そうした姿形の醜さゆえに、クコールは森に捨てられた。

　森には、遠い昔に乳飲み子を亡くした気狂いの婆が棲んでいて、まだ赤ん坊のクコールを育ててくれた。だが、五年も過ぎた頃、婆の体も動かなくなった。夜に眠ったまま、朝になっても目覚めなかったのである。

　動かなくなった婆は、それでもまだ温かかった。ゆっくりと体温を失っていく婆の体を、クコールは幼い手で撫でさすり、揺さぶった。

　人里を離れ、婆と二人きりで暮らしていたクコールには、生き物が死ぬという概念がわからない。草や木は動かないけれど少しずつ育っているし、虫は生きて動いたまま食べることができる。食べてしまった草木や虫は、クコールの命の一部になる。命は自然の連鎖で、終わるということがない。

　だからクコールには、動かなくなった婆に訪れたものが、命の終焉だとはにわかに理解できなかったのだ。

　だが二日も経ち、冷えきったむくろから、内蔵の腐るにおいが漂いはじめると、もうそのままではいられなかった。腐臭をかぎつけて、狼たちが集まりはじめたのだ。

　婆とクコールは簡素な山小屋に暮らしていたが、隙間だらけの壊れかけだった。

　狼たちは山小屋を群で囲み、一斉に押し寄せた。薄い壁に、歪んだ窓に、ちょうつがいの弱くなった扉に、狼たちがぶつかる。ドンという鈍い音ともに、天井が揺らぎ、柱がきしむ。あっと思ったときには、山小屋はあっけなく崩壊していた。

　クコールは落ちてきた屋根板の下敷きになり、頭を打って気絶した。狼たちは、その間に婆のむくろを食い荒らし、立ち去ったらしい。

　しばらくして、目覚めたクコールが瓦礫から這い出すと、婆の姿はどこにもなかった。そのかわりに、きれいにしゃぶられたあばらや、まだ血肉のこびりついた腕脚の骨、鼻と頬肉を食いちぎられた頭蓋骨が、点々と散乱している。それは婆の残骸かもしれなかったが、クコールの知る婆ではない。

　婆は、この世界から連れ去られたのだ。

　人間がこの世から消えるとき、翼ある者が迎えに来ると、婆は言っていた。天の上からは白い翼の者、地の底からは黒い翼の者。婆を連れ去ったのがどちらだったのか、クコールは知らない。

　いずれにしても、婆はもういないのだ。二人が暮らしていた山小屋もない。

　まだ幼いクコールは、深い森の中で一人考え込んだ。

　森のはずれには、人の群れて棲む村がある。だが婆は、村へは決して近づいてはいけないと言っていた。

　クコールの醜い姿を、人は憎む。自分と似ていながら、どこか違う要素を持ったものを、人はことのほか強く拒絶する。そうして向けられる人の憎悪は、狼の牙よりもはるかに残忍で、恐ろしい。

　クコールは昔、人でありながら、彼らとは違うものとして分類され、疎まれて森に捨てられたのだ。今さら、人の群に迎え入れられるはずはない。

　人里から逃げるように、クコールは、森の奥へと進んだ。

　まだ日没前のはずだが、あたりは既に薄暗い。ちらちらと雪が降り始める。このあたりはもうずっと冬で、ほんの少し陽差しが覗いても、またすぐに灰色の雲に覆われてしまう。雲からは、昼となく夜となく、銀色の雪が舞って視界を覆った。

　雪のほうが、狼たちからは身を隠しやすい。

　凍った雪の上に新たに積もる雪をサイズの合わない長靴で踏み分けながら、森の奥へ奥へと進む。日が落ちるまでに、今夜眠る場所を探さなければならない。

　だいぶん歩いたところで、クコールは大きな木のうろを見つけた。

　覗いてみると、中で大きな熊が寝息を立てている。外は寒いので、冬眠しているのだろう。とはいえ、このあたりにはもう長いこと冬のままだ。この熊も何年眠り続けているかわからない。

　クコールは、ためらわず熊の毛皮に潜り込んだ。熊は驚くほど痩せていた。きっとこのまま眠り続けて、いつか死ぬのだろう。

　うろの底に、熊が持ち込んだのだろう木の実がいくつか貯まっている。春が来ないので、発芽しないままなのだ。クコールがかじると。硬い皮の中に、苦いが水分を含んだ果肉が詰まっている。

