不況で、全国的に就職が厳しいのだという。それでも、僕の友達はみんな進路を決めた。何が違ったのかわからない。気がついたら、僕一人だけ、ぽつんと取り残されていた。

　就職活動を始めた頃は「自己分析が大切だ」と言われ続けた。

　自分の長所は何か、短所は何か、将来の希望は何なのか。何が好きで、何が嫌いか、何が楽しいか。自己診断シートにチェックつけさせられたり、ノートに幼い頃からの半生を書かされたりした。

　言われるまま、書いて分析して考えて、それでも内定はもらえず、一年以上経った今は、かえってわからなくなった。今の僕は何者で、何になりたいんだろう。

　履歴書用の「将来の希望」ではなく、子供の頃の夢ならば「海賊」だったと答えられる。小学校の卒業文集にそう書いてある。

　船に乗って、海を越え、見知らぬ国へと旅をする。前人未到のジャングルを進み、伝説の宝を手に入れる。たとえば人魚がこぼした真珠の涙、海に沈んだ古代王国の金の冠、鞘にダイヤモンドをちりばめた海賊王の剣。

　冒険の末に見つけた宝箱を開く瞬間は、きっとどんなにかドキドキワクワクするだろう。

　けれど今はもう、あの頃のように無邪気な夢は見られない。

　海の向こうへは、船よりも飛行機で行くことを知った。切符一枚で、地球の裏側まで簡単に行ける。

　見知らぬ国なんて、もうどこにもない。世界はあっという間にインターネットの海に呑みこまれてしまった。

　幸せって、何だろう。ドキドキすること、ワクワクすること、大人になって、あれこれ考えるようになったら、何もかもわからなくなってしまった。

　もしかしたら、幸せなんて、子供の頃に見た夢の中にしかないのかもしれない。

　だとしたら、もう僕の手には届かないもの。意味のないものだ。

　何だか、疲れた。

　前へ進めと言われても、どこへ行けばいいのかわからない。好きに生きろと言われても、何をしたいかもわからない。

　僕みたいな人間は、生きている意味があるんだろうか。

　別に死にたいとも思わないけど、ただ生きていても出口がない。

　この時期の就職セミナーに出てみても、みんな僕と同じような顔をしている。同じように出口のない人たちの中にいるのが辛くて、僕は会場を抜け出した。

　外へ出たところで、出口のない灰色の街があるだけだけど。

　うつむいて足元を見ながら、僕はただ歩き続ける。

◆

　都会の雪なんて、すぐに溶けてなくなる。実際、足元に落ちた雪は白くもなく、アスファルトに黒いしみを作っている。

　もし積もったとしても、泥にまみれ、たくさんの靴に踏まれるだけだ。溶けて流れてしまうほうがよっぽどいい。

　僕はもう子供の頃のように、ただ降る雪を喜ぶことはない。

　ふと、人の気配がした。

　顔を上げると、すごく高い位置に人の顔がある。背が高いわけではない。柵の上に、人が立っているだけだ。

　その人は何故か、柵の上に立って、目の上に手をかざし、伸び上がるようにして遠くを見つめている。

　柵の向こうは、海。真っ黒な都会の海が、空に舞う小雪を呑み込んでいる。

　海から、潮を含んだ冷たい風が吹き上げる。黒いマントが風にひるがえり、僕の鼻先をかすめた。

　何でこの人は、マントなんか着ているんだろう。マントを着て、柵の上から、海を眺めているんだろう。

　頭のかぶった黒い帽子の、変わった形のつばが顔の一部に影を作る。だいぶほころびているけれど、台形みたいな形には見覚えがあった。

　たぶん、海賊の帽子。

　僕は目を見張る。

　まさか、こんなところに海賊がいるなんて。

　冷たい海風に立ち向かい、海の向こうを見据える目の輝きの強さは、まさしく宝を見つけた海賊のもの。

　ああ、海賊だ。

　僕のなりたかった海賊が、目の前にいる。

　彼は、どこから来たのだろう。どこへ行くのだろう。

　宝の地図を片手に旅をしているのだろうか。それとももう宝を見つけたのだろうか。

　あれこれ考えていると、海賊が僕を振り返った。海賊帽の黒い影から、僕を見つめる二つの目。

　そこで僕はふと現実に帰る。

　海賊なんか、いるわけがない。

　子供の頃に見た夢とは違う。ここは現実で、不景気の現代日本だ。目の前に見えている海だって、公園の観光用背景みたいなもので、冒険の海とは程遠い。

　だからこれは、海賊なんかじゃなく、ただマントを着ただけの男。

　それどころか、こんな格好で海の柵の上に立っているなんて、頭がヘンな人かもしれない。

　目なんか合わせないほうがいいに決まってる。

◆

　僕が目をそらす前に、のん気な挨拶が降ってきた。頭上のヘンな男からだ。

　僕はドキリとする。

　黙って会釈だけ返して、立ち去るべきだ。ヘンな人には関わらないほうがいい。

　そう考えながら、僕の足は立ち去りがたくその場に貼りついて動かない。やっぱりこの人は海賊かもしれないという、ありえない期待を消せずにいる。

　だってこの人はやっぱり、海賊みたいな眼をしている。海を映して、キラキラ輝いて、向かい風にも屈しない。風に膨らむマントの中には、海底から引き上げた宝を隠し持っているかもしれない。

