嘉の跨った馬の、潁は轡を取った。嘉の父親が初めて出仕したときも、潁の父親が従ったと聞いている。因果などではない。はじめから決められていたことだ。潁は、嘉に仕えるべく育てられたのだ、と思っている。

　王府までの道程は、雪解けの水にぬかるんでいた。泥濘のいたるところに芽吹いた緑をかき混ぜて、ひと足ごとに馬蹄が沈む。止まりがちな馬の首を引いて急かしながら、潁の足も、踏みしめそこねて左右に流れた。

　いくらも歩かぬうちに、ひたいに汗が滲んだ。

　腕で汗を拭いながら、そっと馬上の主を振り返る。嘉は、ゆるく手綱を握ったまま、先ほどから黙りこくったままだ。

　いっこうに進まぬな。私は飽きた。

　進まぬ道程に焦れて、いつ嘉がそう言いだすかと、潁は内心気が気ではない。

　もともと嘉は、この歳まで出仕を拒んでいた。今日の出仕とて、自らすすんでではなく、父親に半ば強引に送り出されたようなものだ。

　かと言って、王府に対して反抗的な思想を抱いている、というわけではない。今まで嘉が出仕を引き伸ばしてきた理由は恐らく、興味がない、の一言に尽きるだろう。

　主は幼少から、ごく限られた人やものにしか執着を見せなかった。かろうじて意識を向けるものがあったとしても、瞬く間に飽きてしまうことが多い。そういう子供の気まぐれさをそのままに、この歳まで過ごしてきたのだ。

　潁は、そんな嘉のいわば目付け役である。何としても王府まで連れて行けと、嘉の父親である館の主に言い含められている。

「猫」

　嘉が、呼んだ。猫、というのは足音をひそめて歩く潁に、嘉が勝手につけた呼び名だ。いかにも退屈そうな声だ。

「はい」

　答えて、振り向く。努めて冷静な仕草を装ったが、内心では身構えている。いったい何を言いだすのか。

　馬の足は止めず、そのまま歩かせた。主が何を言いだすにしても、少しでも先に進んでおくほうがいい。

　嘉は馬上からじろじろと潁を眺めて、顎をしゃくった。

「泥のついた手で、汗を拭ったな。頬に泥がついている」

「は」

　言われても、自分ではわからない。慌てて左右の頬を腕でこする。取れたかどうかも、自分ではわからない。いずれにしても、ぬかるみの中を馬を引いているのだから、泥だらけには違いない。

　馬上の嘉が、小さく喉で笑った。もしや、からかわれたのかもしれない。

　潁はもう一度嘉を見上げたが、ただ見下ろしてくるだけで、もう何も言わなかった。

　少なくとも、不機嫌な様子はない。嘉はいつも通りの無表情に近かったが、周囲の空気がいつになく穏やかで楽しげだ。日差しが明るいので、そう見えるのだろうか。

　潁はどことなく安堵して、再び前を向く。

「猫」

　やや経って、また呼ばれた。潁は相変わらず馬を急かしながら、振り返る。

「遅い」

　予測していた言葉だった。気の短い嘉が、今まで黙っていたほうが訝しいくらいだ。潁は用意していた言葉を素早く頭の中で復唱し、口にした。

「申し訳ございません。道がぬかるんでおりまして、少々ご辛抱を」

　ぬかるみの中に何とか足を踏ん張りながら頭を垂れる。どうにか宥めて、連れて行くしかない。この季節でなければ、このように手間取らなかっただろうに。

「おかしな奴だな。お前が詫びてどうなるものでもあるまい」

　嘉が冷静に切り替えしてくる。苛立ちの矛先を潁に向けてくれれば、宥めようもあったかもしれないが、冷静に状況を把握している分だけ、却って対応に窮した。

「この程度のぬかるみなら、歩かせるより、駆けさせたほうが速い」

　嘉が馬の首を軽く叩いて潁に示す。それも、道理だった。ぬかるみに馬を駆けさせるのは転倒の危険があるが、一定の勢いがついたほうが馬の過重移動も楽になることもある。

　用心深い馬であれば無理だろうが、嘉が跨っている「黒皇」ならば駆けるだろう。むしろ、駆け出したい無謀な衝動を堪えているふうにも見える。幼少時の嘉を乗せて以来、余人をその背に乗せなかった気性の荒さは、主の性格にもよく合っていた。

