公

子

と

遠

乗

り

　主人親子は、目覚め次第自分の部屋でゆっくりと朝食をとるらしい。母屋のキッチンで、朝早くに通ってきたナタリーが支度している。

　ラルフは使用人用の離れで、叔父のセオドアと二人で朝食を済ませた。トーストに目玉焼きを載せただけのシンプルな朝食だったが、空腹のラルフにはたいそうおいしく感じられた。

　昨夜の夕食のように、主人親子と同じ食卓では、ラルフは緊張してあまり食べられない。セオドアは行儀に厳しく愛想もなかったが、それほどに緊張せずに済む。

　血のつながった叔父という気安さもあるだろうが、むしろセオドアは、ラルフにほとんど執着を見せないところが気楽だった。この家の息子のアシュリーのように、不可思議な好奇心を向けられるほうが、プレッシャーなのだ。

　食事を済ませると、ラルフは書庫に向かった。

　ラルフが今、この家で命じられた役割は「書庫の掃除係」だけである。家に置いてもらう以上は働かねばと思うのだが、故郷でのように羊を追ったり、毛糸を紡ぐ仕事があるわけではない。とにかく書庫をきれいにしなければと思ったのだ。

　昨日は慌てていたうえに西日で、きちんと掃除できているかが、心配でもあった。万が一にも、昼の光で見て、ラルフが汚した床の拭き忘れなどあったりしたら大変である。それでラルフは、誰よりも早く書庫に入りたかったのだ。

　書庫は、きれいに片づいていた。

　本棚の上の方が少し埃っぽいが、床は陽差しを反射するほどに磨かれている。昼間の明るい光に照らされる書庫は、昨日のことなどまるでなかったように思えてくる。

　ラルフはほっとして、掃除を始めた。

　踏み台に乗り、棚の一番上から、はたきをかける。昨日取り落とした神話の本は、もとの位置にしまってある。再び落とさないよう、用心する。

「おい」

　いきなり声をかけられて、ギクリとする。

　振り向くと、真後ろに人が立っていた。

　金の髪に水色の目、リボンタイに包まれた華奢な首。この家の息子のアシュリーである。

　ラルフは彼が嫌いというわけではなかったが、どうにも苦手だった。足音も気配もなく突然現れるところも心臓に悪かったし、昨日あんなことをされた書庫で遭遇するには、心の準備が欲しかった。

「あ、アシュリー様、お、おはようございます」

　慌てて頭を下げたが、慌てすぎて、ラルフは踏み台から降りるのを忘れていた。勢いで、踏み台がぐらりと傾いで、そのまま倒れる。

「う、わっ」

　ラルフは顔から転げ落ち、床に激突する寸前で何とか手をついた。

「毎日落ちるなよ。床が傷む」

　落ちてくるラルフをするりと避けて、アシュリーはそれだけ言った。

「す、すみません」

　打った額とぶつけた床をさすりながら、ラルフは身を起こす。本当に、こんなに毎日落ちていたら、床がへこむかもしれない。

「今日は掃除はいい。遠乗りに行くから、着いて来い」

　アシュリーは言いながら、あごをしゃくった。立て、と言うのだろう。そしてそのまま、ドアに向かってスタスタ歩き出す。

　ラルフも慌てて身を起こし、痛む手足をさすりながら追いかける。ラルフが着いて来ないとは、少しも考えていないようだ。

「お前、馬には乗れるか？」

　歩きながら後ろも見ずに、アシュリーが訊ねる。

「え、ええと」

　故郷の村にいた頃、毛糸を運ぶ荷馬車の馬に、遊びでまたがってみたことはある。ただ「乗れる」と言えるかどうかは、微妙なところだ。

「最初はグレゴリーに乗せてもらえ。あとは馬の背から落ちなければいい」

　アシュリーはごく簡単に言った。結局ラルフが馬に乗れようと乗れまいと、気にするつもりはないらしい。

　裏庭に出ると、二頭の馬が引き出されていた。白馬と栗毛。どちらもすらりと足が細く、ラルフが故郷で見た馬車馬よりも背が高いようだ。

　鞍とあぶみがかけてあり、二本の手綱を一人の老人が引いている。昨日、門のところにいた老人だ。昨日と同じ灰色の帽子をかぶっている。ラルフは庭師かと思っていたが、馬の世話をする御者か何かだろうか。

