砂
糖
細
工
の
パ
ニ
エ

　それは本当だと、真綾は思う。

　真綾は、フワフワしたお洋服が好き。花びらみたいなフリルが好き。淡雪みたいなレースが好き。きゅっと細く編み上げたウエストが好き。フワッとふくらむパニエが好き。

　甘い甘いケーキが好き。春にいっせいに咲き始めるお花が好き。可愛いぬいぐるみが好き。ぽかぽかしたお日様が好き。まだちょっぴり冷たい風が好き。高校生にもなってと笑われても、マシュマロウサギのキャラクターグッズが大好き。

　真綾はいつも、「好き」に囲まれて毎日楽しく暮らしてる。ごくごく素直に幸せだと思う。

　本当のお母さんは真綾が三歳のときに離婚して家を出たけれど、一昨年パパが再婚した、郁子ママが大好き。

　郁子ママは、ずっと女の子が欲しかったのと言って、私をとっても可愛がってくれる。フリルいっぱいのお洋服も買ってくれるし、ドロワーズだって縫ってくれる。

　郁子ママの連れ子の、圭にいも大好き。

　圭にいは大学生で、テニスがうまくて、真綾をすっごく可愛がってくれる。圭にいとは血がつながってないから、結婚もできるんだ。高校を卒業したら、真綾は圭にいのお嫁さんになりたい。

　家では、真綾はいつもいい子にしてる。パパも郁子ママも圭にいも大好きだから、ずっと一緒にいたいから。

　学校で仲がいいのは、詩織ちゃん。

　一年の最初の席順の隣同士で、仲良くなった。詩織ちゃんは真綾の少女趣味を笑ったりしないし、ときどき一緒にマシュマロウサギのキャラクター・ショップにもつきあってくれる。

　クラスの他の子たちには、ぶりっ子って言われたりすることもある。でも、可愛いお洋服やキャラクターが好きなのは、やめられないから仕方ない。

　周囲に合わせて、自分にウソをついて、可愛くもないお洋服を着る人生よりずっといい。それが真綾の人生。真綾の幸せ。

　真綾はいつでも幸せなんだ。砂糖菓子のお姫様だから。

　でも真綾、一昨日からゴハンが食べられなくなっちゃった。不幸じゃないけど、悲しいこと。

　洋食屋さんのパパの作るゴハンは美味しくて大好きだし、郁子ママがおやつに焼いてくれるパンケーキはフワフワで大好物。でも食べられない。

　風邪や病気じゃないから、おなかはちゃんとすく。真綾はパパのゴハンや郁子ママのパンケーキが食べたい。

　でも一口食べると、気持ち悪くなって、トイレでもどしてしまう。

　パパや郁子ママがすごく心配してくれる。ゴメンネ、パパもママも悪くないのに。食べられない真綾が悪いのに。

　何でゴハンが食べられなくなったのか、真綾は本当は自分でわかってる。

　それは、圭にいのせい。

　でも圭にいは、何にも知らない。真綾が勝手に覗き見てしまっただけだから。悪いのは真綾だけ。

◆

　買ったばかりのマシュマロウサギのヘアゴムを、圭にいにいちばんに見て欲しかったし。

　すごい偶然で、圭にいはちょうど門から出てくるところで、真綾はうれしくなった。

　でも圭にいは、女の人と一緒だったんだ。すらりと背の高い、ショートカットの美人。

　真綾びっくりして、思わず隠れちゃった。でも気になって、圭にいと女の人の後を着いていったんだ。

　別に後を着けようとか思ったわけじゃなくて、見間違いかもしれないから、たしかめようと思っただけなんだ。それに、次の角で二人がバイバイしたら、圭にいを追いかけて声をかけられるし。

　圭にい、今の人だあれ？　カノジョ？　ってセリフまで胸の中で練習してたのに。

　圭にいと女の人はずっと一緒で、公園の木の陰で、キスをした。

　真綾、びっくりしてしまって、大声で叫んでしまいそうになって、慌てて口を押さえて逃げ出した。公園を走って抜けて、街の中をぐるぐる走り回って、真綾は一生懸命考えた。

　だってしょうがない。圭にいはお年頃なんだから。

　真綾のことは、圭にいはただの妹と思っていて、彼女とは全然違う。真綾の夢が、圭にいのお嫁さんになることだなんて、これっぽちも知らなくて。ううん、真綾は何度か口に出して言ったけど、子供の言うことだって本気にされてなかったんだ。

