不幸な知らせは、夏の嵐とともにもたらされた。

　放課後の図書室にいたウィリアムズのもとに現れたのは、ずぶ濡れの黒いフロックコートの男だった。肩幅の広いがっちりした体格に、オールバックに撫でつけたロマンス・グレー、整えられた口ヒゲ。いかめしい顔には見覚えがあった。弁護士のスティーブンスである。

　ウィリアムズは彼のことは好きだったが、父の仕事のパートナーとして面識があるだけで、家を離れた学校でその顔を見るのは、いやな予感がした。青い顔をした教員が一人、後ろについてきている。

「すぐにお屋敷にお戻りください、ウィリアムズ様。お父上が亡くなりました」

　単刀直入に、スティーブンスは告げた。それはあまりにも急だったが、スティーブンスの険しい表情と、先ほど降り始めた叩きつけるような雨音に阻まれ、ウィリアムズには聞き返すこともできなかった。

　ふらりと足下の崩れたウィリアムズを、傍らにいたセオドアが支える。

　セオドアは二学年下の図書委員で、ウィリアムズの親友である。手近の椅子を引いて、セオドアはウィリアムズを座らせた。

「今朝早く、旦那様の工場から火が出まして、雨のおかげで一時間ほどで鎮火したのですが、ボイラー室から遺体が見つかりました。火傷を負ったボイラー係を助けようとして、閉じこめられ、煙を吸われたのでしょう」

　スティーブンスは淡々と語った。父に仕事を報告するときと同じ、実に彼らしいやり方である。

　だがあまりにも急な話に、ウィリアムズは声を出すことも、頷くことさえできずにいる。ただ最初の一言だけが、ぐるぐると頭を回っていた。

「申し訳ございません、ウィリアムズ様。あまりお時間がございません。工場の事後処理と、遺産相続の件を、メルヴィン様が急いでおられまして。既に学校の許可は取っています。校門に馬車を待たせていますので、早く」

　立ったままのスティーブンスが、ウィリアムズの手を取る。

「お待ちください」

　ウィリアムズの肩に手を置いて、セオドアが制止した。

「君は？」

　スティーブンスがじろりと見やる。初めて、セオドアがそこにいるのに気付いたようだ。

「学友のセオドア・イーデンと申します。外へ出るなら、嵐です。マントをお持ちしましょう。すぐに戻りますから、ここでお待ちください。ウィリアムズには、少し時間が必要です」

　セオドアの言葉に、スティーブンスが頷く。

　たしかにウィリアムズは動揺していて、すぐに立つこともできそうにない。スティーブンスもかなり気が急いているようだ。

　セオドアはまず、カウンターの裏から水差しを持ってきた。グラスに注いでウィリアムズに握らせ、それから図書室を出て行く。

　グラスの水を飲み干して、ウィリアムズは口がカラカラに乾いていたことに気付いた。これでは、声が出るわけもない。

「……父は」

　掠れる声で、今さら聞き返す。

　スティーブンスは黙って首を横に振った。あっけない答えに、ウィリアムズはそれ以上どうしてよいかわからず、また黙り込む。

　セオドアは、本当にすぐに戻った。手にウィリアムズのマントとトランクを持ち、何故か彼自身もマントを着ていた。

　座ったままのウィリアムズの肩を、セオドアがマントでくるむ。肩を抱かれて、ウィリアムズは自分の体が小刻みにふるえていることを知った。

「行きましょう」

　スティーブンスに促されて、席を立つ。

　足下がふらついて、ほとんどセオドアに抱え上げられたようなものだ。

　抱きかかえられるように、歩を踏み出す。意識と体がバラバラで、うまく噛み合わない。それでも行かなければならないのだ。

　馬車と汽車を乗り継ぐ数時間の道のりの間、セオドアの腕はずっとウィリアムズの肩を抱いていた。何故彼が同道しているのか、ウィリアムズはふと不思議に思ったが、問いただす余裕はなかった。

　ただ両肩から伝わる彼の体温が、ウィリアムズの気持ちを不思議に落ち着かせた。

−２−

　クリスマス休暇以来の屋敷に父の姿はなく、かわりに大勢の人間が出入りしていた。見知った顔も、見たこともない顔もある。人の声がざわざわと入り乱れ、虫でも鳴いているようだ。これが、慣れ親しんだメイフィールドの家なのだろうか。