　わずかな水分の気配に、熊の毛皮の中から小さな虫たちが這い出してくる。長い長い冬の世界でも、命はどこかに潜んでいるのだ。

　クコールは肌に這ってくる虫をつぶしながら、熊の腹で眠りについた。熊のそばにいれば、婆のように狼に襲われることもないだろう。

◆

　いつからかこのあたりに春が来なくなったのは、伯爵様の苦悩の影がお城を覆うようになったせいだと、婆は言っていた。

　伯爵様は、森のはずれの古城に住んでいる。永遠の命を持ち、美しい歌声と、自由に飛び回る翼を持つ。生きた人間の血を吸って、冷たい氷にしてしまうため、人々に恐れられているという。それなのに、伯爵様は城の周囲を覆うほどの闇を、心に持っているというのだ。

　クコールは、伯爵様を見たことがない。だがその姿を、ぼんやり想像してみたことはある。もし伯爵様に会うことがあれば、その心の闇について、聞いてみたいと思う。

　婆の話が本当なら、伯爵様の心の闇が晴れれば、このあたりに春が来るのだ。だとしたら、伯爵様は本当は、春そのものなのではないだろうか。光あふれ、暖かな、うっかり森でうたた寝をしても凍死しないという春。クコールは、婆に聞いた春に憧れている。このあたりに春を呼ぶことができる力を持つのは、伯爵だけなのだ。

　分厚い雲の下に訪れる短い昼間、クコールはうろを抜け出して食べ物を探した。

　雪を掘ると、埋まったまま芽の出ることのない木の実、やわらかいままで凍てついた草の芽、蝶になれぬまま雪に埋もれた芋虫が時々見つかる。だがそれだけでは、育ち盛りのクコールには足りない。冬の森で食べ物を探すことは、思った以上に困難だった。

　狼たちは時々、群をなして人里へ降り、鶏のような家畜や、干し肉等を盗んでくるようだった。人里へ降りられぬクコールは。狼たちを待ち伏せし、群の一番最後の、弱い狼から掠め取ることを覚えた。高い木の枝に登ってしまえば、狼たちは追いかけてこられない。

　もともと狼は婆の敵だ。意趣返しをしてやりたい、という気持ちもあったのだと思う。

　クコールにとって、狼は憎い敵だった。人は、近づいてはならぬ禁忌だった。

　灰色の空を覆う伯爵様の気配だけが、クコールに何となく近しいものを感じさせた。

◆

　いつもより随分と人里に近づいてしまっていた。狼たちが、人里を襲撃する前に様子を見る、小高い丘の上だ。

　柔らかい雪に半分埋もれて、腐りかけた肉がひとかけ落ちている。狼の食い残しには見えないし、人間が生肉を落として行くにはおかしな場所だ。何故、こんなところにこんなものがあるのだろう。

　確かめようと屈み込んだ途端、右足に激痛が走った。何か冷たいギザギザしたものが、足首に食らいついている。

　体をひねって見てみると、雪の中に、バネ仕掛けの歯が仕込まれている。人間が狼用に仕掛けた罠だろう。

　慌てて足を引っ張ったが、鋭利な歯はますます強く食い込み、クコールの古びた長靴を破って、足の肉を引き裂いた。手で左右に開こうとしても、びくともせず、クコールは指先にも怪我をした。

　この頃のクコールの指は手も足も真っ赤に膨れ上がり、ほんの少し引っかけただけでもすぐに血がにじむのだ。

　罠に挟まれた足首から、罠に触れた指先から、血があふれてしたたる。栄養のよくないクコールの血は、量も多くもないし、色も薄い。白い雪に点々と赤いしずくが吸い込まれていくのを見ながら、クコールはだんだん気が遠くなってきた。昨日から、氷付けの草の根しか食べていない。