　真綾はいつも子供だから。フワフワヒラヒラのお洋服が好きで、甘いケーキが好きで、マシュマロウサギが好きな、子供だから。そんな子供が、圭にいのデートなんか覗いてしまったから。

　ぜんぶぜんぶ真綾が悪い。

　真綾はこのまま何もなかったように家に帰って、今見たことはぜんぶきれいに忘れてしまって、いつも通りにしてなくちゃ。悪いことをしてしまった子供は、罪の分だけ大人にならなきゃならないから。

　日が暮れるまでかかって、真綾はようやく自分を納得させて、その日は家に帰った。

　真綾は、うまくやれたと思う。いつもみたいにニコニコ笑って厨房のパパと郁子ママにただいまが言えて、後から帰ってきた圭にいにも「お帰り」ってちゃんと言えた。

　でも、お夕飯が食べられなかったんだ。

　少し食べて、オエッとなって、自分でもびっくりした。クレープを買い食いしすぎたからと言い訳して、食事はそれきり、自分の部屋に逃げ込んだ。

　深夜に入ったお風呂でも、歯ブラシを口に入れた途端に気持ち悪くなって、ちょっともどした。胃の中はもうからっぽだったから、排水溝に苦い汁が出ただけだったけど。

　お風呂上がりに郁子ママがリンゴをすってくれて、二口だけ何とか食べて、ジュースを飲んだ。

　それから真綾は、すったリンゴしか食べてない。おなかはすごくすいているのに、食べられない。無理して食べてもすぐ戻してしまう。

　パパやママが心配しているので、早く食べられるようになりたいと思う。たぶん、真綾の気持ちの問題のはずだから、一生懸命食べたいって思えば治るはず。

　毎日大学で忙しい圭にいも、ちゃんと心配してくれていて、わざわざプリンを買ってきてくれた。真綾の大好きな、デパ地下の高級プリン。

　すごくうれしくて、きっと大丈夫と思って一口食べてみた。でもやっぱり気持ち悪くなって、もどしてしまった。

　圭にいは怒ったりしなかったけれど、すごく困ったような顔になって、真綾はとても悲しくなった。

　大好きなパパやママや圭にいを困らせる、真綾はすごく悪い子だと思う。ゴハンを食べられない真綾がいると、家族みんなが困ってしまう。

　それで、真綾は家を抜け出して、元気なふりして街を歩くことにしたんだ。

　ゴハンを食べていないから足がちょっとフラつくけれど、街は楽しくていい。海沿いのウッド・ボードの遊歩道が真綾は大好き。

　空っぽのおなかをレースのコルセットで編み上げて、二枚重ねのパニエでスカートをふくらませて歩く。

　真綾は、全身オフホワイトのコーディネートが好き。白いレースやフリルを羽根みたいにフワフワヒラヒラさせて歩いていると、真っ白な天使になったみたいな気持ちになる。

　真綾が本当の天使だったら、ゴハンを食べなくても、誰にも心配させずに済むのにな。好きなものだけを指折り数えて、自由に空を飛んでいけるのにな。

◆

　天使のことを考えていたら、真っ白な羽根が目の前を横切った。

　上から下に舞い降りた羽根は、誰かの背中から生えている。白いシャツの背中からにょっきりと生えた羽根。天使の羽根の持ち主は、きっと天使に決まっている。

　天使は、空から降ってきて、地面に着地したところみたい。でも、何で天使が、真綾の目の前に降りてくるの？

「わ、ゴメン！　大丈夫！？」

　天使は着地するなり飛び上がって、真綾に手をさしのべた。

　びっくりした真綾は、ついその場にしりもちをついてしまっていたみたいだ。ずっとフラフラしていたので、立っているのか座っているのか自分でもよくわからない。

「ちょっと空を飛ぶ練習をしてたんだ。驚かせてゴメンね。大丈夫、立てる？」

　天使が、心配そうに覗き込んでくる。色素の薄い、大きな目だった。ちょっと甲高い、子供みたいな声だった。

「うん」

　真綾はうなずいて、さしのべてくれた手につかまって立ち上がろうとした。でも、足が震えて力が入らない。ほんの二日ゴハンを食べられないくらいで、真綾はこんなにフラフラになっちゃうんだ。

