すらりとした長身は、昼下がりの陽だまりの書架に、濃く長い影を引いた。

　彼のことは、噂に聞いたことがある。通称・図書委員のセオドア・イーデン。二学年下の転入生で、彼のために理事長奨学金が設けられたほどの秀才だという。湖水地方の出身で、ここに入学するまでは、学校にも行かず、羊を追いながら本を読んでいたのだそうだ。

　ダークブラウンの巻き毛に金色の瞳、痩せた長身を、古びた制服に包んでいる。決して華やかな容貌とは言えなかったが、上流階級の子息ばかりが集まるこの学校では、彼の姿はかえって目立った。

　うつむき加減に目を伏せた表情や、固く引き結ばれた口元は、他の裕福な子供たちとはたしかに違っている。年は十五のはずだが、まるで二十歳くらいに見え、襟元の華奢なリボンタイが似合っていない。

　返却本を書架に戻していた彼は、ウィリアムズに気付くと、本を積んだ台車を引いて、場所を開けた。

　彼は休み時間も放課後もいつも図書室にいて、誰とも口を利いたことがないと、もっぱらの噂だ。

「図書委員さん、お疲れ」

　興味本位で、声をかけてみる。

　もともとウィリアムズは、夜になると歩き回る美術室の石膏像や、真夜中に十三回鳴る校長室の柱時計といった、学校の不思議な噂が好きだ。これでセオドアが口を利いたら、クラスメイトへのちょっとした自慢になる。

　が、セオドアは目礼を返しただけで、台車を引いて書架の向こうに姿を消した。誰とも口を利かないという噂は、どうやら本当らしい。

　ウィリアムズは小さく肩をすくめて、セオドアが戻したばかりの本に手を伸ばした。

　経済学の分厚い本で、一番上の棚にある。長身のセオドアの手は難なく届いていたが、ウィリアムズでは、背伸びをしても、背表紙の下の方に指先が触れるばかりだ。きっちり収められた本を引っぱり出すのはまず無理である。

　と、誰かの手が伸びてきて、本を抜き取った。

　振り向くと、間近に胸板があった。何故か、草原の香りがした。

　本は、ウィリアムズの手に渡された。図書委員が戻ってきて、本を取ってくれたのだ。

「高い書架の本を取りたいときは、踏み台を使ってください。無理をすると、本が落ちて危険です」

　図書委員のセオドアは、無愛想に注意した。

　何のことはない。必要があれば、彼だって口は利くのだ。

「ごめん、ありがとう。ね、きみ」

　すぐに行ってしまおうとするセオドアを呼び止めて、ウィリアムズは肩に手をかけた。

「葉っぱみたいなのがくっついてる。どこか原っぱにいたの？」

　黒い制服の肩についていたのは、緑色の、小さな実のようなものだ。豆粒ほどの実の回りに、ハリネズミのようにトゲが生えている。つまみ上げると、指先にチクチクと痛い。

「ああ、オナモミですね。昼休みに裏庭で昼寝したときにくっついたんでしょう」

　セオドアはウィリアムズからオナモミを取り上げると、自分のポケットにしまった。

　この図書委員は、意外にも学校の雑草だらけの裏庭で昼寝なんかするらしい。意外な発見は、ウィリアムズの興味をそそった。

「ね、それどうするの？」

　追いかけて、訊ねる。

「僕にくれないかな。それ、初めて見る。こんなのが学校の裏に生えているの？　どうしてこんな形をしているか知っている？」

　学校の正面の校庭には目の細かい砂が敷かれ、外周には植木と花壇が整えられている。片隅に雑草の類も生えてはいるが、ウィリアムズはじっくり見たことがない。こんな変な形のものが、そのへんに生えているものなのだろうか。

　セオドアはちょっと変な顔をして、ポケットからオナモミを取り出した。手のひらを開いて、ウィリアムズに渡す。

「植物図鑑なら、カウンター前の大型本コーナーにあります」

　それだけ言って、セオドアは今度こそ行ってしまった。

　ウィリアムズは言われたとおり、カウンター前の書架に向かった。背の低い本棚に、大きくて分厚い本が並んでいる。植物図鑑を引っぱり出して、閲覧台に広げる。

　図鑑はめくり癖もなく、きれいだった。プライマリースクールの図書室じゃあるまいし、ウィリアムズと同年代の生徒は図鑑なんか見ないのだろう。

　オナモミの絵の横に、セオドアにもらったオナモミを置いて、見比べる。当然だが、絵と本物はそっくりだった。本物のほうが、少し形がいびつである。

　解説によれば、種子はかぎ状の突起で動物の体にくっつき、遠く運ばれた先で発芽し、分布を広げるのだという。

　植物のくせに、はじめから他者をあてにしているというのが、ウィリアムズには興味深かった。何となく、セオドアと真逆だと思う。極力他人にくっつかないようにしている彼は、オナモミにしたらきっとツルツルしてつかみ所がないだろう。

