都
会
の
森
の
底

　公園には高台がある。展望台とまでは行かないが、夜の街が見下ろせる。少しだけ、気分転換をしたかった。

　毎日毎日残業で、仕事しかしていない。たまの休日も寝て過ごす。そんな生活が、もう十年近く続いている。

　派遣社員なら、もう少し気楽なものだと思っていた。ＩＴ系の技術派遣で、それなりの給料をもらっているが、その分仕事もたっぷりある。

　今の会社は四年目だが、私の仕事は年々増えるいっぽうだ。春からは自分より若い上司が来たが、私の待遇はこの先もずっと変わらないのかと思うと気が遠くなる。

　いっそ辞めて終わりにしたいと思う瞬間もあるが、生活のことを考えると現実にはならない。郷里には家業の船を継いだ弟夫婦がいて、寝たきりの母の面倒を看ている。生活は苦しいらしく、少しでも仕送りを続けて、家計の足しにしてやらねばならない。生きている限り、終わらないのだ。

　それでも二十代の頃には趣味もあった。交際していた女に誘われて、トレッキングやテニスに出かけたりした。

　だが忙しくなるにつれて、外出が億劫になり、女も面倒になった。自分の人生の意味や、将来を考えることに、意味を見出せなくなった。

　生き甲斐は自分で見つけるものだが、生き甲斐なんてなくても死なないものだ。

　子供の頃には時の流れはゆっくりで、時間がもっと無限にあった。学生時代は忙しく、時間があったとは言い難いが、勉強やスポーツや遊びや恋愛と毎日充実していた。それがこの頃は、喜怒哀楽も何もなくても、パソコンの画面を眺めているだけで、あっと言う間に時が過ぎていく。

　このまま何もせず何も残さず、老いて死ぬしかないのだろう。

　今の私には何もない。何もないのに、生きている。

◆

　夜の公園は、静かだった。

　背後のベンチでは、カップルが人目もはばからずラブシーンを繰り広げている。他人とあんなことをしたいと思う気力も、自分にはもうない。

　たとえば今ここで、私がこの柵を乗り越えて飛び降りたら、カップルはさぞかし驚くだろう。とんでもないものを見たと、いやな気分になるだろう。

　何もない私にとっては、柵のこちら側にいるのも、向こう側へ飛ぶのも、さして気分は変わらない。それでも傍から見れば、大変な騒ぎになる。私の命だというのに、私にとってはどうでもよく、見ず知らずのカップルにとってのほうが大事件だというのは、考えると奇妙な事実だった。

　身を乗り出して、柵の下を覗く。

　夜も遅いというのに、眼下には街の灯が眩しく輝いている。都会の夜は明るいものだ。

　だが柵の真下、私が飛び降りようかと狙いを定めるあたりには、不思議に暗い部分あった。たしか神社か何かがあったから、鎮守の森かもしれない。

　都会の片隅に、ひっそりと沈黙する暗闇。こういう場所がまだあるのかと思うと、何故だかほっとする。

　まるで、私を受け入れてくれる場所のようで。

　このままあの闇に吸い込まれてしまえたら、どんなにか楽だろう。カップルに目撃されて飛び降りる等と事件性のある形ではなく、神隠しのように忽然と消えて、あの暗闇にたどり着けたなら。

　憧憬を込めて、私は都会の片隅の闇を見る。

◆

「そこから落ちたらダメだよ」

　いきなり声をかけられ、驚いた私は、危うく柵から落ちそうになった。

　両手で柵につかまり、へっぴり腰で踏みとどまる。いざとなると体が反射で命を守ってしまうものだ。

　そんなことはわかっているのだから、甘く痺れるような誘惑に、ちょっとくらいひたらせて欲しかった。

　こんな無粋な真似をするのは、何者だろう。

　振り返ると、立っていたのは少年だった。今時の若者らしく、ヒョロリとした体型で、生身の重さを感じさせない。

　幼い顔だちの中で、猫のような眼がらんと光っている。都会の夜を照らすのは、街灯りだけではないらしい。

「落ちたらダメだよ。ちょうどこの下には泉があるんだから」

　猫の目の少年は、意外な事実を告げた。

「泉？」

　思わず私は聞き返す。

　そんなものは、なかったはずだ。このあたりには大きな水脈はないし、地図にもない。

「知らないかもしれないけど、水がわいてるんだよ。昔から、ずっとね」

　こんなところに、水がわいていただろうか。乾いた都会の片隅に、泉？　不似合いな響きを私はいぶかしむ。

「量は多くないけど、枯れてない。魚や鳥や虫たちが重宝してる。人が落ちて、埋められたりしたら困る」

　要するに、私の身を案じるよりも、泉を守ることが彼の目的らしい。

　ここで私が飛び降りたら、ベンチのカップルは私という人間の死に衝撃を受けるだろうが、この少年はまず泉に集う魚や小鳥や虫のことを心配するのだろう。私自身には、柵のこちら側も向こう側も大差ないというのに。これもまた、考えると奇妙な事実だった。