　だがそれでは、徒歩の潁はついてゆけぬ。どうしたものかと思案しかける潁に、

「お前も、乗れ」

　嘉は、顎をしゃくった。咄嗟に理解できず、潁は首をかしげる。

「黒皇を駆けさせるから、お前もここに乗れと言っているのだ､猫」

　潁は、慌てた。

　いくら嘉が小柄と言え、このぬかるみを進む馬に二人も乗れるわけがない。それ以前に、主の馬に従者が乗れるわけがない。

　何より驚いたことに、本当に今日の嘉は機嫌がいい。普段は潁は、嘉が奔放に駆けさせる馬の後を走って追いかけている。一緒に馬に乗れ、等と言われたのはほとんど初めてのことなのだ。

　それで少なからず、潁は狼狽した。首を左右に振り、口を開くが、肝心の言葉が出てこない。嘉が、苦笑した。

「何を慌てている」

「とんでもございません。私が、坊ちゃまと同じ鞍に乗るなどと」

　ようやく言葉が出てきた。

　潁が驚いた分だけ、馬の鼻先が進路を少しずれている。手綱を引いてそれを修正しながら、嘉が不満げに鼻を鳴らした。

「相変わらずつまらぬことを言う」

「申し訳ございません」

　反射のようにうなだれてみせる。嘉が小さくため息をつく。

「今日はどうせ初日だ。挨拶程度で済むからそう時もかかるまい。馬は門のところに置いておくから、馬屋まで引いて、そこで待っていろ」

「は？」

　聞き返す間もなく、嘉は馬腹を蹴った。途端に馬が泥飛沫を蹴立てて駆けだしていく。

　咄嗟に腕をかざしてかばったが、潁は顔にも体にも全身に泥の飛沫を浴びた。腕を下ろすと、主の馬はもう、遠く黒い点になっている。つまり、焦れた嘉は、潁を置いて先に行ったのだった。

　気まぐれな主のことだ。進まぬ行軍に飽きて、王府ではなく他へ駆けていった可能性も否めないが。

　潁はともかくも、後を追って駆け出した。黒皇ほどには、泥濘をうまく駆けられなかった。

◆

　黒皇は門前で潁を待っていた。主の嘉はとうに王府の中らしい。

　潁は黒皇を引いて、馬屋を探した。馬をつないで飼い葉や水をやったり、世話をするする小屋があるはずだ。

　建築物は漢人の残したほとんどそのままであるから、建物の配置は合理的で見当がつけやすい。ただ元来遊牧の民のやり方らしく、各所の見張り小屋に常駐人員は配置していない。秩序正しく計算された容れ物と、無秩序に棲息する内容物。そうした王府の光景は、体に流れる漢人の血か、潁には奇異に感じられた。

　探し当てた馬小屋には、馬が数頭だけつながれていた。中にはもっと人がいようが、乗ってきた馬を小屋につないでおく、そういう習慣がないのかもしれなかった。そのへんの野に遊ばせておいても指笛ひとつで馬は戻ってくる。王府にしている建物の周囲は、かつては街であったかもしれないが、今では建物も崩れて原野に近い。

　潁は小屋の一角に黒皇をつなぎ、水と飼い葉を与えた。それから毛並みを梳いて整え、蹄に食い込んだ泥を丁寧にかきだしてやる。

　父に教えられたやり方だ。王府に従者として従うときはそうして待てと仕込まれた。小屋の中は馬が数頭だけで、人の姿は見当たらなかったが、潁は一人働いた。

　糞尿を片付け、ひととおり馬の世話を終えて、潁はふと気付いた。

　主は本当に王府の建物の中にいるのだろうか。門前に馬が乗り捨ててあっただけで、中に入っていく姿を見たわけではない。馬の支度は整ったものの、乗るべき主は戻ってくるのだろうか。戻ってくるとして、どれほどの時がかかるのだろうか。

　建物はいくつもある。だがそのいずれにも、潁の身分で主を探しに入るわけにはゆかぬ。

　主は、時はかからぬ、馬屋で待て、と命じた。潁は、待つことにした。結局のところ、待つだけが自分にできる仕事なのだ。

　待つとなると、手が空いた。常に何かしら雑務のある館では、こんなことは滅多にない。潁は戸惑った。

　思い出して、懐から巻いた紙を取り出す。時のあるときに読めと、父親が持たせてくれたものだ。

　いくらか明るい小屋の入口に腰を下ろして、古びた紙を壊さぬようゆるゆると開く。

　端々の崩れかかった紙に、父の手蹟による墨文字が並んでいる。漢人である父は、こうした巻紙をいくつも大切にしまいこんでいた。燕家に下僕として仕えながらの暮らしには、本来無縁のものである。