　白い雪の上に、クコールは倒れ込んだ。

　人の仕掛けた罠だ。人が見に来るかもしれない。そうしたら、クコールは狼のように、銃で撃ち殺されるのだろうか。

　あるいは、狼の通り道だ。先に狼が来るかもしれない。狼たちは、婆と同じように動けないクコールを食い荒らすだろうか。

　いずれにしても、殺されるのだ。

　見上げる空は灰色で、既に夜の気配を漂わせている。暗い空から、ちらちらと雪が降りてくる。風が遠くで、恐ろしいうなり声を上げ始めている。この分では、ここはすぐ吹雪になるだろう。

　いっそ吹雪になればいい。真っ白な雪が、クコールの体を覆い隠して、人や狼から守ってくれる。冷たい雪に抱かれて訪れる命の終わりは、ずっと穏やかでやさしいに違いない。

　やわらかな雪が、クコールの体の上に降り積もる。冷え切った体には、いつか婆がかけてくれた毛布のようにやさしく温かい。

　雪の毛布にくるまれて、クコールが目を閉じかけたとき。

　視界の端に、巨大な黒い翼が現れた。夜の闇を形にしたように、黒々と広げられた二枚の翼。吹雪の中、揺らぎもせず、羽ばたきもせず、悠然と空を切り裂いて、次第に大きくなる。

　そう、黒い翼はこちらに向かっているのだ。

　クコールはこれまでに、あんなに大きく、美しい鳥を見たことがない。あれは鳥なんかじゃない。

　人間がこの世から消えるとき、翼ある者が迎えに来ると、婆は言っていた。天の上からは白い翼の者、地の底からは黒い翼の者。

　翼は雪雲に大きく輪を描いてから、雪原に舞い降りて、人の形を取った。

　身じろぐこともできず、半ば閉じかけた目で、クコールはその人を見た。深い深い闇の翼、吹雪にもたじろがぬ長身、風になびく長い髪。周囲の音を消し去る、圧倒的な存在。

　音もなく翼をたたみ、クコールの傍らにひざまずく。黒髪が流れて、クコールの首筋にかかる。クコールの胸に、耳を押し当てているのだ。

「お前にはまだ命がある。熱い血の脈打つ、鼓動が聞こえる」

　翼ある者が、囁く。鼓膜ではなく、直に心臓に触れてくるような、不思議な響きの声だった。

「私の城に来なさい。私はお前が生まれたときからずっと見ていた。人としての命を与えられながら、人の群に拒まれ、孤独の淵ばかりさまよっていた。お前ならきっと、私の孤独がわかるだろう」

　翼ある者の城へ来いと言う。その城は、婆の言ったように地の底にあるのだろうか。婆もそこにいるのだろうか。いずれにしても、他にどこへ行く宛もない。

　もううなずくだけの力も残っていなかったが、まぶたを伏せることで、クコールは翼ある者に身をゆだねた。

　翼ある者は、クコールの足に食い込んだ金属の歯に手をかけた。クコールがいくらもがいても、緩むことのなかった人間の罠だ。それを、翼ある者は軽々と開き、クコールを自由にした。

　幼いクコールを抱き上げて、再び黒い翼を開く。

　黒い翼に抱かれて見下ろす雪原は、どこまでも白く、白く、美しかった。

◆

　凍えた体は、毛布でくるまれ、長椅子の上に横たえられている。横を向いた頭の下にあるのは、どうやら誰かの膝らしい。

「また随分と醜いものを拾ってきましたね、父上」

　足下のほうから、声がする。

　テノールの響きに少しトゲがある。醜いものとは、クコールのことだ。

「ヘルベルト。彼は、この世でいちばん美しいものを持っているのだよ」

　クコールのすぐ上で、別の声が答える。耳を押し当てた膝からも、同じ声が伝わる。黒い翼ある者の声だ。吹雪の中で聞くより、低くやさしく、積もりたての雪よりもやわらかく響く。