「あの。何か、見えるんですか」

　誘惑に負けた僕は、会釈と一緒に素直な疑問を口にした。

　手をかざして、海の向こうに彼が見ていたもの。気にならないわけがない。

「ちょっとね、海賊の宝をね」

　こともなげに、すごい答えが返ってくる。

「かいぞく！？」

　頭の中を覗かれたのかと、僕は混乱する。ここは不景気の現代日本で、海賊なんかいるわけがないというのに。

「ほらあそこ、海の中」

　人差し指で海の一点を指し示す。男にしては細すぎる華奢な指先。

　絶対この人は海賊なんかじゃない。わかっていて、まだ僕あきらめられない。

　彼の指差す先で、黒い海の中からかすかに泡が浮かぶ。小雪の舞う海面に、水中から黒い影がせりあがってきて。

「たからばこ！」

　現れたのは、宝箱。子供の頃に絵本で見たのと同じ、板材を金属のたがで組み合わせ、頑丈な錠で封じた箱。

　海賊がニヤリと笑って、空を手招く。

　宝箱は海中から飛び出し、放物線を描いて海賊の手に収まった。まるで魔法だ。

　僕は夢でも見ているのだろうか。これは現実に起きていることなのか。

　僕の目の前に、海水がしみて藻の絡んだ、海賊の宝箱がある。

「なんで、こんな。なにが、はいって」

　混乱する僕の横に、海賊がヒラリと飛び降りてくる。手の中には、封がされたままの宝箱。

「中、見たい？」

　もちろん見たいに決まっている！　僕は何度もうなずく。

　海賊は首元に手を入れた。大きな古い鍵をペンダントみたいに吊り下げている。海賊というものは、どんな鍵でも開けてしまう魔法の合鍵を持っているものなんだ。

　差し込むと鍵穴にピタリと合って、カチリと錠が開く音。

　長い歳月封じ込められていたものが、開放される瞬間。僕は息を詰めた。

◆

「わ、わっ！」

　バサバサと騒々しいそれは、危うく僕の顔にぶつかりそうになり、直角に避けて、海賊の帽子を跳ね飛ばした。

　尻餅をついて見上げれば、ただの白いハト。

　ちょっと重そうに、小雪の舞う灰色の冬の空に飛んで行ってしまった。

「あーあ、逃げられちゃった。もうちょっとご協力お願いしたかったのになあ」

　ハトの落とした白い羽毛を宝箱に受け止めて、海賊が残念そうにため息をつく。

　……ええと、なんで？　なんだ？　なんだって？

　海賊は地べたに座り込んでしまった僕を見ると、ケラケラ甲高い声で笑い出した。

「ごめんごめん。びっくりした？」

　僕の腕をつかんで起こしてくれる、細い手。

　帽子を取って、間近に顔を見ると、かなり若い。ヒゲなんか全然はえてなくて、隻眼でもなく、手足ばかりか体もヒョロヒョロ細っこい。

　フック船長よりは、ピーターパンみたいな感じ。

　この人は、絶対に海賊なんかじゃない。

「……いったい、これはなんの」

　何をどう聞けばいいのかわからない僕に、彼はあっさりと種明かしをした。

「マジックだよ。オレは魔法使い、マジシャンのハルミ」

　マジック、手品、トリック。すなわち、いたずら。

　このハルミとやらは、この寒空の下、仰々しくマントを着込んで、種を仕掛けて、こんな柵の上に立ち、僕みたいな間抜けが引っかかるのを待っていた。

　コイツは、海賊なんかじゃない！

「なんで、こんなこと……」

　僕には、さっぱりわからない。この人は何がしたくて、何のために、こんな手のこんだいたずらを。

　僕の腕をつかんだまま、彼が答える。

「何でって？　楽しいから」

　答えは、たったの一言。

「だからなんで、こんなことが楽しいんだよ！」