　ウィリアムズが到着すると、人々は左右に分かれて道を開けた。スティーブンスが先に立って、サロンの奥へと導く。

　火のない暖炉の前に、大きな棺が据えられている。

　花で埋められた棺の中に、父が静かに横たわっていた。

　仰向いて目を閉じた顔に火傷はなく、頬はうっすら紅潮してさえ見える。目の下には青黒いアザが浮いていたが、穏やかな表情はまるで眠っているようだ。

　もしかしたら父はただ眠っているだけで、すぐにまた目を覚ますのではないだろうか。やさしい青い目に、ウィリアムズを映して微笑むのではないだろうか？

　かすかな期待を持って、ウィリアムズは指先で父の頬に触れた。

　だが、いつも穏やかな笑みを浮かべていた頬は、硬く強ばり、ひやりと冷たかった。棺桶を埋める花の下には、腐敗防止のために氷嚢が敷き詰められているのだ。これはもう、大好きだった父のアーヴィンではない。既に魂を失った、抜け殻に過ぎない。

　ウィリアムズは、その場にがくりとひざを着いた。

　三年前に母が病で亡くなったとき、十五だったウィリアムズは、徐々に冷たくなっていく母の手をずっと握っていた。どんなに強く握りしめても、命が指の間からこぼれて落ちていく喪失感は、今でも忘れられない。

　だが父の命は、最期の温もりに触れることさえなく、死に突然奪われたのである。

　どうして、受け入れられるだろう。眠りと死を、どこで区別するというのだろう。

　頭では父の死を理解することができないまま、理由もなく、ウィリアムズの目から涙があふれた。後から後からこぼれ落ちて、あごを伝い、父の棺に吸い込まれる。

　のどが、ひとりでにしゃくりあげた。

　ウィリアムズの意志ではない。ウィリアムズは、まだ父の死を認めてはいないのだ。なのにどうして、体ばかりが反応するのか。

　嗚咽がこみ上げる。自分ではどうしようもなかった。

　崩れそうになる体を、抱き込まれた。セオドアだった。セオドアはずっと、ウィリアムズのそばにいたのだ。

　セオドアのマントの胸で、ウィリアムズは泣いた。

　彼は、このために来たのかもしれなかった。

−３−

「ウィリアムズ」

　セオドアに連れられ、サロンの肘掛けに腰掛けたウィリアムズのもとに、一人の紳士が近寄ってきた。

　泣き腫らして少し狭くなった視界に、見知った顔が現れる。父と同じ、明るい金髪に青い目、整えた口ひげ。伯父のメルヴィンである。

「まったく気の毒なことだ。十五で母親を病に失い、また父親まで亡くすとは。その格好は制服か、学校を抜けてきたんだな」

　メルヴィンは、顔かたちをよく見れば父・アーヴィンに似ているのだが、華やかな服装や芝居がかった仕草のせいか、ほぼ正反対の印象だ。

　メルヴィンはウィリアムズの両手を握り、顔を間近に寄せた。

「本当に突然で、つらいことだ。その若さで両親を失ったお前の気持ちを思うと、言葉もない。だが現実にはせねばならんことがある。まずは葬儀だが」

　せわしなく、メルヴィンは語った。

　言われたところで、ウィリアムズにはまだ実感がわかない。ぼんやりと伯父の顔を見るばかりだ。

「葬儀については、既に教会に手配済みだ。参列者に知らせねばならないし、週末がいいだろう。新聞社にも訃報を打った。それから並行して、火事の後始末をせねばならん。隣接する各所に挨拶して損害の状況を確認し、必要があれば補償する」

　メルヴィンの言葉は、ほとんどウィリアムズの耳には入らない。何か必死にしゃべっているのだという映像だけが認識される。

　伯父は本来、放蕩な人物である。

　まだ若い頃に、賭博で莫大な借金を作り、返済と引き替えにメイフィールドの家を勘当されたと聞いている。

　今も賭博好きの悪癖は抜けず、たびたびウィリアムズの父を訪れては借金していた。父のアーヴィンは、あれで二人きりの兄弟、悪い人物ではないのだよと、笑って金を渡していた。