　想像して、カウンターの中に戻ったセオドアを見て、ウィリアムズはこっそり笑った。

　無愛想な図書委員は、知らん顔で本を読んでいた。

−２−

　それからウィリアムズは、図書室に毎日通うようになった。

　別に何をするわけでもない。図鑑を眺めたり、経済学の本をぱらぱらめくったりし、書架の森でセオドアに遭遇すると、微笑んで挨拶をした。セオドアは用がない限り黙礼で済ませようとしたが、ウィリアムズのほうでも、どうすれば彼の反応を引き出すことができるか、だんだんとわかるようになってきた。

　純粋にセオドアという人間に興味がわいたことと、学校中の誰も知らない彼の素顔を、ウィリアムズだけが垣間見ることができるというのが、面白かったのだ。

「あなたは何故、私に関わろうとするんです？」

　カウンター越しに覗き込んでくるウィリアムズに、セオドアが少し憮然とした表情で問いかける。

　セオドア自身は、同級のクラスメイトやルームメイトとさえ、関わりを持とうとはしていないようだった。今だって、本の目録を記入する手を止めず、ウィリアムズの顔を見ようともしない。

　セオドアは朝は誰よりも早く起きて図書室を開き、昼休みはときどき裏庭で昼寝をし、放課後は閉室時刻まで図書室にいりびたる。本当は図書委員などという係はないのだが、まるで図書室に住み着いたかのような彼に、担当教師が図書室の鍵の出納を任せてしまったのだった。博識の彼は、図書館学さえ心得ていて、雑然としていた図書室をあっと言う間に整理した。図書室はいわば彼の要塞で隠れ家になった。

　生徒たちもまた、自分たちと同じ富裕階級ではない、質素な身なりの奨学生と積極的に関わろうとはしなかった。遠巻きにし、退屈しのぎに噂をし、教室以外でその姿を探そうとはしない。

　そうしてセオドアは、授業以外には図書室でしか見かけない、学校の不思議の一つになったのである。

　だがウィリアムズは、セオドアに興味を持ってしまった。好奇心の強いウィリアムズにとっては、彼が裕福ではないことや、奨学生という特殊な立場であること、図書室にこもって他人との関わりを避けようとしていることなどは、まるで気にならなかった。

「何故って、理由なんかないよ」

　無愛想どころか、迷惑そうに眉根を寄せたセオドアに、ウィリアムズはありのまま答えた。

「君は誰かを好きになるのに、理由が必要なのかい？　誰かを好きな理由なんて、好きになった後から見つかるものだと僕は思うよ。僕はきみと友達になりたいんだ」

　真正面から見つめて微笑むと、セオドアは不意をつかれたように目を見開き、赤面した。そして赤面した自分に気付くと、目をそらして足早に逃げ出してしまった。

　表情はそれほど変わらなかったが、内心ではたいそう驚いていたのだろう。

−３−

　思ったことをすぐに口に出す、まるで子供のようなウィリアムズの癖は、ときどき親しいルームメイトでさえ驚かすことがある。

「で、実際ウィル、どこがいいわけさ？　苦労顔ガリ勉転入生君のさ」

　ルームメイトのマーカスが、就寝前のお茶請けがわりにウィリアムズに訊ねる。ふっくらした頬のマーカスは、寝間着に着替えてから砂糖たっぷりのお茶を飲むのが毎晩の習慣だ。

「そう言われると、わからないな」

　寝間着の丸首から頭を出して、ウィリアムズは首をかしげる。寮生は皆、揃いのワンピース型の寝間着に着替えて消灯する。

「ただ僕には、彼は何もかもが違って見える。年下なのに年上みたいで、頭が良くて何でも知っていて、答え方も人と全然違って面白い。そのくせ、ごく当たり前のことにうろたえたりするんだよ。たとえば、ちょっと笑いかけられたりするだけでね」

　図書室でのことを思い出して、ウィリアムズはクスクス笑った。セオドアの驚いた顔を見たことがあるのは、たぶん学校中で自分だけだろう。

「やれやれ、本当に君は変わったものが好きだねえ、ウィル」

　両手でカップを抱えたまま、マーカスが小さく肩をすくめる。

　マーカスとは、入学以来最高学年の今日に至るまでの長いつきあいだ。新入生の六人部屋の頃からのルームメイトで、食の細いウィリアムズの食べ残しを片づけるためにいつも一緒だ。そのマーカスでさえ、ウィリアムズのことは「変わったものが好き」と認識しているらしい。

「だって理由や理屈で人を好きになるんだとしたら、みんながみんな一人の人間を好きになっちゃうだろ。人はちゃんと、人と違う人を好きになるようにできているんだよ」

　ウィリアムズは胸を張ったが、マーカスは鼻で笑った。

「それで君は、図書委員君に出会って好きになったというわけかい？」

　そういうことに、なるのだろうか。マーカスの言い方は、少し大げさな気もする。

　砂糖たっぷりのお茶を飲み干して、マーカスはため息をついた。

「まったく、君への未練を残して卒業した先輩たちも気の毒に。君の言うように、みんなが違う人を好きになるとして、うまく相思相愛になるとは限らないんだね。図書委員君はだいたい、人を好きになるわけかい？　迷惑がる彼を、君が一方的に追いかけ回しているって噂になってるぜ、ウィル」