　老人はラルフをちらりとだけ見て、アシュリーに頭を下げた。

「彼を馬に乗せてやってくれ、グレゴリー」

　アシュリーが老人に言いつける。老人はグレゴリーという名らしい。

　馬の背は高かったが、アシュリーは一人で、ひらりと馬に飛び乗った。ラルフも見よう見まねで、鞍に手をかけ、あぶみに足をかけようとする。だがラルフのはいている古靴は幅が広いせいで脱げやすく、思うようにいかない。

　じたばたしていると、後ろから腰を抱き上げられた。

「鞍の前の出っ張りにつかまってくだせえ」

　言われて、鞍につかまる。そのまま下半身を持ち上げられて、何とか馬の背に体を乗せる。怖々身を起こすと、とりあえずラルフは馬上に乗っていた。

「股でしっかり馬の胴を挟んでおくんなまし。手綱はゆるぅく。走らせるときは馬の腹を蹴って。もしどこかにつかまりたければ、鞍の出っ張りがよござんす」

　下から、しわだらけの手が手綱を持たせて、説明してくれる。口を利いたことがなかったので知らなかったが、言葉にひどいなまりがあって聞き取り辛い。

「ありがとう、グレゴリーさん。あの、おいら、私はラルフです」

　馬上からラルフは礼を言い、ついでに自己紹介をした。門のところで会って以来、初めて話をするのだ。

「へえ」

　グレゴリーはそれだけ言って、ぺこんと頭を下げた。開いた口には、前歯が足りなかった。口数が極端に少ないのは、うまくしゃべれないからかもしれない。

　けれどラルフは、何となくこの老人に親しみを覚えた。故郷には、こんな無口な老人がたくさんいた。メイフィールドの家に、小さな故郷を見つけた気分だった。

「行くぞ」

　アシュリーの声に、はっとする。

　アシュリーが馬の腹を蹴って進むと、ラルフの馬も勝手に歩き出した。どうやらラルフの馬は、アシュリーに着いていくつもりらしい。

　かえってラルフはほっとした。あとはアシュリーに言われたように、馬の背から落ちないようにすればいい。

　門を出ると、緩やかな下り坂である。丘の上のメイフィールドの屋敷から、ふもとの湖をめざして白い道が続く。アシュリーははじめはゆっくり、坂が急になると、馬の脚の速まるに任せた。

　慣れない馬上で、ラルフは尻を弾ませながら鞍に必死にしがみついていたが、尻の痛みが麻痺してくると、やがて慣れた。

　清々しく晴れていて、頬に当たる風が心地いい。眼下の青い湖から吹き上げる水分を含んだ空気は、故郷の風に少し似ていた。

　水に沈む前の、美しかった故郷。緑の丘に白く散らばる羊と、空を横切る水鳥の群。空に向かって、ラルフは角笛を吹き鳴らした。青空の下で手を振る、両親と幼い弟妹たち。

　懐かしい光景は、もう帰らない。だがラルフは、生きている。

　家族の中で一人だけ生き残ったという事実を、ラルフは主の残酷な仕打ちと思い、悲しみもしたが、同時にその意味を考えることがある。たまたま使いでラルフだけ村を離れていて、難を逃れたのは、無意識に家族が逃がしてくれたのではなかっただろうか。あの日ラルフに使いを言いつけたのは、父だった。

　そうして生き残ったラルフの胸には、大好きだった両親や幼い弟妹の記憶が、今も息づいている。たとえ一人でもラルフが生き残ったことは、家族の分の命であり、主の恵みなのだ。

　亡くなった家族は、ラルフがメイフィールドのような大きな屋敷に住むことになるとは、思いもよらなかったろう。先を行くアシュリーは、凛と涼やかな貴公子である。昨日の書庫でのことなど、悪い夢だったのではないだろうかと思えてくる。