　その伯父が、葬儀の手配だの工場の火事の後始末だの言っている。どことなく、違和感があった。

「葬式の手配、工場の火事の損害補償、工場の再開まで、なすべきことはたくさんある。だがウィリアムズ、お前はまだ学生で、身動きが取れないだろう。後のことは、私がやろう。数少ない血縁を頼りなさい」

　言いながら、メルヴィンは一枚の紙切れを取り出した。

「委任状だ。火事の後始末と今後の工場経営について、またアーヴィンの遺産処理について、すべて私に託しなさい。ここにサインを」

　テーブルに委任状を広げ、先ほどから離さなかったウィリアムズの手にペンを握らせる。

　なるほど、伯父が張り切っているのはそういう理由らしかった。メイフィールド家の直系で、現在存命の男子は、伯父・メルヴィンとウィリアムズだけということになる。父の遺産を狙っているのだ。

　だがウィリアムズには、それを拒絶するだけの気力がなかった。

　実際にウィリアムズはまだ若く、父の遺産を継ぎ、工場を切り盛りしていくだけの自信がない。今、伯父が話しているようなことさえ、まるで頭に入らないのだ。

　父の死と同時に押し寄せる現実は、今のウィリアムズにはいとわしいだけだ。このまま、伯父に委ねるほうがいいのかもしれない。

　黙ってペンを持ち上げたウィリアムズの肩を、誰かがつかんで制止した。

　見上げればセオドアである。彼は、ウィリアムズの真横に立っていた。

「遺言状はありますか？」

　セオドアは、ウィリアムズにでもメルヴィンにでもなく、周囲に向かって声高に尋ねた。

「旦那様の遺言状なら、こちらです」

　即座にスティーブンスが答える。言い出すタイミングをはかっていたようだった。

「突然の事故ではございましたが、旦那様はメイフィールドの当主として、正式な遺言状を残されています。旦那様が家督を継いですぐに作成し、顧問弁護士である私がお預かりし、毎年見直しを行っておりました。ご遺言に従い、教会の立ち会いのもとに、私が財産分与を執行します」

　周囲のざわめきが一瞬大きくなり、すぐに静まる。それぞれに話をしていた人々が、一斉にこちらに注視する。

　皆、この家の財産の行方には興味があるのだ。それを知りたくて、集まっている人間がほとんどだろう。

「遺言状によれば、銀行にある個人名義預金のうち、二分の一を息子・ウィリアムズ様に、四分の一を兄・メルヴィン様に、四分の一を屋敷の使用人で等分に分け合うように、そしてメイフィールドの家屋敷、工場経営、及び工場名義の資産については、すべてご子息ウィリアムズ様が相続することになっております」

　ざわめきが大きくなる。

　メルヴィンは複雑な表情を浮かべた。工場の経営権を握ることについては、明確に拒絶されたことになる。だが、決して少なくはないだろうアーヴィンの個人資産の四分の一もが自分に残されるという遺言は、予想外の幸運だったはずだ。

　そしてウィリアムズは、さらに莫大な財を一人で譲り受けることになるのである。

「お聞きになりましたか、ウィリアムズ様」

　スティーブンスが、ウィリアムズに向かって確認する。

　人々が囁きあいながらウィリアムズの顔を覗き込んでくる。学校の制服を着たまだ年若い少年が、メイフィールド家の巨大な富を継ぐことになるという事実が珍しいのだ。

　降り注ぐ視線に、ウィリアムズはうろたえる。

　ウィリアムズは弱冠十七歳の学生に過ぎない。伯父・メルヴィンが言うように、工場のことは何もわかっていない。ここに集まった人間たちも、そういう目でウィリアムズを見ている。

　むしろこの場で、しかるべき人物に工場経営を委ねるほうがいいのかもしれない。

　口を開きかけたウィリアムズの肩を、セオドアは強く押さえて制した。

「ウィリアムズ。工場の経営権を譲ると遺言状にある以上、すべてあなたがやらなければなりません」

　周囲に聞こえないように耳元で、だがはっきりとセオドアは言った。

「でも」

「お父上の工場です。あなたがすべて取り仕切るべきでしょう。今回の事故のことも、今後のことも」

　マントを脱いだセオドアは、ウィリアムズと同じ制服姿である。黒い上着に白いシャツ、襟元には細い黒のリボンタイ。ウィリアムズより二つも年下の彼は、本来なら場違いであるはずのこの家に、堂々と立っていた。