「この世でいちばん？　僕や父上よりも？」

　不服そうに、テノールが返す。彼は、翼ある者の息子らしい。

　するとここは、翼ある者の居城なのだ。

「ああ、そうだ。私にもお前にもない美しいもの、それは、命だ。真っ赤に流れる熱い血が、この凍えた皮膚の下に流れている。触れてごらん。温かい」

　しなやかな手が、クコールの頬に触れる。まるで積もりたての雪のように、やらわらかく冷たい手だった。そういえば、耳を押し当てている膝も、ひんやりと冷たい。

「イヤです。僕はそんなゴツゴツカサカサついでにブツブツしたもの、触りたくありません。まして、血を吸うなんてとんでもない」

　ムキになる息子に、翼ある者は喉の奥で静かに笑った。

「そう、私も、彼の血なら吸わずにいられるだろう。吸血することが我々の愛情なら、私は彼とは友情を育み、愛情では満たされぬ孤独を癒すことができる。そして彼は、この城の中で唯一命を持つ、美しい存在となるのだ」

　たしかに雪の中でも言っていた。人に疎まれたクコールならば、彼の人の孤独を理解できるだろう、と。

「そんな醜い皮をかぶった美しさなんて、何の意味もないでしょう？　それに、人間なんて、どうせすぐに老いて死んでしまう」

　翼ある者はゆっくりとかぶりを振り、クコールの胸に手を当てた。皮膚の上から、温かく脈打つ心臓を探る冷たい指先は、どこか頼りなくさえ感じられる。

「朽ちない我々の体内に横たわるのは、巨大な虚無だけ。それこそ何の意味もない、我々の永遠の時間。永遠は、すなわち無なのだ。何もかもを持て余しているように見えて、実は何も持ってはいない。時の岸辺に佇んだまま、限りあるものを見送るしかできないのだから」

　冷たい指先が、愛おしそうにクコールの鼓動をたどる。

「人の命なんて、瞬きしている間にはかなく尽きてしまうでしょう。意味があるとは思えません」

　どうやら息子は、クコールを構い過ぎる父親に、少しスネたようだ。尖った声に、幼い嫉妬がにじむ。

　翼ある者は小さく笑いながら、息子を手招きした。近寄ってきた息子の頬に手を当てて、首筋にキスをする。

「ヘルベルト。人も花も鳥も、この世界さえも、限りがあるから美しいのだよ。我々が永遠に失った、この温かい鼓動をこそ、私は愛でよう」

　不意に、クコールの目から熱いものがこぼれ落ちた。

　血ではない。溶けた雪でもない。生まれ落ちて以来、クコールの心を凍らせていた根雪を溶かした、涙だ。

　熱い涙は頬を伝い、翼ある者の手を濡らした。気付いて、指先が濡れた頬を拭う。

「おや、目が覚めたようだ。ヘルベルト、暖炉のそばの温めたミルクを取っておくれ。凍えきった体を温めてやろう。凍てつくこの城の永遠は、命あるものには冷たすぎる」

　素直に湯気の立つカップを取りながら、息子が翼ある者に訊ねる。

「父上。それは、凍えているのですか？　それなら、バスルームを支度しましょう。凍えた人間を温めるには、ぬるま湯につけるのがいいんです」

　息子の機嫌は、もう直ったようだ。翼ある者が、もう一度息子の首筋にキスをする。

「ああ、頼む。お前はやさしい子だな、ヘルベルト」

　息子も、父親の首筋にキスを返す。

「ええ。だって僕はあなたの息子ですから、クロロック伯爵」

　満足そうに笑って、息子は部屋を出て行った。バスルームを支度しに行ったのだろう。

　翼ある者が、クコールの頭を起こして、ミルクのカップを口につけてくれる。唇が震えて、うまく飲めない。ミルクは少し熱すぎるし、カップを傾けてくれる手も不器用で、時々こぼれて、むせこみそうになる。

　それでも心配そうに覗き込んでくる気配に、クコールは一滴ずつ一生懸命ミルクを飲み込んだ。

　クコールを見つめる、黒い髪、黒い瞳、憂いにかすかに歪められた黒い眉。

　伯爵、と息子が呼んでいた。

　伯爵様の苦悩の影がお城を覆ったせいで、このあたりに春が来なくなったのだと、婆が言っていた。この翼ある人が、その伯爵様なのだろうか。

　この人の孤独を癒せば、光あふれる暖かな春が、来るのだろうか。

「……お前は温かいな。春のようだ」

　小さく、翼ある者が呟く。

　ミルクとともに喉を潤す温かさで、その瞬間、クコールは彼の僕になった。命ある限り、この人のそばを離れない、と決めた。

　いつか春が訪れる、その日まで。