　馬を走らせながら、ラルフはただ、生きていることを感謝した。

◆

　丘を下ると、青い湖のほとりに、美しい白い屋敷が見えてきた。メイフィールドの屋敷ほど広大ではないが、凝った瀟洒なつくりで、きちんと手入れされた庭園に囲まれている。

　まるでおとぎ話の秘密の花園だ。どんな人が住んでいるのだろうと、ラルフは想像する。

　分かれ道で、アシュリーの馬は、白い屋敷へと続く道を取った。あの屋敷に行ける。ラルフは期待に胸をふくらませる。

　庭園には、たくさんの白い薔薇が咲き乱れていた。白薔薇の季節なのだろうか、それとも主の趣味だろうか。枝葉の緑は棘までみずみずしく、白い薔薇は夏日を浴びてまぶしく輝いている。

　つる薔薇の絡むアーチ門の前で、アシュリーは馬を下りた。ラルフも後に続くが、鞍が高くて、なかなか降りられない。半ば落ちるように地面に手と膝をついたときには、アシュリーはもうアーチの向こうに消えている。

　おそるおそる、ラルフはアーチをくぐった。アーチの中は、薔薇の甘い香りに包まれている。

　アーチの中から覗くと、庭園の奥に、小さなあずま屋が見える。四本の柱に支えられた白い屋根、壁はなく、石造りの床の上にテーブルセットが置かれ、貴婦人が一人本を読んでいる。

　この屋敷の主だろうか、白い帽子から覗く、結い上げた金髪、細いうなじ。白い肌に薔薇色の差した頬を上げると、整った輪郭に宝石のように埋め込まれた青い瞳が見えた。

　その傍らに、アシュリーがひざまずき、手の甲にキスをする。まるで絵のような光景だ。

「お久しぶりです、母上。夏休みで、学校の寄宿舎から戻りましたので、ご挨拶に伺いました」

　アシュリーは、そう挨拶した。

　彼女が、アシュリーの母親なのだ。

　メイドのナタリーが、アシュリーが生まれてすぐに屋敷を出て、湖の別荘に一人で暮らしていると言っていた。たしかに彼女とアシュリーはよく似ている。だが若々しい容貌はまるで娘のようで、十三にもなる息子の母親には見えない。せいぜい姉と弟くらいだ。

　貴婦人はアシュリーの挨拶には何も答えず、そのかわりにアーチのところにいるラルフに視線を寄越した。

　アシュリーによく似た青い眼差しが、ちくりと刺さる。

「あの、おいら」

　ラルフはびくんと身を縮めた。

　アシュリーも振り返ってラルフを見る。もしかして、ここまで着いてきてはいけなかったろうか。外で待つべきだったのだろうか。

　しかもまた、おいらと言ってしまった。ラルフは小さくなった上に、口を両手で塞ぐ。

　だがアシュリーは、意外にもにこりと笑った。

「そうだ、母上。今日は友達を連れてきたんです。彼はラルフ。昨日から、うちに滞在しています」

　アゴを上げて、アシュリーがラルフを紹介する。ようやくラルフもほっとして、ぺこりと頭を下げる。

　だが貴婦人はやはり、ちらりと見るだけで、それ以上の反応はしない。

「ヘレン」

　かわりに、傍らのメイドに声をかけた。そういえばさっきから、メイドが控えていた。ハニーブロンドの三つ編みを背に垂らし、まだ二十歳前の若さに見える。

「お茶を支度してちょうだい。三人分」

　婦人はどうやら、アシュリーとラルフを認識してくれてはいるらしい。お茶の席に招いてくれるつもりなのだろう。

「かしこまりました、シーラ様」

　メイドは「奥様」ではなく「シーラ様」と呼びかけた。彼女の名前だろう。だが屋敷のウィリアムズが旦那様と呼ばれているのに、不釣り合いな気はする。

　シーラに手招かれ、ラルフもアシュリーに遅れてテーブルについた。お茶に使用人を同席させるのは、メイフィールド家の流儀なのだろうか。上品なお茶の席は、ラルフはあまり得意ではない。

　ヘレンがフタつきの盆に載せて、菓子類を運んでくる。焼き菓子や果物の他に、サンドウィッチやマッシュポテトまである。お茶というより、ほとんど昼食だ。にもかかわらず、シーラもアシュリーもお茶ばかりで菓子類には手をつけない。

