花
を
摘
む
魔
法
使
い

　インフルエンザで、唯は一週間寝込んでいた。すったリンゴとお粥を食べて、薬を飲んで、また眠る。熱に浮かされたまま、いつの間にか三月は終わりかけていた。

　児童館へ行くのは、二週ぶりになる。合唱団のみんなが、すごく懐かしい。

　おんちゃんは、元気だろうか。

「おんちゃん」こと恩田誠司リーダーは、児童館の合唱団に指導員として来てくれている音大生の一人だ。

　貧乏でいつもお腹を空かせていて、今にも倒れそうにヒョロヒョロ痩せている。バンダナで押さえた髪も、ふわふわ立ち上がり気味でどこか頼りない。のんびりした阿波なまりの「あんなあ」が口癖で、叱られても怖くない。

　そのくせ、おんちゃんのピアノは、パワフルですごく楽しい。インフルエンザで寝込んでいるときにも、おんちゃんのピアノを聞けばきっと踊り出したくなるのにと、唯は思っていた。

　唯は、おんちゃんが好きだ。いつ好きになったかは覚えていない。最初は頼りないリーダーだとばかり思っていたのに、気づいたらおんちゃんリーダーに会える練習日が待ち遠しくなっていた。

　おんちゃんがピアノを弾いているときの目が好きだと、唯は思う。普段はのん気そうなタレ目が、キラキラ強く輝いて、目が合うとドキドキする。

　唯はたぶん、あの目に恋の魔法をかけられたのだ。

　でもおんちゃんは、唯の気持ちなんか知らない。まだ九歳の小学生なんか、大学生のリーダーから見たら、ただの子供だから。

　バレンタインに初めてあげた手作りチョコレートを、おんちゃんは喜んで受け取ってくれたけど、たぶん意味まではわかっていない。インフルエンザで休んだので、唯はホワイトデーのお返しももらいそこねたままだ。

　まだ時間には早いけれど、練習室からもうピアノの音が聞こえている。

　そっとドアを開けると、ピアノを弾いていたのは、やっちゃんリーダーだった。

「あ、唯ちゃん！　久しぶりじゃない。風邪はもう治ったの？」

　ピアノを弾きやめて、笑顔で迎えてくれる。「やっちゃん」こと中山靖子リーダーは、おんちゃんと同じ音大生で、去年から来てくれている。

「うん、もう大丈夫。ねえ、今日はおんちゃんリーダーは？」

　唯が聞くと、やっちゃんは困ったように首をかしげた。

「そっか、唯ちゃんは先週お休みしてたから、恩田先輩のことまだ知らないんだね。おんちゃんリーダーね、徳島に帰ったの。先週、お別れの挨拶をしたんだよ」

　いきなり言われて、唯はぱちぱちとまばたきする。

「お別れ？　なんで？」

「急に臨採が決まってね、おんちゃんリーダー、四月から向こうの小学校の音楽の先生になるんだって」

　たしかに、おんちゃんは学校の先生になる試験を受けていた。

　でもダメだったから、就職先が見つかるまでは、合唱団に来てくれると言っていた。もし就職しても、近所だったら遊びに来るよって、笑いながら言っていたのに。

「じゃあ、もう、来ないの？」

　じっとやっちゃんリーダーの顔を見る。やっちゃんが嘘だよって言ってくれたら、いいのに。

　でもやっちゃんは、困ったように首を横に振るだけだ。

「うん……ごめんねって。そうだ、預かっていたものがあったんだ。これ、唯ちゃんにって」

　やっちゃんが、カバンの中から小さな包みを取り出す。

　セロファンとリボンでラッピングされた、丸いカン・ボックス。引ったくって開けてみても、色とりどりのキャンディーが入っているだけで、カードも何もついてない。

「おんちゃんリーダーが、唯ちゃんにバレンタインありがとうって」

　素っ気ないメッセージが、やっちゃんリーダーの口から伝えられる。

　たぶんこのキャンディーは、みんなお揃いで、ホワイトデーに配られたものだろう。唯の他にもおんちゃんにチョコレートをあげていた子が何人かいたから、同じなのだ。

　体中から力が抜けた。

　ほんのちょっと、風邪で休んでいただけなのに。おんちゃんにはもう会えない。バレンタインのチョコレートの本当の意味さえ、まだ伝えていないのに。唯のことも合唱団のことも忘れて、知らない学校の先生になるなんて。徳島なんて遠いところに行ってしまう。