　几帳面な文字を目で追う。幼い頃に習ったので、文字は読める。文意もわかる。だが父がこれを読ませることで何を伝えたいのかが、潁にはまだ理解できていない。ただ常に持ち歩いて、読めと言われた。繰り返し読めばいつか、父の伝えたいことがわかるのだろうか。

　不意に、気配を感じた。

　右肩を振り返ると、目が合った。廊下の角を曲がってきたところで、向こうのほうが驚いたような顔をしている。こんなところに人がいるとは思わなかったのだろう。

　王府に出仕してきた者だろうか。まだ若いが、身なりがきちんとしている。黒髪は頭頂部に布でまとめ、肩口は黒い套ですっぽり覆い、間に顔だけが白い。秀でた額の下に、黒い瞳が輝いている。

　じっと見据えると、向こうから軽い会釈を寄越した。潁も慌てて、頭を下げる。

「それは、紙ですか」

　男は真っ直ぐに近づいてきて、正面から潁の手元を覗き込んだ。草木をほぐして水にさらして紙をすく技術は漢人によって発明されたが、この国ではまだ一般的ではない。珍しいのだろう、と潁は広げて見せてやった。

「……故に惟だ明主賢将のみ能く上智を以て間者と為して必らず大功を成す。孫子、用間篇ですね」

　意外にも、男は紙ではなく、文字を読んだ。

　潁は驚いて紙を引っ込め、男の顔を見た。漢字を読めるはずがないと思い込んでいたのだ。しかも、瞬時に内容まで読みとっている。

「ああ失礼。私は晋からの降将なのですよ。もともと将と呼べるような立場でもありませんでしたが。このようなところで紙を見かけたのが意外で、つい不調法をいたしました」

　男は微笑み、優雅な仕草で手を組み合わせて礼をした。この地のもとの支配者で、今は南に追いやられた漢人の国・晋からの降将だという。いかにも漢人らしい、型通りの仕草だった。

「私は景和と申します。あなたは」

　堂々とした名乗りを受けて、慌てて平伏する。一角の将であるならば、潁ごときが対等に話をすべき相手ではない。

「私は、ただの従者です。名乗るような身分ではありません」

　と、景和と名乗った青年は、小さく嘆息した。

「驚きました。遊牧の民の住まうこの地にいて、紙に書かれた書を読み、身分の上下を気にしてへりくだる。そんな方に、私は初めてお会いしました。もしやあなたのご主人も、もとは晋の方ですか」

　紙一枚で、妙な親近感を持たせたようだ。潁は面を伏せたまま、かぶりを振る。

「私はこの国の燕家に仕えております。両親が漢の生まれでございました」

　後ずさる潁の両肩を、正面から掴まれた。はっと顔を上げると、目の前に景和の輝く瞳があった。

「それでは身分などお気になさらず、お名前をお聞かせください。この国の方ならば、漢人のように朱儒の教えの堅苦しさはないはずだ」

　物腰はやわらかいが、声には抗えない激しさがある。降将と名乗った割には、敗者の哀愁を負ってはいない。むしろ若さゆえの自信に満ち溢れている。

「私はね、この自由な遊牧の民に、漢人の堅苦しい教えを広めるように王に命じられているのですよ。たしかに組織には統一された価値観が必要です。それが家族であれ部族であれ国であれ、組織としての力を強くする。けれど私には、この国には漢人の価値観やしきたりはなじまない気がしています」

　問われもせずに、景和は自分のことを語りはじめた。身を堅くしている潁の気を少しでも紛らわそうと思ったのか、単に誰かに聞いて欲しかっただけなのか。

「御覧なさい、この不可思議な光景を。緻密に計算されて設計された建物を、まるで岩や山であるかのように扱っている。崩れかけた石壁も、修復せずに跨ぐだけです。設計者が見たら、悲しむでしょうね。けれど私はむしろ愉快だと思った。そう思ったから、投降したのです。あなたは、どう思いますか」

　景和はまた潁を覗き込んだが、潁はもう何も答えなかった。景和が語りたがっているのは自分のような従者ではなく、一国を動かす意志であると見たからだ。

「王は、漢でもないでもない、新しい国を作ろうとされています。そのために、私のような者も新しい血として取りいれられた。私は私の血を新しく保つために、あなたのような方と話がしたい。自由なこの国にいて、漢のしきたりを行ってきた、あなたのような方と語りたいのです」