「お父上のご希望です。私もできる限りの補佐をさせていただきます。あなたには、ただご了承だけいただければ、ウィリアムズ様」

　反対側から、スティーブンスが口添えする。

　そういえば彼は、学校までウィリアムズを迎えに来たとき「メルヴィン様が急いでいる」と言っていた。つまり、メルヴィンから遺産を守りたかったのだろう。そのために、ウィリアムズをここへ連れてきたのだ。

「よろしいですね、ウィリアムズ様」

　スティーブンスが、念を押しながら握手を差し出す。ウィリアムズは頷いて、その手を握り返した。

　伯父のメルヴィンが、複雑な微笑を浮かべてウィリアムズを見ている。

　こうしてウィリアムズは、若くしてメイフィールド家の当主となったのである。

−４−

　潮が引くように客人たちが帰宅すると、メイフィールドの家はがらんと静まり返った。

　館の主が亡くなったのである。使用人たちも悲しみに声を潜め、ウィリアムズは父のいない家の広さを改めて味わった。

「それでは、私もいったん帰ります。明日の朝、また参りますから」

　八時の鐘を機に、スティーブンスが腰を浮かせる。彼は一日中飛び回り、関係者とウィリアムズを引き合わせ、事故と相続に関する事務を次々進めてくれた。

　ウィリアムズはまだ状況をよく飲み込めていなかったが、今日一日で、父の信頼した弁護士・スティーブンスの有能さだけは確信した。彼さえいれば、工場のことは何とかなるだろう。

「君はどうするね？　学校へ戻るのかね？　直通の汽車は、もう終わった刻限だが」

　スティーブンスが、セオドアに声をかける。彼もまた、一日ウィリアムズのそばにいたのだ。

　本来部外者であるセオドアは、伯父・メルヴィンの委任状を制した後は、ほとんどずっと黙っていた。だが彼がそばにいることで、ウィリアムズは随分救われたように思う。彼がいなければ、もっとずっと取り乱していた。

　それはこの後の、眠れないだろう長い夜も同じだった。

「ベッドを用意させよう。きみは泊まっていくといい、セオドア」

　彼を引き留めようとするウィリアムズの提案に、セオドアは当然のように頷いた。

「ええ。どうせ学校はすぐ夏休みですから」

　どうもセオドアは、最初からそのつもりだったようだ。

　スティーブンスを玄関まで見送ると、邸内はいっそう静かになった。食後のお茶の支度をしてくれたメイドも休ませたので、サロンに残っているのはウィリアムズとセオドアの二人だけである。

　ウィリアムズの体は疲れていたが、頭が変に冴えてまだ眠れそうにない。何かセオドアに言わなければと思ったが、話をするほどの気力もない。父の追悼にくれるには、気持ちが高ぶりすぎている。

　時計の針の音の響くほどの静けさの中でお茶を飲みながら、ウィリアムズはそっとセオドアのほうを見た。セオドアは、ウィリアムズの心中を読んだように押し黙っている。

　結局、セオドアが何故ここにいるのか、ウィリアムズにはまだよくわからない。彼は学校の友人に過ぎない、完全な部外者なのだ。

　実際セオドアが口を挟んだのは、ただ一度、伯父のメルヴィンが、ウィリアムズに委任状を書かせようとしたときだけである。すべてウィリアムズがやるべきだというセオドアの主張を、後はスティーブンスが引き取った。

「伯父は、あれで納得しただろうか」

　いくつもある不安のうち、さしあたって一つを、ウィリアムズは口にした。

　今日のところは引き下がったものの、若いウィリアムズに少しでも隙があれば、伯父は口を出してくるだろう。

「伯父はずっと父の工場を欲しがっていた。以前に破産して、財産がないんだ。僕はまだ子供で、とても父の代わりはできない。いっそ伯父に渡してしまったほうがよかったんじゃないだろうか」