　ひどい、おんちゃんはひどい。

「唯ちゃん？　大丈夫？」

　やっちゃんが肩に手を置いて、じっと顔を覗き込んでくる。その顔がぼやけそうになって、唯はぐっと天井をにらんだ。

「ごめん、やっちゃん。唯、やっぱり今日もお休みする」

　それだけ言って、唯は練習室を飛び出した。

　合唱団のみんなが来る前でよかった。それ以上誰かに何か言われたら、泣き出してしまうところだった。

　唯は階段を下りて、児童館の玄関を飛び出し、外へ出た。通りへ出て、家とは反対の方へ向かう。誰かに顔を見られないよう、うつむいたまま走る。アスファルトの上に、もつれそうな自分の足が見える。

　反対側へは、唯は行ったことがない。ふと道が二つに分かれた。ひとつは広くて緩やかな坂。もうひとつは、細く入り組んだ急な坂。

　唯は、細く険しい坂を選んだ。どこでもいいから、知っている人のいないところへ行きたかった。

　上りきった坂の上は、いきなり行き止まりだった。大きな家の門とレンガ塀と生け垣があって、それきりだ。

　ただ、逆光の中に、黒い人影が立っている。

　痩せた体つき、ちょっとかしげた頭の上に、髪の先がふわふわ持ち上がっている。それは、唯が今いちばん会いたいと思っている人。

「おんちゃん！」

　坂道を走ってきた勢いのまま、唯は叫んで飛びついた。

「え？　わ、わっ！」

　けれど人影は、おんちゃんよりも高い声で叫び、抱きついた体はおんちゃんよりずっと背が低くて、小学生に飛びつかれたくらいでその場にひっくり返った。

「何だあ、びっくりした」

　しりもちをついたその人は、たしかにどこかおんちゃんに似てはいるけれど、別人だった。おんちゃんのやさしいタレ目とは正反対の、ネコみたいなツリ目が大きく見開かれている。

「ご、ごめんなさ……」

　唯は、人違いをしたのだ。おんちゃんに、会いたくて会いたくて仕方なかったから。

　でもこの人は、おんちゃんじゃない。

　じわりと視界がぼやける。

「わ、どこか打った？　だいじょぶ？」

　おんちゃんに似た人の手が、両頬に触れたとたん、ポロッと涙があふれた。

　最初の一粒がこぼれてしまうと、もう止められない。唯はポロポロ大粒の涙をこぼしながら、ワアワア声に出して泣き出した。

　しりもちをついていた人が、慌てて飛び起きて、唯の肘や膝を調べるけれど、すり傷なんかあるわけもない。

「まいったな。ここは車も通るから、とりあえずこっちおいで」

　おんちゃんに似た人が、唯を後ろから抱き上げる。ネコの子みたいに連れて行かれたのは、門の横の塀の上だった。レンガを積み上げた塀の内側に、早咲きのツツジが咲いている。

　そのふちに唯を座らせて、しりもちの人も隣に腰掛けた。

　背中にツツジの枝が当たり、しゃくり上げると、肩越しに覗き込んでくる花が甘く香る。地面までは数十センチ足が届かず、並んだ二人の足はブラブラ宙を蹴る。

　普通は、泣いている女の子を、こんなところにのぼせたりはしないと思う。

　そう思ったら何だかおかしくなって、唯は次第に声に出して泣くのをやめた。しゃっくりだけを残す唯の頬を、横からシルクのハンカチがぬぐってくれる。

　見上げると、白いツツジの花越しに、おんちゃんに似た人が覗き込んで来る。

「どうしたの？　迷子？　誰かに叱られた？」

　微笑みながら、やさしい声で聞いてくる。

　この人の声は、ちょっとおんちゃんに似ているかもしれない。声そのものじゃなくて、早口なのに何故かのんびり聞こえる不思議なしゃべり方が、同じだと思う。体に声の響くところから、やさしさがじわりとしみこんでくる。

