ア
ト
リ
エ
に
だ
る
ま

「お邪魔します」

　新年にふさわしく、寒椿の振袖姿で現れたのは、婚約者の小百合嬢である。

　彼女とは、新年会でつい数時間前に別れてきたばかりだ。アトリエに来る前には必ず電話予告を入れるはずだが、そういえば慌てて抜け出して来たので、俺は携帯を家に置き忘れていた。

「あら、新年おめでとう、ハルミくん。何をしているの？」

　小百合嬢は康介に気付くと、にこやかに挨拶した。彼女は康介のことを、苗字でハルミと呼ぶ。ヤツは初対面の人間にはだいたい苗字しか名乗らないし、まるで名前のような響きなので、それで定着してしまうらしい。

「あ、小百合さん！　俺ね、これ着てみたいー」

　康介は妙に可愛い子ぶった笑顔で、哀れっぽく小百合嬢に救いを求めた。

「あらあら、ハルミくんにはずいぶん大きいわね。崇哉さんの？」

　小百合嬢はにっこり笑い、手にしていた風呂敷包みをテーブルに置いて康介の向かいに立つ。康介はパンツ一丁に肌襦袢をひっかけただけの、レディに見せるには少々はばかられる格好をしていたが、小百合嬢はまるで気にしていない。どうも、康介を相当子供だと勘違いしているようだ。

「ハルミくんは着物体型じゃないわねえ。和服はお腹まわりにお肉がついている方がいいのだけど。かわりにタオル入れましょうか」

　小百合嬢は康介の薄い体に、大きすぎる和服を巧みに着付けていく。康介のトリガラ体型では、相当ぐるぐるに布を巻かないと形にならないだろうが、いざ形を作ってしまえばそれなりに見えてくる。体のラインをそのまま見せる洋服と違い、和服は布でラインを作るものらしい。

　俺は康介の痩身に巻き付けられていく上絹の描く流れを、クロッキーに写し続ける。

　手際よく着付けて、小百合嬢は康介の腹をぽんと叩いた。

「はい、できた」

　小百合嬢と康介の年頃はそう変わらないどころか、康介の方が年上のような気がするのだが、まるで母親と子供の図である。康介はその場でバンザイをし、ぴょんぴょん飛び跳ねた。

「わーい、俺一度着てみたかったんだ、こういうの！」

　紋付袴は飛び回るのにはおよそ向かない服なのだが。気崩れて上がってきた帯を、小百合嬢が手を添えさせて下ろしてやる。

「ところでハルミくん、おなか空いてない？　おせちはいかが？」

「おせち？　食べる食べる！」

　康介がますます高く飛び跳ねる。ヤツなりに、新年を堪能しているのだろう。

　台所で素早く手を洗った小百合嬢が、持ってきた風呂敷包みを台所のテーブルで開く。五段の黒塗りのお重が現れる。目を丸くする康介には頓着せずに、小百合嬢は五つのお重を平らに並べた。

「すげー。小百合さんが作ったの？」

　覗き込んで、康介が聞く。この多忙な社長令嬢は、正月のおせちまで手作りするのだろうか。

「残念。崇哉さんのお母様の差し入れよ。このお重がもつ間、アトリエで羽を伸ばしていらっしゃいって」

　後半を、小百合嬢は俺に向かって告げた。

　大晦日から今日まで、俺にしては珍しく、社交会行事に参加したことを、お袋なりに評価し、ねぎらってくれているのだ。思いがけない言葉に、俺はどぎまぎして言葉に詰まる。

「ハルミくん、手を洗っていらっしゃい。崇哉さんも」

　にこやかに小百合嬢が手招く。

　言われてみれば、俺も小腹が空いてきた気がする。新年会ではそれなりに飲み食いしたが、社交場の立食では、きちんと「食事」をした気にはなれないものだ。

　手を洗った俺と康介が一枚の手拭きタオルを奪い合いながら台所のテーブルにつくと、小百合嬢が二人に蒔絵の酒器を手渡す。

「少しだけ。お屠蘇」

　インスタント屠蘇粉を持ち込んだ小瓶に仕込んだらしい。

　三人で軽く杯を掲げてから、口を付ける。薬味の強い屠蘇酒は好きではないが、二人の晴れ着姿と相まって、いかにも正月らしい。普段は季節感のないアトリエが、にわかに季節感を帯びる。

