鞍上の嘉は、後れ毛を風に梳かせ、頬を日差しになぶらせている。

　その後を、潁は走った。潁には馬がない。馬上の主を追うには、自分の足で走るほかないのだ。

　幼い頃はよく嘉の遠乗りにこうして付き従ったが、この頃はすっかり留守役だった。久方ぶりに駿馬・黒皇の後を追うのは、どうにも息が切れた。

　いっそ置きざりにされたほうが気が楽だが、ときどき歩を緩めたり、無意味な弧を描いては、嘉は潁を待っている。久しく日中は行動を別にしていたので、潁が必死に追いかけてくるのを面白がってもいるらしい。

　その嘉が、ふと馬首を浮かせた。それまでとは方向を変えて、黒皇の腹を蹴る。

　何か、興を引くものを見つけたらしい。

「猫」

　息を弾ませて潁が追いつくと、手綱を握ったままの嘉が顎をしゃくった。

「あれは、何だ」

　潁は額の汗を拭いながら、顎で示された先に目を凝らす。嘉の示すはるか先、逆光に黒い点のように、奇妙な一団が見える。

　ひときわ大きな影は、天蓋のついた馬車である。身分ある者が乗るような、大仰なつくりだ。白い馬が引いている。だが、少しも進んではいない。その場で足踏みをするばかりだ。

　馬車の外に、人影がある。

　白馬の首を叩いているのは、おそらく御者であろう。ひどく小柄である。進まない馬を宥めたり、手綱に軽そうな体重をかけてぶらさがってみたりもするが、馬はびくともしない。

　馬車の脇には、白い衣。ひらひら風に舞う薄物重ねの裾の中身は、おそらく女だ。遠目には年の頃はわからないが、背筋がしゃんと伸びている。

　そして馬車の中から、次々まろび出てくる白い衣。袖が風に泳ぎ、裾が花のようにふくらむ。ひらひらした衣はいくつも続いて馬車を降り、黒い影の周囲を白い花びらで囲んだ。大きさは様々だが、まだ幼い子供たちのようである。

　裾や袖の長さからして、御者以外は、本来馬車の中に収まっているべき面々だろう。それが馬車の外、埃の舞う野外ににわらわらと群れているのは、実に奇妙な光景だった。

「馬車が止まって、往生しているようです。雨の後ですから、わだちにでもはまったのでしょう」

　見たままの状況を、潁は報告した。

　だが、そんなことは嘉とてわかっているはずだ。問題はその先、嘉が何に興味を持ったか、だ。場違いに華やかな一団の眺めをただ遠目に楽しんでいるだけなのか、あるいは、その構成員にまで興味が及んでいるか。

「声を、かけて参りますか」

　用心深く伺いを立てる。

　主の嘉は、滅多なことでは他者に興味を持たない。主に替わって、通りすがりの他人に声をかけるという経験は、潁にはほとんどなかった。

「いや」

　そう、答えたかどうか。

　嘉はいきなり馬腹を蹴った。砂塵を舞い上げて、黒皇が駆け出す。黒い馬影は見る間に馬車に迫り、馬上の主はひらりと身軽に飛び降りた。もう嘉は、彼方の一団の中に混ざっている。

　潁は瞬時ぽかんと口を開け、慌てて後を追った。

　まったく、今日の主はどうかしている。

　息を切らして追いつけば、嘉は馬車の下に手を突っ込んでいた。小柄な御者が、反対側に手をかけている。

　見れば、青銅の車輪は深々一尺ほども泥に埋まっている。どうやらこれを、持ち上げるつもりでいるらしい。決して小さな馬車ではない。丹塗りの車体に幌をかぶせた、それなりに豪奢な馬車だ。一人や二人の力では、到底持ち上がるまい。それでも、嘉は屈み込んで息を吸い込んだ。

「チッ」

　馬を駆けさせる短い舌打ちで、嘉が力を入れる。馬車を引く白馬が対応してぬかるんだ地を蹴る。御者はまだ腰を落としたままだ。よくわかっていないらしい。

　嘉が一旦力を抜く。車はぴくりとも動いていない。動くはずがないのだ。

　ちらりと、嘉が潁に目線をくれる。

　御者の横に、潁はついた。それを確認して、嘉が再び膝を沈める。

「チッ」

　二度目の舌打ちで、ずぼりと鈍い音がした。嘉が手をかけたほうから、車体が斜めに浮き上がっている。

　潁は、正直仰天した。まさか、本当に持ち上がるとは。

　前方で馬が嘶く。慌てて潁も渾身の力を絞る。ごろりと、車輪が前に回転した。

　傍らで、御者が間の抜けた溜息を漏らす。安堵とも、驚嘆ともつかない吐息だ。改めて見れば、御者は腰の曲がった老人である。どれほどの腕力を発揮できたかどうか。

　背後から、驚嘆の甲高い歓声が上がった。

　馬車の後方に寄り固まって、子供たちが握りしめた拳と目を丸くしている。少女ばかり五人で、背の高い女の裾にまつわりついていた。最初に馬車の外にいたのは、御者とこの女だろう。