　ウィリアムズは、工場経営にそれほどの未練はない。

　そんなことで伯父と争う形になるほうが、憂鬱に思える。メルヴィンは何から何まで尊敬できる人物ではないが、数少ない肉親には違いないのだ。

　だがセオドアは、またしてもきっぱりと首を横に振った。

「あの委任状にサインをしたら、どうなっていたかわかっておいでですか？　お父上の残した工場を手放し、メイフィールドの名を守れず、いずれこの屋敷も追い出されますよ。ご両親の残した物を、やすやすと他人に渡してはいけません」

　思わぬ強い口調に、ウィリアムズも首を横に振る。

「でも、伯父は他人じゃない。まさか身内にそこまでのことは」

　持っていたカップをソーサーに置き、セオドアはまっすぐにウィリアムズを見据えた。

「本当にあなたはあの委任状に目を通されましたか？　この家と工場の一切を委任するという短い文言は、管理や経営のみならず、譲渡や売却までもゆだねるということになるのですよ。立派な学校へ行かせていただきながら、あんな乱暴な委任状、中身も読まずにサインするものじゃありません」

　指摘されて、言葉を失う。

　たしかにウィリアムズは、委任状の文言を、それほど具体的にイメージしてはいなかった。まさか伯父がそこまでするとは、考えもしなかったのだ。

「……あなたのお父上は、そういう世界でこの家や工場を守ってこられ、あなたに託されたのですよ」

　少し語尾を和らげて、セオドアがつけ足す。

　言われてみれば、伯父・メルヴィンが借金に現れるたび、父・アーヴィンは几帳面に金銭貸借書を取り交わしていたという。夕刻、父の遺産目録を説明しながら、スティーブンスが見せてくれた。

　支払期限が三十年も先のうえ、わずかな利子しかつけていないから、ほとんど贈与したようなもの、これもお父上のやさしさなのですよ、とスティーブンスは苦笑した。

　契約書があるので、逆に無理な取り立ては当面できないと言う。契約書で縛ることで、父は伯父をかばってきたのだ。勤勉な弟と放蕩な兄、一見正反対のメイフィールドの兄弟は、決して不仲ではなかった。

　そしてその父が、伯父・メルヴィンにではなく、ウィリアムズに工場を譲ると遺言したのだ。

「そう、だね。それが父の意志だ。僕は受け継ごう」

　言葉で言うほど、たやすくはないだろう。それでもそれが、亡くなった父がウィリアムズに望んだことなのだ。

　ティーカップの横で、拳を握る。指先が冷えて、震えている。

　そっと、セオドアの温かな手が重ねられた。

「『私』と言うんです、ウィリアムズ。明日からは制服ではなく、スーツをお召しなさい。少しでも子供と思われたら、侮られます。あなたのお顔だちは、どうしてもあどけなく見える。少し厳しいお顔をなさい。前髪を上げて固めて、五十も年上のつもりで振る舞うんです」

　セオドアは言いながら、ウィリアムズの前髪を後ろへ流し、クスリと笑った。

　セオドアは、滅多に笑顔を見せる人間ではない。けれどウィリアムズを励ますために、微笑んで見せたのだ。

　無関係のはずの彼が何故この場にいて、自分を励ましてくれているのか、ウィリアムズにはいまだにわからなかったが、何も聞かなかった。もしも聞いてしまえば、彼が去らねばならないような気がしたからだ。彼がいなければ、ウィリアムズは一人で、とてもこの状況に耐えられそうにない。

「うん、やってみる。工場もこの家も私自身も、父が残ししてくれた大切な遺産だ。どれも失うわけにはいかない。前髪を上げるのは、鏡を見てから考えるけど」

　頷いて、ウィリアムズも微笑んだ。

−５−

　慌ただしく日々は過ぎた。

　父の葬儀、火事の後始末、工場の再建と、ウィリアムズは仕事に追われた。スティーブンスは実に有能な弁護士だったし、父の選んだ工場長は実直で勤勉だった。

　セオドアはかばん持ちと称してウィリアムズとともに行動し、あらゆる場面においてその冷静な知性で助けてくれた。彼の頭脳は、ただ知識を蓄積するに止まらず、現実にどう使うかを心得ていた。

「セオドアは、実に優秀ですな。まるで工場経営の経験者ですよ。物腰も落ち着いているし、これでまだ学生とは」

　スティーブンスが感心して、たびたびセオドアを褒めた。実務家のスティーブンスから見ると、セオドアの経済学の知識に裏付けされた経営理論は、青臭いながら一種の衝撃だったようだ。