　日も中空に上ろうとしている。食べ盛りのラルフは急な空腹を覚え、ひとつふたつと手を伸ばす。何かを口に入れていれば、黙っていても不自然ではない。ラルフの横で、アシュリーが学校での出来事を報告し、シーラが一言二言感想を返す。ぽんぽんと弾む会話ではなかったが、別居中の親子の仲は決して悪くもないようだ。

「そうそう。ラルフは、うちに来る前は、湖水地方にいたのですよ」

　級友の出身地の話から、不意に話題を振られ、ラルフは口の中の物を丸飲みした。シーラの青い目が、ラルフに向けられる。

「聞いたことがあるわ。湖がたくさんあって、野ウサギがいるんでしょう？」

　シーラのまるで少女のようなあどけない問いに、ラルフは瞬きする。口数が少ないせいか、ツンとした貴婦人の印象だったが、少し浮き世離れしているだけで、意地が悪いわけではないらしい。

　ラルフは笑って頷いた。

「はい。草原にはウサギもいますし、キツネや野ネズミもいます。湖には季節ごとに水鳥が来て、魚もたくさん釣れます。人々は羊を飼い、馬に荷車を引かせて、のんびり暮らしています。私も毎日、羊を追っていました」

　ラルフにとって、故郷のことを人に話せるのはうれしかった。帰りたい、もう帰れない、懐かしい故郷。

　シーラは青い目でじっとラルフを見て、話を聞いている。

「それでどうして故郷を出て来たの？」

　幼い少女のような不用心さで、シーラはそう尋ねた。ラルフは、口ごもり、うつむく。

「それは、その。水害で、家族を亡くして、家も羊たちも流されて、それで」

　やむなく、ラルフは故郷を捨てたのだ。

「ごめんなさい。つらいことを聞いてしまったわ」

　心底申し訳なさそうに、シーラはあやまった。ラルフは慌てて首を横に振る。

「いえ、いいんです。もう過ぎたことですから。それに、メイフィールドの旦那様も、アシュリー様も、使用人の甥に過ぎない私に、こんなにやさしくしてくださって、私は幸せ者です」

　ラルフの言葉に、シーラの表情がふと硬くなる。

　違和感を感じた瞬間、ラルフの横からアシュリーが補足した。

「彼は、イーデンの甥ですよ、母上」

　途端に、シーラの頬がさっと白くなった。

「イーデン。セオドア・イーデンの甥ですって？」

　シーラの青い目が、ラルフの顔を見つめる。瞳の色は叔父とは違うが、ラルフの焦げ茶の巻き毛は、セオドアとそっくり同じである。

　いきなり、シーラは席を立った。

「気分がすぐれないわ。部屋で休みます、ヘレン」

　シーラはそれきり二度とラルフを見ようとはせず、薔薇の間を抜けて家の中に消えた。ヘレンが慌てて追いかけて行く。

「あ、の。おいら何か、いけないことを言いましたか」

　ラルフは立ち上がり、けれどどうしていいかわからず、アシュリーに尋ねた。

「座れよ、ラルフ。まだサンドウィッチが残ってる」

　アシュリーは冷ややかに答え、自分も珍しくサンドウィッチに手を伸ばした。

「お前に落ち度があるとすれば、イーデンの甥ということだけさ、ラルフ。母上はね、父上よりも、イーデンを憎んでる。セオドア・イーデンがいるから、うちに戻ってこない。そこへさらに、ラルフ・イーデンが増えたから、ショックを受けたのさ」

　何でもないようにアシュリーは言い、サンドウィッチの中からオニオン・スライスを引っぱり出した。オニオンだけを皿に戻して、サンドウィッチを食べている。オニオンは嫌いらしい。

「そ、んな。どうして、お、おいら」

　ラルフはただおろおろと立ち尽くした。

「ラルフ。『おいら』ではなく『私』と言えと言われなかったか、セオドアに？　お前がもし、セオドアのような完璧な執事に成長したら、母上はさぞかし嘆くだろうな、ハハ」

　大して楽しくもなさそうに、アシュリーが声を立てて笑う。

「お、おいら、そんな、執事だなんて、まさか」

　家をなくしたから唯一の親戚を頼っただけで、まさかラルフはメイフィールドの執事なんて考えたこともない。秋には収穫の日雇いに行こうと思っているし、そこから農場での働き口も探そうと思っていた。叔父にも働き口を見つけてもらうよう頼んでいる。