「ありがとうございます」

　女が微笑み、優雅に礼をした。動きに連れてふわりと、薄物の袖が風にふくらむ。

　まさかこのような場所で、見も知らぬ男二人に遭遇しようとは、予測もしていなかったのだろう。身体の線がほのかに透けるほどの薄着で、化粧もきわめて薄い。

　それでも女は高く背筋を伸ばし、真正面から笑顔を向けている。物怖じしない、おおらかな気品が、女を顔立ちそのものよりも美しく見せた。

「大変助かりましたわ。私は沙氏と申します。あなた様は？」

　沙氏と名乗った女は、真っ直ぐ嘉を見据えて問いかけた。あまり愛想のない嘉に、正面から誰何する人物は珍しい。助力を求める視線が来れば、代わりに潁が答えるのだが、沙氏は真っ直ぐに嘉を見つめたままで、嘉も沙氏に顔を向けたままだ。

「……燕嘉です」

　ぼそりと嘉が答える。主には元々愛想がないのだ。答えただけ、ましかもしれぬ。それでも、初対面ならば普通は驚くだろう。

　後ろから肩書きを口添えすべきか、潁ははらはらと様子を伺ったが、間髪おかずに沙氏が後を引き取った。

「まあ、それでは、燕様の末のご子息でいらっしゃいますのね。こんなところでお会いできて光栄ですわ。王府では滅多にお目にかかれない幻の殿方と評判ですから」

　口元に指を当てて、沙氏がくすくすと笑う。

　この女は、いったいどういう女なのだろう。嘉の名前だけでその血筋に思い至り、王府に流れる噂まで耳にしているとは。そういえば、身につけている衣装もかんざしも決して華美ではないが、つくりが丁寧で品がいい。身分の高い、裕福な暮らしをしているだろうことは見て取れた。

　沙氏、とは「沙家の女」を意味し、名前そのものではない。この国の名門に沙家という名があったかどうか。一介の使用人である潁はよく知らない。

　笑っていた沙氏が、不意に顔色を変えた。嘉に近寄って、まじまじと身体を見る。

　並んでみると沙氏は背が高く、男にしては小柄な嘉と、ほとんど変わらない。嘉は急な接近に驚いたようだが、目を軽く開いただけで黙っていた。

「いけません。燕嘉様、お二人とも、お召し物が泥だらけですわ。お手も」

　なじる勢いで、沙氏は言った。

「もしよろしければ、拙宅でお召し替えください。まさかそのようなお姿で、燕家へお帰しするわけには参りません」

　さっきまでとは打って変わった、強い口調だ。笑っていたかと思えばたちまち眉をつり上げたり、沙氏の表情は素直でわかりやすかった。初対面の人間の前では、普通大人は表情を抑えるものだが。

　そういう子供のような無警戒さを見せながら、沙氏の言っていることはまるで母親の小言である。

　嘉は、日中は馬で野を駆け、木の上で眠っていたのだ。衣服くらい、汚れていて当然である。それをあえて気にかけてくれる心遣いが、こそばゆくも温かい。沙氏の人柄なのだろう。潁も思わず頬を緩める。

「燕嘉様、ご一緒してくださいますね？」

　沙氏が念を押す。当初は「もしよろしければ」だったはずだが、いつの間にか決定事項になっていたらしい。

　嘉は無言でうなずいた。併せて潁も深々と頭を垂れる。沙氏は安堵したようにふわりと微笑んだ。

「ではどうぞ、馬車の方へ。妹たちがおりますので、少々狭くなっておりますけれど」

　袖をひらめかせて馬車を指し示す。ぬかるみから引っ張り出したばかりの馬車には、沙氏の妹たちが御者に支えられて順に乗り込んでいるところだ。

　たしかに、大きく立派な馬車ではある。だが、これ以上乗員が増えるのには無理があるだろう。まして、少女ばかりの車に泥だらけの男二人が乗るわけにはいくまい。それに、嘉が乗ってきた黒皇もいる。

「坊っちゃま、私は黒皇を引いて歩きます」

　耳打ちすると、嘉も気がついたようだ。ちらりと潁を見てから、沙氏に呼びかける。

「沙氏殿。私は馬で参ります」

　手短かに告げて、ひらり騎乗する。その轡を、潁は取った。

　沙氏も予測していたらしく、軽い会釈だけで応えた。緩やかに進ませるよう御者に言いつけてから、幌の中に消える。

　紅く染まり始めた空の下、先ほどとは別の意味で奇妙な一団が、ゆっくりと進みはじめる。

　嘉が馬をゆっくりと歩ませ、その轡を潁が引いている。しかも、さっき知り合ったばかりの女の馬車を、まるで護衛するように進んでいるのだ。昨日までは、いやわずか一刻前までは、思いもつかなかった光景である。