　ウィリアムズは毎晩、そんなセオドアから経済学の講義を受けた。

　講義というほど堅苦しいものではない。書庫で経済学の本をめくりながら、当日の出来事や、翌日の商談について相談するのである。

　表に立つのはウィリアムズだが、実際の実務はセオドアがやっているようなものだった。

「スティーブンスがずいぶんと褒めていたね。何と言ってもきみは創立以来の秀才、きみのために理事長奨学金ができたくらいだしね」

　手にした本のページをめくりながら、セオドアに話しかける。

　書庫で過ごす夜のこの時間が、この頃のウィリアムズにとって、ほっとくつろげるひとときになっていた。学校の図書室で過ごした時間のように、穏やかに時が流れる。

　ここでも書架整理に精を出していたセオドアは、ちらりとウィリアムズを振り向いたが、それきり黙って作業に戻った。彼は基本的に無口だが、こと自分のことになるとまるで愛想がない。

　ウィリアムズは頓着せず、先を進める。

「それで、スティーブンスに言われて思い出したんだけど、そろそろ新学期が始まるんだね」

　突然の父の死から、はや二ヶ月。何もかもが慌ただしく、ウィリアムズのそばを過ぎていった。学校のことなど、すっかり忘れていた。

　それでもウィリアムズが学校を休んだのは最後の十日ほどで、すぐ夏休みに入っていた。

　最終学年だったウィリアムズは、卒業式を欠席したのだが、何日かして卒業証書が届けられた。出席日数は足りていたし、事情が事情だけに学校も特別に取りはからってくれたようだ。卒業証書とともに、マーカスたちクラスメイトの寄せ書きも同封されており、ウィリアムズは名実ともに学校生活を修了したと言える。

　だがセオドアは、二学年も下である。去年の九月からの編入で、まだ二年の課程が残っている。まして彼は、理事長奨学生なのだ。学校で学ぶのは彼の権利であり、義務でもあるだろう。

「きみは、そろそろ、学校へ戻らなければならないね。セオドア」

　なるべくあっさりと、ウィリアムズは口にした。

　セオドアは本来、メイフィールドの人間ではない。ただの学校の友達で、彼がここにいるのは、たまたまウィリアムズの父親の訃報を受けた場に居合わせたからに過ぎない。

　あのときセオドアがそばにいなければ、ウィリアムズは彼の顔も見ずに学校を後にしていただろう。ルームメイトのマーカスにさえ、まともに挨拶していないのだ。

　それが、セオドアはたまたまあの場に居合わせたというだけで、帰途に付き添い、いまでは毎日一緒に商談に飛び回ってくれている。

　いま彼がここにいるのは、偶然のめぐりあわせの、ありえないほどの幸運なのだ。いつまでも続くはずがない。夏が終われば、彼もまたウィリアムズのもとを過ぎていく。

　ウィリアムズは、セオドアを見上げた。

　すっかり見慣れてしまった、背の高い、すらりとした後ろ姿。ウィリアムズでは手の届かない高い書架に、几帳面に本を分類順にしまっている。

　学校で図書委員をやっていたように、彼はこの家の書庫もきれいに整理してしまった。セオドアがこの家を去っても、ウィリアムズは彼が並べたとおりにこの書架を使うだろう。

「ねえ、セオドア。聞こえているのかい」

　背を向けたままのセオドアに、ウィリアムズはもう一度声をかけた。

　窓の外は、夏の終わりの嵐だ。秋を呼ぶ風と強い雨が、窓や壁に叩きつけている。雨音に紛れて、セオドアには聞こえていないのかもしれない。

　あまり、返事を先延ばしにして欲しくはないのだが。

　自分自身の提案とは反対の答えを期待してしまいそうで、ウィリアムズは考えないようにする。ただ一言、そうですね、といつもの素っ気なさで言ってくれれば、思い切れるのに。