「おんちゃん。おんちゃんに、会いたい」

　唯は、思ったことをそのまま口にする。おんちゃんなんて言われても、何の関係もないこの人には、誰のことだかわからないだろうに。

「そう。おんちゃんに、会いたいんだ」

　でもその人は、ただのんびりと相づちを打った。

　おんちゃんが誰かなんて聞かない。もしかしたら、この人はおんちゃんを知っているのかもしれないと、唯は思う。だっておんちゃんによく似ているから。

「ひどい。おんちゃん、唯に何にも言わないで。唯だって、会いたかったのに、唯のいない間に行っちゃうなんて」

　思っていたことを、続けて口に出す。

　やっちゃんリーダーには言えなかったことだ。言っても、やっちゃんが困るだけだから。

　でもおんちゃんに似たこの人なら、聞いてくれるような気がする。こんな高いところに二人で並んで座ったのは、きっと何でも話してというサイン。

「唯ちゃんは、おんちゃんに、会いたかったの？」

　その人はやっぱり、唯の言葉をただそのまま聞き返してくる。

　わかりきった問いに、唯は何度もうなずいた。うなずきながら、また涙がポロポロとこぼれた。

　唯は、おんちゃんに会いたかった。おんちゃんが好きで好きで大好きで、だからせめて一目会いたかったのに。

「何にも、何にも言えなかった。おんちゃん好きって、言いたかったのに。ひどい、おんちゃんひどい」

　バレンタインの手作りチョコレートさえ、おんちゃんはただの義理だと思ったのだ。それでそのまま行ってしまうなんて、おんちゃんは本当にひどい。

　ハンカチがまた、横から頬をぬぐってくれる。

　でも涙は次から次へとあふれてくる。ハンカチを持っていない方の手が、なだめるように唯の頭をなでた。手のひらから伝わる温かさが、唯の胸をもっとしめつける。

「好きって、言えなかったんだ」

　ため息のように、唯の言葉をやさしくそっと繰り返す。

　唯は、言えなかった。おんちゃんが好きなのに、唯はおんちゃんが好きって言いたかったのに、おんちゃんはもういない。もう会えない。

　小学生の唯は、徳島まで追いかけてもいけない。せめて一言、伝えたかったのに。

「あのねえ、唯ちゃん」

　唯が黙り込むのを待って、おんちゃんに似た人は口を開いた。

　お説教の前に「あんなあ」と言うのが、おんちゃんの癖だった。怖くもないし、のんびりしているのに、強く唯を引きつける。この人のしゃべり方は、やっぱりおんちゃんに似ている。

「唯ちゃんの、おんちゃんを好きだって気持ちは、おんちゃんにあげるようなものじゃないと思うよ」

　何を、言い出すんだろう。

　気持ちは思っているだけじゃ、伝わらない。ちゃんと言葉にして伝えられるようになりなさいと、学校でも教わっている。好きだという気持ちを、唯はおんちゃんにあげたかった。