　他人には興味を持たなかった嘉が、今日は見も知らぬ女の馬車を助けた。しかも、招かれて家まで訪ねようとしている。人嫌いの変わり者で通っている燕家の末息には、まずありえないことだ。

　これは、嘉の得意の気まぐれのひとつなのか。それとも、はかりがたい他の何かがあるのか。

　奇妙な気持ちで、潁は馬上の主を見上げた。

　西日の逆光に沈んで、表情はよく見えない。ただ、いつも不機嫌そうにつぐまれた口元から、わずかに力が抜けている。慣れぬ状況に戸惑っていると言うべきか、あるいは、微笑んでいると言ってもいいのかもしれぬ。潁の視線にも、まるで気づかぬようだ。

　嘉の唇がかすかに動いて何かを型どりかける。だが、声にはならない。間近にいる潁にさえ、それは聞き取れず、嘉は潁の方を振り向きもしない。

　主は、恋をしたのだ。

　そう潁は直感した。

◆

　日中は水辺で書を読みつつ昼寝し、夕方には沙家に招かれた。ごく簡潔に述べればそれだけだ。

　報告を受けた館の主は、沙氏の名に随分と驚いたようだ。

　聞けば王の異母妹の娘、すなわち姪に当たる女だという。朗らかで社交的な人物で、とりわけ王の気に入りらしい。

　身なりがよく、燕家の名にも、王府の噂にも精通していたわけだ。招かれた邸宅でも、驚くほど豪勢な歓待を受けた。

　嘉は、沙氏のことを知っていたのだろうか。

　館の主は、潁の報告に対して何も口を挟まなかった。

　引きずってでも王府へ出仕させろ、と腹を立てていたこともまるで反故になった。それどころか、王府よりも沙家への接点のほうが肝要であると考えたらしい。

　くれぐれも粗相のないように目付を頼む、とだけ言い含めて、主は潁を下がらせた。

　それから、嘉は頻繁に沙家を訪ねるようになった。

　相変わらず王府へは顔を出さない。王にも、沙家でばったり出くわすほうが、王府で謁見する機会より多いかもしれぬ。館の主ももう、何も言わなかった。

　沙家へ行くときは、潁は供を許された。

　沙家で、嘉は一日書を読んだり、天気のいい日には水辺へ出かけたりする。これまでとあまり変わらない生活、と言えばそうかもしれぬ。

　だが、嘉はもう口癖のようだった「つまらぬ」を口にしなくなった。口には出さずとも、表情でわかる。端で見ている方が赤面するほど、甘く華やいだ空気が二人の間にはあった。

　沙氏が傍らにないときでも、常に嘉のどこかに沙氏の気配がある。

　恋とは、そういうものなのかもしれぬ。

　いや、嘉と沙氏に関しては、それ以上のものと思えた。

　実は潁にも、最近懇意にしている女がいる。名を梅花という。

　四年前から燕家で主に給仕をしている娘で、潁より五歳下、つまり嘉と同じである。当初は子供だとばかり思っていたが、故郷を恋しがる思い出話などを聞いてやるうちに、いつの間にか女に育ち、そういう関係になった。恋というには日常に埋没しすぎる、馴れ合いの情である。

　少なくとも、潁にとってはそうであった。嘉と沙氏が落ちたような、ある種運命的な感慨は潁にはない。

　嘉の恋は、潁にとっては不可思議なものにも見えた。

　沙家の書庫にいれば、嘉は黙って書を読んでいる。まるで自宅にいるような顔で、ときどき居眠りしたりもしている。あるいは、家にいるよりもくつろいでいるのかもしれない。木の上で本を読んでいたときも、こんなふうだったのだろうか。

　嘉が書庫にいる間、沙氏は側にはいない。読書をしないのか、家にあるものは読み飽きてしまったのか。自室で刺繍をしていたり、まだ幼い妹たちの世話をしていたりする。

　昼頃になると、沙氏は器に果物を盛って、嘉を呼んだ。果物は沙氏の好物らしく、いつ訪ねてもふんだんに用意してある。

　同じ卓に沙氏の幼い妹たちと、日によっては父母や、ごくまれに伯父である王までもが遊びに来て並び、さらには潁のような使用人にも果物がふるまわれた。王の親族でありながら、身分の隔てなく大勢で集まるのがこの家の習慣らしい。