「あ、あのね、うまく立てない。この頃ゴハン食べられなくて」

　早く立たなきゃと思って、慌てるほど、足がふるえてバランスがとれない。つないだ手も、ふるえてしまっている。

　天使の人はちょっとびっくり目になって、でもにこっと笑って、真綾の腕をタイミングよく引いてくれた。

　不思議に、体がフワッと持ち上がる。そのまま勢いで、真綾は歩道の脇のベンチに着地した。

「きみの背中のリボンは、羽根みたいに飛べるんだね」

　天使の人が、背中に結んだリボンを指さす。真綾は、うれしくなってにっこりした。

　真綾も、本当に天使みたいに空を飛べたらいいのに。ゴハンを食べない軽い体も、フワフワのパニエも大きなリボンも、ぜんぶちゃんと役に立つのに。

「あなたは天使なの？」

　聞くと、その人は首を横に振った。

「見習いだよ。空を飛ぶには、ちょっと体が重すぎた」

　ぴょんぴょんとその場でジャンプした。トスントスンとウッドボードを鳴らすそれなりの足音がする。

　よく見ると彼は、天使なんかじゃなくて、普通の人間なのかも知れない。すごく痩せてはいるけど、ちゃんと体重があって、白いスニーカーの黒ずみ具合とか、指先のささくれなんかが、生身っぽい。

　それはそうだ。天使なんか、いるわけがない。

　真綾だってわかってる。フワフワヒラヒラした服を着たって、ゴハンを食べなければおなかがすいてフラフラしてしまう重たい生身には、空なんか飛べるわけがない。

　思わずため息をつくと、天使見習いは首をかしげた。

「きみも、空を飛びたいの？」

　言われて、考える。

　真綾は、空を飛びたいのかな？　フワフワヒラヒラ、何も考えずに身軽になりたいとは思う。これまでだって、真綾はフワフワヒラヒラ、幸せな砂糖菓子みたいに生きてきたつもりなのに。

「空を飛ぶのはねえ、結構淋しいんだよ」

　見習いの人は意外なことを言った。

　空を飛ぶのが淋しいって、どういうことだろう。

「空を飛ぶには飛ぶにはね、まず胸を空っぽにしなきゃならない。おなかじゃなくて、胸を空っぽにするんだ。重いものを抱えていたら、空は飛べない」

　真綾にはよくわかる。

　今の真綾は、おなかは空っぽだけど、胸はずっしりと重い。圭にいと女の人の後を追いかけたときから、胸の中で何かが少しずつ重さを増していって、すごくすごく重くなった。

　胸にこんな重たいものを抱えているから、真綾のおなかにも何も入らない。フリルブラウスの上から胸に手を当てると、すごくはっきりとそれがわかる。

「そうしていざ空を飛んでみるとね、ほんの一メートル浮かんだだけでも随分高く感じるし、風も強いし、寒いんだ。遠くから青く見えても、空の中は実はどこまでも透明で、遠くて、深くて、終わりが見えなくて。自分が消えてしまいそうになって、怖くて、最後にどうしようもなく淋しくなる」

　腰に手を当てて、見習いの人は偉そうに胸を張った。

　飛べたこともないくせに、この人はまるで見てきたように言うんだ。

「長いあいだ地上に縛られていた者が空を飛ぶのってね、すごく自由で、すごく淋しいことなんだ」

　真綾だって、わからないわけじゃない。むしろ、すごくよくわかる。

　大きなリボンとフワフワのパニエで街を歩くとき、真綾はいつも、空を飛んでいるみたいな気持ちになっているから。

　大好きな服を着て、大好きなマシュマロウサギのことを考えながら、大好きなお店に向かって歩くとき、真綾は空の上で一人になる。小さい頃に別れた本当のお母さんのことや、あんまり仲良くない学校の友達のことは、遠く地上に置き忘れてもかまわない。真綾、ちゃんと天使の羽根を持ってるんだ。女の子の、砂糖菓子の魔法。

