ね？　代わるわ、クロード」

　有無を言わさず、夫人がクロードから受話器を奪い取る。

「……はい、はい。……それはいつ？　わかりました。次のご連絡をお待ちしますわ」

　通話を切って、夫人がひとつため息をつく。てっきり取り乱すかと思ったが、思いのほか夫人は冷静だった。

「状況は絶望的、だそうよ。セスナが不時着したと思われる洋上は現在激しい嵐で、まったく捜索できない状況だそうよ。捜索開始の目処は立たず、わかり次第また連絡をくれるそうよ」

　誰にともなく、目を伏せたまま淡々と報告する。執事も俺も、何と相づちを打っていいのかわからず、ただ息を呑んだ。

「それで、シュバルツのことが何かわかったのかしら、カーマイン？」

　夫人が顔を上げて、正面から俺を見つめる。

　正直、驚いた。ブラックマン社長のことが心配で、犬どころじゃないはずじゃないか。

　夫人の背後で、執事が二重の意味で目を白黒させている。おそらく主人の急に動揺しているのと、俺が余計なことをしゃべるんじゃないかと慌てているのだ。

「え、ええ。可能性が絞れた程度で、まだ調査が必要です」

　俺は慎重に言葉を濁した。

　今はまだ、執事を決定的に敵に回すのはまずい。

「つきましては、ご主人の持ち物を調べさせていただきたいのですが」

　夫人は青い目でじっと俺を見つめ、口を開いた。

「いいわ、メイドに案内させましょう。邸内は好きに調べていいわ。それと、ゲストルームを支度させるから、仮眠にでも使ってちょうだい」

　メイドの一人を呼んで、夫人が直接指示をする。頑固者の執事とは違って、従順なメイドのようだ。夜も更けて、かなり眠そうではあるが。

「カーマイン。あの人はまだ死んではいないわ。私にはわかる。だから一刻も早く、シュバルツを見つけておきたいの。お願いね」

　夫人がきっぱり宣言する。俺は、胸に手を当てて承った。