　言われて初めて、どきりとする。

　ウィリアムズはセオドアと話をするのが楽しかったが、そういえば彼は、いつも迷惑そうな顔をしている。もしかすると、彼は本当に誰も好きになったりしないのだろうか。

「迷惑、なのかな」

　図書室で昼間セオドアが逃げ出したのも、ウィリアムズにほとほと困り果てたということなのだろうか。

　彼はまるで、ウィリアムズの気持ちを聞いたこと自体を、後悔しているようだった。ウィリアムズにしてみれば、ただ聞かれたから素直に答えただけだ。隠すつもりもなければ、普段の態度からとっくに伝わっていると思っていた。

　だがセオドアには、ウィリアムズの告白は、受け止めかねるほどの衝撃だったのかもしれない。

　互いに憎からず思っていれば、気持ちを伝え合うことはたやすい。でもどちらかが違う気持ちだとしたら、それは重荷になる。そんなことに、どうして今まで気付かなかったのだろう。

　冷たい手で心臓をつかまれた気がして、ウィリアムズはすとんとベッドに座り込んだ。

「君も、君もそう思うのかい、マーカス？　僕は彼にとって、迷惑だろうか」

　膝の上で手を組んで、そっとマーカスに聞く。つきあいの長いマーカスなら、ちゃんと答えてくれるだろう。

　途端に、マーカスはぷっと吹き出した。

「バッカだな、何て顔してるんだよ、ウィル。無敵のベビーフェイスの君に笑いかけられて、迷惑な男なんていないだろうさ。あの図書委員君はいつも機嫌が悪そうだけど、不思議に君のことはいやがっていないみたいだし。名門メイフィールド家の貴公子様が、奨学生なんかに夢中なのに妬けて、ちょっとからかってみたってわけさ」

　マグカップを食器棚に置きがてら、マーカスは座り込んだウィリアムズの金髪をぐしゃぐしゃかき回して通り過ぎた。

「意地が悪いな、マーカス！」

　少しばかり腹の立ったウィリアムズは、ベッドの上の枕をつかんだ。

　寮長が消灯に回るまでの数分を、マーカスと枕叩き決闘に費やすことにしたのである。

−４−

　翌日の放課後、ウィリアムズはいつものように図書室へ行った。

　暦はもう十一月だったが、セント・マーチンの夏と呼ぶべきあたたかな陽気で、昼下がりの日差しは心地よい眠気を誘った。授業中から眠くて仕方なかったウィリアムズは、他の生徒や生真面目な図書委員の目を避けて、奥の窓際の閲覧席に陣取った。

　図鑑を読むふりで形ばかり広げて、頬杖をついて目を閉じる。

　陽だまりの中で座ったままのうたたねは、寮のベッドで眠るより何倍も心地いい気がする。眠りの底へ落ちきらず、浅いところに引っかかった意識が、陽差しのぬくもりと眠りのやわらかさをむさぼっているのがわかる。

　ふと、誰かの気配が近くに立った。

　図書室で居眠りしてはいけないと、誰かが注意に来たのかもしれない。だがその誰かは、ウィリアムズの眠りを破らぬよう足音をひそめていた。

　それどころか気配は、無防備なウィリアムズを守るように、そっと傍らに寄り添った。誰かに付き添われて眠るのは、まるでゆりかごで眠る子供のような気持ちになる。

　そうしてどれくらい、まどろんでいたのか。

　ふわりと目覚めたウィリアムズは、傍らにセオドアが立っているのを見つけた。

　セオドアは何か言いたそうな顔をしていたが、居眠りを咎めに来たわけではなさそうである。むしろ困ったような、おどおどしたような、彼にしては随分と珍しい表情で、両脇に垂らした拳を繰り返し握りなおしている。

　彼はいつから、そこにそうして立っていたのだろうか。

　やあ。

　ウィリアムズは微笑んで声をかけたが、寝起きの声はのどにからんで音にならなかった。

　仕方がないので、挨拶がわりに片手を伸ばす。セオドアは相変わらず立ち尽くしている。

　ウィリアムズはセオドアの頬に触れ、そっと引き寄せた。促されるまま、セオドアが長身を屈める。くらむ金色の陽だまりを、セオドアの影が音もなく遮る。

　そうしてできた小さな影の中で、ウィリアムズはセオドアの唇にそっとキスをした。

　ほんの少し、互いの体温が伝わるくらいに触れて、すぐに離れる。

「ね。理由なんかいらないだろ」

　首をかしげて微笑む。

　セオドアはまた、驚いたように目を見開き、赤面した。が、今日はもう逃げ出さなかった。

　困ったような、面はゆいような、これまでに見たこともない表情で、ウィリアムズの目をまっすぐに見つめる。セオドアが、本を挟まず、正面からウィリアムズを見つめるのは、もしかすると初めてかもしれない。

　それきり、どちらも何も言わなかった。何も言わなくてもよかった。

　セント・マーチンの恵みのもたらす陽だまりは、図書室にあたたかく静かな影をつくった。