　最後の一冊を書架に納め、セオドアはようやく振り向いた。

「学校、ですが」

　軽く握った右手をあごのあたりに当てて、口を開く。工場経営について彼が意見するときの、癖になっている仕草である。

「退学届けを出しましたので、戻れません」

　彼はひどくあっさりと、驚くべき事実を告げた。

　ウィリアムズは言葉の意味を理解するのに一秒ほどかけてから、ソファから飛び起きた。

「そんな！　君は理事長奨学生だったはずだ」

　理事長の援助により、学費・寮費・教科書その他一切を免除され、将来は大学に進学するべく、勉学に励んでいたはずだ。中途で退学しては、奨学制度の意味がない。認められるはずがない。

「ええ、随分と叱られましたがね」

　大して叱られてもいないように、セオドアは言う。そもそも、叱られて済む程度の問題ではない。

「学校で学んだことを、今すぐ友人を助けるために生かしたいのだと申しましたら、納得してくださいました。無駄になった学費については、出世払いでいいそうです」

　つまり彼は、将来の進学を投げ出したというのだ。ウィリアムズのために。

「そんな。どうしてそんな、ばかなことを」

　ウィリアムズは駆け寄り、セオドアの両腕をつかんだ。

「いまからでも遅くはない。退学届の撤回をお願いしよう、セオドア」

　セオドアは、創立以来の秀才と言われていた。卒業したら親の家督を継ぐ他の生徒たちと違って、彼はやがては高名な学者への道が拓けていたはずだ。故郷では、家族が彼の未来に期待をかけていることだろう。工場経営のような俗世ではなく、もっと多くの人々を導くのが彼の役割のはずだった。

「これでも随分悩んで決めたことなのですよ、ウィリアムズ。なのに、あなたには迷惑でしたか」

　穏やかに問い返されて、ウィリアムズは首を左右に振る。

「まさか、そんな、きみがいなければ私はここまでやってこれなかった。家のことも、工場のことも、父の死にさえ耐えられなかったかもしれない。きみがいなければ、私は、私は」

　迷惑なはずがない。セオドアがいなければ、ウィリアムズはこの夏を過ごせなかっただろうと本心から思う。

　だが、それでも。

「それでも、私のために、きみの将来を変える理由なんてないんだ」

　セオドアをこの家に縛っては、彼はどこへも行けない。

　ウィリアムズのかばん持ちとして、彼ほどの人材を埋もれさせるわけにはいかない。彼がどれほど有能であるかは、おそらく学校の教師より、ウィリアムズのほうがよくわかっている。

　彼を自由にすることが、ウィリアムズが彼にしてやれることなのだ。

　鼻の奥から、ツンとしたものがこみ上げる。ウィリアムズは、下を向いて唇を噛んだ。だから、答えを引き延ばして欲しくはなかったのに。

　セオドアは、小さくため息をついた。

　きつく握っていたセオドアの腕が、ウィリアムズの手の中から抜け出す。ウィリアムズは、追わなかった。

「言ったのはあなたですよ、ウィリアムズ。人を好きになるのに理由なんていらないと」

　自由になった手で、セオドアはウィリアムズの頬に触れて仰向かせた。いつのまにかあふれていた涙の粒が、細長い指を伝い落ちる。

「あのとき図書室で、あなたが一人でお父上の死に向かわなければならないと知って、そばにいたいと思ったんです。そしてこの家に来て、あなたの仕事を手助けしたいと思うようになった。単純な感情に、理由が必要ですか？」

　ウィリアムズの顔を覗き込みながら、セオドアがやさしく微笑む。

「私自身が、あなたのそばにいたいと思ったんです、ウィリアムズ」

　ウィリアムズは、言葉を失った。返す言葉もないまま、目の前のセオドアにただ夢中でしがみついた。

　セオドアの温かな腕が、ウィリアムズの肩を包み込む。

　最初に父の死を聞いたときも、家までの帰途でも、父の棺を前にしたときにも、そうしてウィリアムズを支えてくれた腕だ。無口なセオドアの、体温と鼓動が伝わってくる。

　この腕を離れては、ウィリアムズはもう生きていけないだろう。

　それは単なる事実ではなく、敬虔な誓約だった。セオドアが彼の将来をウィリアムズに賭けてくれたように、ウィリアムズもまたすべてをセオドアに捧げるべきだと思った。

　背伸びをして、ウィリアムズはセオドアに誓いの口づけをした。

　それはいつか図書室で交わした口づけよりも深く甘く、激しくなる雨音は二人きりの書庫を永遠を思わせる厳粛さで包んだ。