　両肩に手をかけたままで、景和がじっと潁の瞳を覗き込む。顔と言わず、瞳の奥を見通すような強い眼差しだ。どうしても目をそらすことが出来ず、潁はたじろいだ。

「……漢のことは何も存じませぬ。私は身も心も主のものでございます」

　やっと答える。

　景和は、莞爾として微笑した。

「意識もせずにそんなことを仰るから、ますますあなたの話を聞きたくなるのですよ」

　景和はなかなか、掴んだ肩を離してくれそうになかった。

「猫」

　突然、声が響いた。びくりと震えた肩から、景和の手が離れる。潁は数歩飛び退いて、ほっと息をついた。

「帰るぞ、馬を引け」

　ずかずかと小柄な体に似合わぬ足音を立てて、嘉が近づいて来た。

　謁見が済んだのだろう。それにしては全身に不機嫌が滲んでいる。朝に別れたときには、機嫌はむしろ良かったはずだ。

「こちらは燕嘉殿の従者殿でしたか」

　景和が嘉に会釈して近づく。嘉はじろりと目線を返しただけだ。

「先刻、広間でお会いしましたでしょう。景和と申します」

　型通りに手を組み合わせて礼をする景和の前を、嘉は通り過ぎようとした。潁も慌てて後に続く。

「彼は、猫殿と仰るのですか？」

　背後から問い掛けられ、嘉はぴたりと足を止めた。振り返って､再度景和の顔を見る。

「いえ。魏潁と。猫と呼ぶのは私だけです」

　答えた嘉は怒ったような口調だった。大声ではないが、声質も硬い。自分以外の者が猫と呼ぶのは許さない、という苛立ちがこめられているように潁は感じた。

「そうですか。燕嘉殿、よろしければ魏潁殿と話をさせていただきたいのですが」

　嘉の不機嫌に気付かないのか、景和が嘉に近づく。傍で見ていて、潁はひやりとした。嘉の気性の激しさを、今しがた会ったばかりの他人が知るわけはないのだ。

「それに、何か用が？」

　目線だけで潁を示し、嘉が景和を睨み据える。きわめて無表情だが、苛立ちが炎のように周囲に揺らいだように潁には見えた。

　さすがに景和も、不穏を感じ取ったらしい。さらに何か言いかけた言葉を飲み込んで、片手を上げた。

「いえ。別に今日でなくとも構わないのですが」

　ちらりとだけ視線を景和に送り、話は済んだとばかりに、嘉が景和の前を通り過ぎる。後を追った潁は、嘉に引き出されてきた黒皇の鼻面にぶつかって、小屋の外まで後退した。

「帰るぞ、猫。明日からはお前はついて来るな」

　一人で騎乗しながら、嘉は言い捨てた。

「は」

　言葉の意味を聞き返す暇もなく、嘉を乗せた黒皇は駆け出している。いったい主が何に苛立っているのか、潁には皆目わからない。

　わからないまま、後を追おうとした潁の肩を、景和が掴んだ。

「どうやら、私が怒らせてしまったようですね」

　言いながら、景和はむしろ嬉しそうに微笑んでいる。

「あなたが私と話していたので妬いたのでしょう。燕嘉殿には明日私からもとりなしておきます」

　それだけ言うと、景和は潁の肩を叩いた片手を上げて、別れを示した。景和がいったい何が嬉しいのかも、潁には皆目わからない。

　ともかくも潁はその場を離れ、黒皇の蹄の跡を追った。

　不機嫌な主はまっすぐ帰宅せずに水辺への寄り道を選んでいたが、王府を少し離れたところに馬をゆるゆる歩かせ、潁を待っていた。

◆

　結局、翌日から潁は嘉の供を許されず、館で待つよう命じられた。嘉は一人で黒皇に乗り、出かけて行く。徒歩の潁を連れて歩くのが面倒になったのか、別の理由があるのか、潁にはわからない。

　しかも、数日で飽きるかと思われた出仕も、続いていた。そのうえ、ごくたまに景和を館に招くことさえあったのである。滅多に他人に興味を見せぬ嘉にしては、驚くべき変化だった。

　成長したのだ、と嘉の父親は喜んだが、どうもそれだけではない気がしている。

　嘉と話しながら、景和は時折潁に意味ありげな視線を寄越したが、ただ莞爾として微笑むだけで、何も語らなかった。