「奥様は、どうして叔父を」

　ラルフにはまだよくわからない。多少とっつきにくい面はあるが、叔父は人に憎まれるような性格ではない。まして、仕える家の奥様の怒りを買うなど、職務に忠実な叔父らしからぬことだ。

「母上のことならシーラって呼んでやれよ。あのひとにはメイフィールドの奥様たるつもりはないのさ」

　チェリーの柄を口から出して、アシュリーは皿の上に戻した。器用に柄が結ばれている。アシュリーが両親の前でやけに少食なのは、もしかするとこの行儀の悪さを見せないようにしているのかもしれない。

「行こう。シーラはもう戻ってこない」

　食事を済ませたアシュリーはあっさりと席を立ち、振り向きもせずにあずま屋を後にした。慌ててラルフも後を追う。

　薔薇のアーチをくぐるときに、アシュリーは小さく舌打ちした。手の甲を薔薇のトゲに引っかけたらしい。だが立ち止まることはなく、滲んだ血をそのまま馬に飛び乗り、手綱を握る。

　眉根を寄せた横顔に、シーラとの会談のあっけない終わりは、アシュリーにとっても望ましくない結果だったのだろうと、ラルフは思い至った。

◆

　湖のほとりの館を出てから、アシュリーはずっと馬を全速力で駆けさせた。

　遅れて馬に乗ったラルフも追いかけたが、慣れない馬上から転げ落ちまいと必死にしがみついていたにも関わらず、アシュリーの背中は遠くなるいっぽうである。見晴らしのよい草原をまっすぐ行くので、幸いにして見失うことはなかったが、このままいつまで追いかけねばならぬのかと不安になった。

　やがて森の中に、アシュリーの馬は分け入った。

　木立の中なら、少しは歩をゆるめるだろう。ラルフは少しほっとしたが、今度は木立に紛れてアシュリーの姿が見えない。そのうえはねた木の枝が時折目を打ちそうになり、頭を低くして怖々進むしかない。

　とりあえずまっすぐに進んで、完全に見失ったのではないかとラルフが不安になる頃、ようやくアシュリーの白い馬体が木陰に見えた。近づいてみると、首を伸ばして泉の水を飲んでいる。馬上にアシュリーの姿はない。

　アシュリーは、馬の足下に寝ころんでいた。

　腕枕をして仰向いた顔は、木漏れ日に照らされてまぶたを閉じている。眠っているのだろうか。

　ラルフは馬を降り、とにかく泉に寄って二頭の馬と一緒に水を飲んだ。息がぜいぜい切れて、声も出なかったのだ。膝もがくがく震えて、とても立っていられない。

「体は大きいくせに、だらしがないな」

　横から、声をかけられた。

　目を閉じたまま、アシュリーがクスクス笑っている。思っていたより穏やかな様子に、ラルフはほっとする。

「おいら、いえ、私は、馬に乗るのは初めてで」

　手の甲で口を拭いながら、ラルフは言い訳する。あれだけ駆け足の馬から落ちなかっただけでも、奇跡だと思うくらいだ。

「まったくお前はセオドアとは違うな、ラルフ。セオドアは学生時代、馬術の成績も抜群だったそうだぞ」

　アシュリーは目を開けた。

「お前がそんなだから、母上も最初は気付かなかったんだろう」

　自分に向けられた青い瞳に苛立ちの色を見て、ラルフはぎくりとする。この貴公子はいつも、上機嫌なのか不機嫌なのか、ラルフには読めない。

　アシュリーは手を伸ばして、ラルフの腕をつかんだ。引いて、自分の上に屈ませる。薄水色の瞳に空とラルフとが映る。深緑の苔の背景に、金髪が淡い光を放つ。

「教えてやろうか。母上がどうしてセオドアを憎んでいるか」

　アシュリーは口の片端を歪めて笑い、ラルフのあごに手をかけた。指先の力で、唇を求めているのだと今日はわかる。目を開けたままで、ラルフはアシュリーにされるがままに従った。唇が触れる間も、アシュリーの青い目は冴え冴えと冷たく、ラルフの向こうに青い空を映していた。