　大勢の人が卓を囲む中で、嘉と沙氏は取り立てて会話をするでもなかったが、沙氏のやわらかな話し声に嘉が時折目を上げてうなずくのが、ただそれだけで奇妙に面はゆかった。

　二人が目と目を合わせるだけで、もう周囲の空気が変わるのだ。

　水辺へ行くときには、沙氏と妹たちとが馬車に乗り、嘉と潁とが馬で付き添った。潁は平素は馬には乗らないが、このときだけは半ば無理強いで沙家の馬を与えられる。お前が歩くのを待っていたら遅くて仕方がない、と嘉も軽口を叩くのだ。

　そのくせ、一行は道行きそのものを楽しむように、ゆるゆるとしか進まない。

　幌の中から、姉妹の賑やかな話し声が響いてくる。響きはやがて、旋律を帯びて歌声になる。芯から朗らかな姉妹なのだ。

　嘉は話や歌にに加わるわけではないが、穏やかな微笑とも言える表情で、馬に揺られている。

　嘉のこんな表情を見るのは、潁にとってほっとする反面、同時にささやかな焦燥をも喚起した。焦燥、というのには誤謬があるかもしれぬ。だが、嫉妬と呼ぶべき立場にもない。

　潁にとって、いつまでも淋しげな子供に見えていた主が、これまで潁以外には決して見せようとしなかった満ち足りた表情を、沙氏には見せる。かつて妹の月季にもくつろいだ表情を見せたことがあったが、それは一時のことで、月季が目の前にいなければたちまち微笑は消えた。だが沙氏と過ごすようになってからは、沙氏が傍らになくとも他に誰がいようとも、嘉は穏やかな顔をしているようになった。感情を穏やかにたたえた瞳は、もうきかん気の子供のものではなく、大人の男の視線である。

　沙氏に恋をして、主はようやく外の世界に目を向けはじめたのだ。

　その分、嘉は潁を見なくなった。

　必要がなくなったのだ。

　潁はいわば嘉の内側にあって、外の世界ではない。嘉がまだ幼く、家の中に絶対の味方がなかった頃には、潁は唯一の守り役として存在していた。館の主にも嘉を頼むと言われ、過大な自負を抱いていた。

　だがもう、嘉は外に目を向けはじめた。沙氏を通して、内から外へと飛び立とうとしている。

　沙氏は、嘉の気性を理解したうえですべて受け入れる希有な女性であるだけでなく、魅力と才気にあふれ、富も身分も豊かな人脈も持ち合わせていた。

　嘉は沙家に出入りするだけで、王府での噂を漏れ聞き、国の要人に会い、ときには王とも話をする機会に恵まれた。

　もちろん沙家では、政治や軍事の話をするわけではない。それでも、沙氏を交えて世間話をするだけで、人嫌いで変わり者の燕嘉という人格に対する周囲の評価は、随分と和らいだ。

　ひどく無愛想だが、話ができないわけでもない。話してみれば、よく書を読み、教養もある。華奢に見えるが、騎馬に巧みで、腕力も強いらしい。何より、沙氏が高く評価している。

　王の気に入りの姪であり、明るく社交的で、王府にも出入りする沙氏自身の評価が、どうやら嘉の評判を上げるらしい。少し前には、王から后にと望まれたこともあったというほどの女だ。

　沙氏の力で、嘉は変わりつつある。

　遠からず、嘉は燕家を出るだろう。燕家の無力な末子だった過去を打ち捨てて、沙氏に手を取られ、物語のように輝かしい将来へと踏み出すのだ。

　おそらく潁は、嘉が捨てていく過去に残されるのだろう。その予感が、焦燥となって潁の胸をちりりと焼く。

　別々の馬に乗せられるよりは、走って追いかける方がはるかにましだと、潁は思った。だがそれも、馬上から幌から流れる音色に耳を傾ける嘉には届かぬのだろう。

　水辺では、嘉は昼寝をした。

　木の下に投げ出した沙氏の膝に頭を載せて、春蝉、と低く囁く。それが沙氏の字（あざな）なのだ。父母や妹たちは長姉を意味する「大姐」と呼ぶ中、嘉だけが彼女を字で呼ぶ。沙氏は、やさしく微笑んでうなずく。

　遠い昔、同じ水辺で遊んだことがあった。幼い嘉と、妹の月季と、潁と。裸で水遊びをする兄妹は、潁から見れば獣の子がじゃれているようなものだった。

　だが、沙氏と嘉とは、紛れもなく人間の男と女に見える。裾からわずかに覗く沙氏の足首でさえ、潁は直視できずに目を伏せる。

　周囲を取り囲んで、沙氏の幼い妹たちが遊んでいる。花を摘み、芋の葉に水を掬い、裾をめくって足先で浅瀬にしぶきを立てる。笑い声が風に乗り、さわさわと木の葉を鳴らす。

　二頭の馬に水を飲ませながら、潁はそれらの音をひどく遠くに聞いていた。