　それなのに、この人は反対のことを言う。

「だって、おんちゃんを好きだって気持ちで、うれしくて幸せになるのは、おんちゃんじゃなくて唯ちゃんでしょ？」

　なでていた手で頭をぽんと押さえられて、唯は目をぱちぱちする。

「だからその気持ちは、唯ちゃんからおんちゃんにあげるんじゃなくて、その逆で、おんちゃんから唯ちゃんがもらったんだよ」

　頭を押さえられたまま、唯は隣の人を見上げる。そんなふうに考えたことは一度もなかった。

「だからいいんだよ。別に言わなくっても」

　緑の枝と白い花の間で、おんちゃんに似た人はにっこり笑った。

「でも」

　言い返そうとした唯の頬を、人差し指が軽くつつく。

「それに言わなくたって、顔に書いてある。おんちゃんが好きだって」

　赤くなって、唯はプルプルと首を振る。人を指さしちゃいけないって学校では教わるのに、この人はちょっと変だ。

「だからねえ、きっとおんちゃんはわかってたよ。唯ちゃんの好きだって笑顔を、きっと毎日受け取ってたよ」

　そう、なのだろうか。

　おんちゃん本人に聞いてみたいけれど、目の前にはおんちゃんに似た人しかいない。

「……でもおんちゃん、何にも言わないで行っちゃった。チョコレートも、たぶん義理だと思ってる」

　もしおんちゃんが唯の気持ちをわかっていたなら、もっと他のさよならがあったと思うのに。唯が、おんちゃんがひどいと思わずに済むような。

　でもおんちゃんに似た人は、微笑んだままで首をゆっくり横に振った。

「だって気持ちを口にしたら、枯れちゃうこともあるからね」

　よく意味が分からない。唯は首をかしげる。気持ちって、花みたいに枯れることもあるのかしら。

「そう、この花みたいに枯れるんだよ。しなびて、茶色になって、散っちゃう。終わっちゃうんだ」

　二人の間に咲いていた白いツツジの花を、その人は摘みとった。根本のがくを取りはらって、白い花の根本を、キスするみたいにちゅっと吸う。

「唯ちゃんも吸ってごらん。甘いから」。

　もうひとつ花を摘んで、唯に渡してくれる。

　唯は、花なんか吸ったことはない。言われるまま、こわごわ口に含む。ラッパの吹き口みたいな花の根本は、吸ってみると驚くほど甘い。

「……甘い」

　唯の素直な感想に、その人はツリ目をキラリと光らせた。

「甘いでしょ。でもこの花はもう、枯れちゃうよ」

　言われて、唯はドキッとする。

　この人、枯れるとわかっていて、花を摘んだのだ。顔はやさしく微笑んだままだけど、タレ目のおんちゃんと反対のツリ目は、残酷でどこか怖い。

「ひどい」

　花は早くも、しおれかけている。開いていた花びらがくたびれて、ふちのほうから茶色くなりはじめて。

　さっきまでは、おんちゃんに似ていると思っていたけど、やっぱりこの人は違う。

　おんちゃんならきっと、枯れるとわかっていて花を摘んだりしない。おんちゃんは、この人と違ってやさしい人だから。

　ああ、だから。

　だから、おんちゃんは、何も言わなかったのだろうか。

　おんちゃんが唯の気持ちをわかっていたとして、きっとおんちゃんには言える言葉がなかった。小学生の唯を連れて行くとか、いつか迎えに来るとか、そういうことが言えないのなら、せめて唯の気持ちを枯らさないように。

　おんちゃんは、やさしい人だから。

　蜜を吸うために花を摘んでしまった人とおんちゃんと、本当はどっちが残酷なのだろう。

　甘い蜜の後味が、舌の根にほんの少し苦い。

「枯れない花なんて、ないんだけどね」

　残酷な人は笑ったまま、摘んだ花をまた枝に差した。

　両手で包んで、ムニャムニャおまじないをつぶやく。

　不思議なことに、茶色くしおれかけて見えた花は、みるみるみずみずしさを取り戻し、また空に向けて花びらを開いた。

「いま何したの？　この花、元に戻ったの？　もう枯れない？」

　立て続けに聞いた唯の唇は、立てた人差し指に封じられた。

「魔法。ひみつだよ」

　目を細めて、絵本のネコみたいに笑う。

「さ、唯ちゃん。日も傾いてきたし、帰ろうか」

　先にひらりとレンガ塀を飛び降りて、唯に向かって手を差し伸べてくれる。

「ねえ、あなたはどこの誰なの、魔法使いさん？」

　聞いてみたが、笑ったままの魔法使いの答えはさっきと同じだった。

「ひみつ」

　そのまま、差し伸べた手で唯の体を抱き上げる。さっき花を摘んで、また咲かせた、残酷で気まぐれな魔法使いの手。

　その手の温かさに、この人はやっぱりどこかおんちゃんに似ていると、唯は思った。