「セオドアが父上と、毎晩こういうことをしているからさ」

　唇を離して、アシュリーは無感動に言った。

　ラルフは目を瞬かせる。

　今、アシュリーは何と言ったのだろう？　セオドアがウィリアムズとどういうことを？

「わからないか？　これだからお前は」

　アシュリーはするりと上半身を起こし、あっという間にラルフをその場に組み敷いた。

　今度はラルフを下にして、触れるだけではなく深いキスを仕掛けてくる。入り込んでくる舌の熱さに、ラルフはぎゅっと目を閉じた。ラルフの脚の間に、アシュリーの膝が割り込んで触れている。

「昨日の、書庫での続きをしようか、ラルフ？　ここなら、声を上げても舎監は来ない」

　抵抗、できるはずもない。仰向けに倒れた体の上にはアシュリーがのしかかっているし、青い目に魅入られたラルフは痺れたように動けない。

　キスをしながら、アシュリーはラルフのシャツのボタンをはずした。されるがままのラルフ。首筋を吸われて、小さくのどが鳴る。治まっていたはずの吐息が、馬を駆けさせていたときのように速くなる。

　ゆるいウエストから忍び込んだ手が、昨日と同じように、直に触れてくる。　ラルフの反応は昨日よりも早く、既に先端が濡れている。

「ア、やっ……！」

　言葉だけの抵抗は無視され、サスペンダーもズボンも下ろされてしまう。外気が冷たく触れる。アシュリーの華奢な手が、しずくを塗りつけるように弄ぶ。

「ウ、ン、あぁっ」

　抑えようとしても、声が漏れる。ここには舎監は来ないだろうが、空と森に棲む鳥や獣の気配がある。

「随分気持ちよさそうだな、お前」

　クスクス笑われて、ラルフは真っ赤になった。言い訳のしようもなく、両腕で熱い顔を覆う。

　触れていたアシュリーの指先に、ふと別の感覚が加わる。ひんやり冷たい、なめらかな、やがて体温になじんで溶ける、不思議なぬめり。

　漂う特有の甘い香りはバターだ。さっきのお茶の、パンに添えられていたものを持ってきたのか。溶けたバターが滴って、肌を這い落ちる。

「そのまま、大人しくしてろ」

　アシュリーが囁いて、ふっと下半身が軽くなった。

　腕の隙間から覗くと、再び覆い被さってくる。馬の鞍をまたぐように、アシュリーはラルフの腰をまたいだ。

　同時に、ラルフ自身がきつく締め付けられる。

「ア、えっ！？」

　さすがに驚き、ラルフは声を上げた。アシュリーはいったい、何をしているのか。

　あしゅりーはブラウスを着けたまま、リボンタイもはずしていないが、ラルフの両脇に立てられた膝は何故かむき出しだ。

　先端を締め付けていた熱さが、じわじわ沈み込んでくる。これまでに感じたほどもないほど強い快感に、ラルフはくらくらとめまいがした。

「ア、シュ、リ、さ、ま」

　切れ切れに名前を呼ぶ。どうしていいか、わからない。

「うごく、な」

　アシュリーも、眉根を寄せて苦しそうに呟く。ゆっくり、だんだんと、アシュリーはラルフを飲み込んでいく。二人の荒い息が、ぶつかり、すれ違い、ひとつに重なる。

　やがてアシュリーは、ラルフを奥まで飲み込んで、深く息をついた。

　ひんやりした風が、熱い肌を撫でて過ぎる。アシュリーに飲み込まれたそこだけが、燃えるように熱い。

　すぐにでも爆発してしまいそうで、ラルフは歯を食いしばった。

　昨日も、思っていた。何故アシュリーは、ラルフにこんなことをするのだろう。こんなことに、何の意味があるのだろう？

「どう、して」

　疑問を発したのは、ラルフではなく、アシュリーだった。

「どうして、こんなこと、するのだろう、な」

　切れ切れに、アシュリーが呟く。独り言のように。

「ははうえを、追い出して、まで」

　どうして、とアシュリーは繰り返した。

　だがラルフに答えられるわけがない。セオドアのことも、ウィリアムズのことも、シーラのことも、ラルフにはよくわからない。

「アシュ、リ、さま」

　ただ名前を呼んで、自分につながっているアシュリーの体を、確かめるように探る。ラルフの耳の横に置かれた手、ブラウス越しの華奢な腕、ラルフをまたいだ膝、つながった部分のすぐ上の、アシュリー自身。