　でも一人で空を飛んでいると、ときどき淋しくもなる。そばには誰もいない。誰かそばにいたらと思うとき、真綾は地上に戻っている。

　だって真綾はもう、地上で長いあいだ過ごしてきたから。パパやママや圭にいのことを思うとき、真綾は地上につながれる。地上での「好き」が増えれば、空の上での「淋しさ」も同じだけ増えていく。

「あの、ねえ。きみのその羽根はさ、抱きしめても折れちゃわない？」

　ちょっと困ったように、見習いの人が両手をさしのべた。

　真綾の羽根って、リボンやフリルやパニエのこと。ふんわり大きく広がっているから、さしのべた手が届かない。

　フワフワヒラヒラの服は、いろんなチクチクトゲトゲから守ってくれるかわりに、さしのべられた手も遠ざける。「好き」という幸せは、いつだって「淋しさ」と裏返しだって、わかっていたはずなのに。

　真綾がうなずくと、さしのべられた腕にフワッと包まれた。

　あごの先から、ぽろりと涙が落ちる。いつのまにか、真綾は泣いてたんだ。

　ちょっと頼りない見習いの人の手が、よしよしって頭を撫でてくれる。

　フリルやパニエがつぶれてしまっても、今はいい。地上では天使も羽根をたたむように、真綾のフリルやパニエも、つぶれてもまたもとに戻るはず。

　真綾は見習いの人のシャツの中で、黙りこくったままポロポロと涙をこぼした。

「……空を飛ぶのに失敗して地面に落ちるとね、土が苦いんだけど、何だかほっとするんだ。それでほっとしているうちは、まだまだ飛べないんだと思うよ。見習い中は、飛べなくてもいいんだよ」

　真綾の背中を叩きながら、見習いの人がなだめるようにささやく。

　抱きついた背中には、たしかに天使の羽根が生えている。今はまだ飛べない、見習いのフワフワしたうぶ毛の翼。

　いつかこの人も、真綾も、空を飛ぶことがあるんだろうか。胸の重さを捨てて、一人で空を飛ぶ淋しさを、受け入れられる日が来るんだろうか。

◆

　小さな小さな、天使の羽根の形の砂糖菓子。ケーキ屋さんの失敗作だそうで、いびつであまり高く飛べそうにない羽根は、天使の見習いにぴったりだと思った。

「無理に食べなくてもいいよ」

　ちょっと困った顔をした真綾に、見習いの人は笑ってみせた。

　泣いせいか、少しだけ胸が軽くなった気がする。ほんの少しだけだけど。

　それで、ちょっと食べてみようかと思った。小さな砂糖菓子の一つくらい、今なら食べられる気がする。

　天使の羽根の砂糖菓子は、口に入れると、途端にふわっと溶けてなくなった。胸まで落ちることもない。

　溶けた後は、ふんわりした甘さと、じんわりした苦さが同時に残る。砂糖菓子って、後味は不思議に苦かったりするんだ。

「女の子は砂糖菓子でできてるからさ、補充。じゃあね」

　見習いの人はウィンクして、バイバイと手を振った。

　それからフワリと跳躍して、一気に二メートルばかり離れる。背中の羽根が、ふるえながら風を切る。フワリフワリ、何度かジャンプしてさらに遠ざかる。

　すごく短い距離だけど、見習いの人はたしかに空を飛んでいた。すぐに溶ける砂糖菓子みたいに頼りない、フワフワのうぶ毛の羽根で。そうやって、あの人は細切れに飛んで行くんだろう。

　お砂糖を補充したから、真綾もまた少しだけ飛べると思う。

　砂糖細工のフリルとパニエで、ひとまずはパパとママと圭にいのところまで。