　正月は、季節と言うより、区切りと呼ぶべきなのかもしれないが。

「私ね、四月から大学院に復学しようかと思うんです」

　思い切りよく杯を干してから、小百合嬢が口を開く。

「ソレ、小百合さんの今年の願かけ？」

　祝い箸を割りながら、康介が相づちを打つ。気がついて、小百合嬢が康介の袖にたすき掛けをする。康介は袖をたくしあげられながら、錦糸玉子にまず箸を伸ばした。

「そうね。願というより、抱負にしようかしらね」

　小百合嬢はたもとを器用に押さえて、黒豆を箸で取り皿によそう。

「できるの？」

　なますを取り分けながら、俺は聞く。彼女が大学院を休学しているのは、病で倒れた父親に代わり、社長業務を務めているからだ。社長はまだ入院中で、退院どころかリハビリの気配もないはずだ。実務は専務が執り行っているとはいえ、決して暇ではない。

　やや意地の悪い質問に、小百合嬢はふわりと微笑んだ。

「さあ、やってみなければ何とも。でも、父が倒れたときにはとても無理だと思っていたのに、この頃はできるかもしれないと思えるようになって」

　淡々と他人のことでも話すように、黒豆を口に運ぶ。

「それに、今だから書きたい言葉があるんです。忙しさに紛れて、流されてしまいそうな今だからこそ、言葉にして留めておきたいと思うんです」

　小百合嬢の語気は決して強くはないが、他人の言に左右されない自信に満ちている。彼女の抱く願いの成否は、他の誰でもない、彼女自身が見極めるのだ。

　見た目にはふんわりしたお嬢様だが、時折覗かせる彼女の内面は凛々しく潔い。それが彼女の本性なのか、単にそう振舞わざるをえない境遇なだけなのか。いずれにせよ、俺のように学業も家業もやっていない男が、口を挟むことはないのだ。

「じゃあさ」

　俺が口をつぐむと、康介が箸を置いて身を乗り出す。

「このだるま、小百合さんが願かけしなよ。俺のお土産なんだけど、崇哉も俺も、どうせちゃんとした抱負なんてないんだし」

　いきなり突き出されただるまに、小百合嬢は瞬時ためらったが、両手で受け取った。

「ええ？　そう、それじゃあ、いただこうかしら」

　康介の言動は時に突発的だが、小百合嬢はすんなり受け入れたらしい。

　このアトリエでは、いつもこんなふうに時が流れる。出来事は順序通りではなく、時の流れにも緩急がある。

　三人が一通りおせちをつまんで満足した頃合に、小百合嬢はハンドバッグからペンを取り出した。

　蒔絵の軸は一見万年筆に見えるが、穂先は筆である。そういえば彼女はいつも、このペンと和綴じの帳面を持ち歩いている。思いついたときに句を書き付ける、発句帳というやつだろう。

「今年、復学できますように」

　手のひら大のだるまを手に取り、願を唱えながら、愛用のペンで片目を書き入れる。

　それからくるりとだるまを裏返して、背中に何やら書き付けた。

「幾星霜　一区切りとして　だるま据え」

　康介が覗きこんで物問いたげに小百合嬢を見たが、彼女は微笑んだきり何も語ろうとはしない。

　ただ流れ行く時を区切るささやかな抱負くらい、俺も考えてみるか。

　まるで変わらないようで、それでもどこか変わりつつあるようで、アトリエにも、新年はたしかに訪れていたらしい。