「ふ」

　アシュリーが小さく息を呑む。

　冷静に見える表情とは裏腹に、驚くほど熱く息づいている。両手で握り込むと、中がびくびくっと反応する。どこをどうすればいいのか、アシュリーの表情からは読みとりにくいが、内部の熱が素直すぎるほど伝えてくる。

「あ」

　こらえきれずに、アシュリーの上半身が崩れる。ラルフの頬を挟むように両肘をつき、乱れた金髪が間近に垂れかかる。薄く開いたアシュリーの口からは浅い吐息が漏れ、青い瞳が苦しげに細められる。いつもつんと澄ました貴公子の、初めて見る表情。

「く……ん、ン、あぁっ」

　アシュリーが、小さく声を上げる。押し殺した声とは裏腹に、ラルフの手の中のアシュリーもビクビクンと脈動し、内部が激しく痙攣してラルフをきつく締め上げる。

　アシュリーはラルフの腹や胸に、ラルフはアシュリーの中に、ほとばしる熱を放った。

◆

　二人はその後、冷たい泉で水浴びをし、やわらかい苔の上でうたた寝をした。

　日が傾いてから、ようやく帰途につく。

　行きと違い、アシュリーが馬をゆっくり歩かせたので、ラルフはほっとした。

「父上とセオドアのことは嘘じゃない。夜、父上の部屋を覗いてみればわかる。どうして父上は」

　馬上のアシュリーが、独り言のように呟く。それが自分に言われたものだと気付いて、ラルフは首を左右に振った。

「そんな、旦那様のお部屋を覗くなんて、おいらは」

　それから、ふと思い当たる。アシュリーは父親の寝室を覗いたことがあるのだろうか。たとえば悪夢から目覚めた深夜、母親と別居する幼いアシュリーが、父親に慰めてもらおうと寝室に向かったのだとしたら。

　一昨日まではそんなことが存在しようとも思わなかったラルフだが、今ならば少しわかる。アシュリーの自分に対するふるまいと、異常なまでにイーデンを拒絶したシーラ。確かめるつもりはないが、アシュリーの言うようなこともあるのかもしれない。可能性として、それは起こりうるのだ。

「……それより」

　家の主のプライベートへの勝手な想像を打ち消すように、ラルフは別の疑問を口にした。

「それより、アシュリー様はどうして、おいらなんかにこんなことを？」

　ずっと気になっていたことだ。それに、別の疑問、でもないのかもしれない。ラルフにとっては、ウィリアムズとセオドアの関係と同じように、アシュリーのラルフへのふるまいのほうが、理由がわからなかった。

　父親がわからないと言いながら、同じことをラルフにしている。本来ならラルフが聞くべきではないウィリアムズとセオドアのことや、シーラの別居の理由をラルフに聞かせる。

　アシュリーは何故、昨日会ったばかりのラルフに、こんなことをするのか。

　素直なラルフの疑問に、アシュリーは不意をつかれたようだった。青い目を一瞬見開き、それから二回瞬きして目をそらす。

「別に。退屈しのぎの、ただのゲームだ。理由なんか、ない」

　理由なんかない。それがアシュリーの答えのようだった。そんなことが、あるのだろうか？　理由もなく、人はこんなことをするのだろうか。

　理由があるかもしれないウィリアムズよりセオドアよりシーラより、アシュリーのほうが、ラルフには不思議に思えた。

　アシュリーはそれきり、まっすぐ前を向き、黙り込んでしまう。仕方なく、ラルフも黙り込んだ。

　丘に沈みゆく西日が、アシュリーの白い頬を薔薇色に染めていた。