「その顔は、信じてないね」

　小さく、少年が肩をすくめる。

　私はむしろ彼の言動を不思議に思っているのだが、少年は泉の存在証明をしようとしているらしい。

「見せたげるよ、ほら」

　どこに隠し持っていたのか、細長い筒を取り出して、私に押しつける。

　促されるまま受け取ると、筒は軽かった。ラップの芯くらいの大きさで、というよりラップの芯そのもので、ぐるりを黒い布に覆われ、片端に覗き穴がついている。

　少年が、柵から身を乗り出して、下の闇を指さす。

　このラップの芯を望遠鏡のようにして覗け、ということらしい。

　街灯りを見るならともかく、下の闇を覗いたところで、真っ暗なだけだ。そう思いながらも、少年の勢いに押されて、私は望遠鏡もどきを片目に当てる。この子供だましの仕掛けで少年が私に何を見せようとしているのか、好奇心もあった。

　視界は、案の定真っ黒だった。

　と、思うと、キラリと光る何かが横切る。さらに身を乗り出すと、キラキラが広がって、ユラユラ揺れた。

　ああ、これは万華鏡だ。

　子供の頃に覗いた、仕掛けものの筒。夜店で買い、三面鏡とビーズの織りなす不思議な世界を覗き見た。仕組みについては理解できても、眼前に広がる世界の不思議な美しさは変わらない。

「水が、わいてるでしょ？」

　傍らの少年が囁く。

　たしかに、揺れるきらめきは水面のようにも見える。闇の底を透きとおった水が満たし、その表面は銀色に輝き、揺れて崩れてまた光をこぼす。夜でも眩しい街灯りを映して、反射し、吸い込み、深い深い水底へ。

　水底から、泡がたちのぼる。キラキラ、ゆらゆら、浮かび上がってきてパシャンと大きな水しぶきが。

「……えっ？」

　まつげに冷たい水が跳ねて、私は思わず筒から手を離した。

　ゆっくりと、私の手を離れた筒が柵の向こうに落ちていく。黒い筒の端から、冷たい水しぶきと、魚の銀鱗があふれて、キラキラ光をふりこぼす。

　黒い筒は、柵の下の闇に吸い込まれて見えなくなった。

「あーあ、魚たちビックリしてら」

　柵から身を乗り出して下を覗いて、少年が舌打ちする。

「だから、泉があるって言ったのに」

　柵に上半身を乗せたまま振り返って、少年は私を睨んだ。

「でも、今のは」

　今のは、別に下の景色が見えたわけじゃない。筒は望遠鏡ではなく万華鏡で、万華鏡の仕掛けから水が飛び出しただけだ、と思う。こんな場所から、暗い森の中にある泉が見えるはずがない。そもそも、泉なんかあるはずがないのだ。

　今のは筒の仕掛けだ、と言おうとして、私は思いとどまる。

　筒は森の中へ落ちてしまって、ここにはない。少年が筒に仕掛けをしたという証拠は、私自身が隠滅してしまったのだ。

「見たでしょ？」

　猫の目で、少年が私を射すくめる。

「見た、が」

　あれが森の底の泉だったとは信じられない。

「見たのに、疑り深い人だなあ」

　柵からぴょんと飛び降りて、少年は不機嫌そうに腕を組んだ。

「ちゃんと、あるんだって」

　言われても、私は頷きようがない。

「あのね。地図になくても、あなたが知らなくても、あるものはあるんだよ、ちゃんと」

　語気荒く、少年が口を尖らせる。

「都会には、泉なんかないと思いこんでいるだけ。あるものはあるんだから、ときどき思い出してよ」

　思い出すも何も、私は最初から信じていないのだ。

　この乾いた都会に、泉なんかあるわけがない。不夜城の街灯りから守られた、森の闇の中に、魚や小鳥や虫の集う光る泉なんかあるわけが。

「なかったら……あなたがつらいからさ」

　少年はそう言って、不意にやさしい微笑みを浮かべた。

　言葉の意味が分からずに、私は戸惑う。

　何故、私がつらい？　都会の森の泉と、私に何の関係がある？

「ね。これあげるから、ときどき覗いて」

　少年はパチリと指を鳴らすと、片手を頭上に高く上げた。その手に、柵の下から黒い筒が浮かび上がり戻ってくる。

　筒に巻きつけてあった糸を引いただけだろう、と思う。だがそれでも、目に見える光景は不思議だ。

　少年は戻ってきた筒を、空高く放り上げた。

　街灯りに明るい夜空に舞い上がった筒が、微妙な放物線を描いて、私の上に落ちてくる。

　両手のひらで、私はそれを受け止めた。

◆

　再び少年のほうを見ると、忽然と姿が消えていた。

　私が投げられた筒に気を取られている間に逃げただけだ、と思う。それでも、不思議な印象には変わりない。

　いくら理屈で否定しても、感情はたしかに私の中にある。都会にも魚や鳥や虫の集う泉があるのと同じように、何もない私の中にもたしかにあった。

　私はもう一度、柵から身を乗り出す。

　こうして上から眺めるだけではなく、今から街へ降りて、あの森へ行ってみようか。そこに本当に泉があるかどうか、たしかめるために。

　一瞬考えて、私は甘い誘惑をすぐに打ち消した。

　明日も仕事がある。森へは行かず、このまま帰ろう。

　この乾いた都会の夜にも、静かで暗い森がある。森の底には、魚や鳥や虫の集う泉がある。

　何もなかった私の手には、泉を覗く筒が残されている。

　今は、それでいい。