　思わず僕は怒鳴りつける。

　びっくりして、がっかりした。

　海賊だなんて思い込んで、無駄な期待をした僕が心底バカだった。

　ここは不況の現代日本、海賊なんかいるわけがない。子供の頃に見た夢なんて、もうどこにもない。

　でもハルミと名乗った彼は、まるで動じなかった。僕の腕をつかんだまま、えらそうに胸を張る。

「……じゃあさ、何が楽しいの？」

　は？

「どんなことにドキドキして、ワクワクする？」

　何だって？

「なにが、きみの、しあわせ？」

　そんなもの、どこにもないのに。

「ないよ、そんなもの」

　僕が答えると、大きな目がパチクリと瞬く。この人の視線は強いけれど、海賊じゃなくて、ピーターパンの目だ。

「ごめん。マジックが嫌いな人が、オレみたいのに声かけてくるとは思わなかったから」

　憐れむような眼差しを向けられる。

　そんな目で見るなよ。僕の腕をつかんだ手、いい加減にはなしてくれよ。

「きみはまだ、幸せを見つけてないんだね」

　見つけるも何も、幸せなんてあるわけがない。子供の頃の夢は消えた。あるのはただ、楽しくもない現実だけ。

　でもハルミは、にこりと笑った。

「オレだって、幸せの国に住んでるわけじゃないよ。ただ何が幸せか、知ってるだけ」

　俺の腕をつかんだ手は、細く見えて力強い。冷たい海風に吹かれながら、血が通って温かい。

「マジックは、楽しいよ。ドキドキして、ワクワクして。ひとにはわからないかもしれないけど、オレの幸せ、宝物」

　開いたままだった宝箱のふたを、大切そうにハルミが閉じる。

「じゃあ、きみには、これあげる」

　つかんだままの僕の手をさらに引いて、ハルミは宝箱を載せた。

　持ってみると、片手に載るくらいの小さな箱だ。形は確かに宝箱だけど、海水がしみた汚い木箱に過ぎない。中にはたぶん、ハトの羽毛が一片入っているだけ。

「中に入れる宝物、探してみて」

　何故か僕は、それを素直に受け取った。

　ただの汚い空箱だとわかっていながら、何故だか欲しいと思ったんだ。

「いつかどこかに隠しておいてよ。オレが探しに行くから、きみの宝箱」

　そう言って、ハルミはニヤリと笑う。

　やっぱり、この人の目は海賊の目だ。

　自由で、奔放で、まっすぐに海を映して、本物の宝物が何かを知っている。海の底から引き上げた宝箱を開く、海賊の幸せを知っている。

　海賊はいつも宝箱を探すけど、それは他の誰かが中身を詰めたものだ。

　金や銀や財宝が入っていることもあれば、空っぽだったり、ハトの飛び出すびっくり箱だったり、恐ろしい呪いが封じ込められていたりすることもある。

　でも海賊には、箱を開ける瞬間こそが宝物なのだろう。

　ドキドキして、ワクワクして、幸せ。

　ハルミはそう言った。

　僕はこの宝箱に、何を入れられるだろう。何にドキドキして、ワクワクするんだろう。それはたとえば、履歴書にかけないようなことでもいいのかもしれない。

　ハルミが、ふと空を見上げる。

　つられて見上げた空には、雪の結晶が風にふわふわ舞っている。

　子供の頃には、雪の日にはこうやって空を見上げたっけ。灰色の空から限りなく生まれてくる雪が不思議で、耳や鼻先が冷たくなるのも気にせずいつまでも眺めていた。

　気がつけば、ハルミの姿はもうどこにもない。

　溶けるばかりだと思っていた雪は、うっすらと白く景色を包みはじめている。

　出口は相変わらずどこにも見えない。

　でも僕は手の中に、海賊の宝箱を握り締めている。

Ｆｉｎ．