見
え
な
い
魚

　水槽を持ち上げると、前が見えなくなった。今日はお天気がよくて青空が広がっているけれど、ぼくの目の前は、みどり色のにごった水でふさがっている。

　この水のどこかに「見えない魚」がいる。

　見えない魚は、世界に数匹しかいない。国の研究所から盗まれて、どろぼうが逃げる途中で中学校のうら庭にかくした。

　ぼくはその話を、中学生のお兄さんたちから聞いた。

　お兄さんたちが中学校のうら庭にボールを探しに入ったら、水槽をかくしているどろぼうと行き会った。あたりにはパトカーがいっぱいで、どろぼうはあわてたそうだ。

　お兄さんたちのむなぐらをつかまえて、この中に見えない魚がいる、明日取りに来るから誰にも言うんじゃねえぞとおどして、逃げていった。

　お兄さんたちはどろぼうに顔を見られているから、見えない魚を持ち帰れない。おまわりさんに知らせるのもこわいと言う。

　だからぼくに、この水槽をあずけた。

　たまたま中学校のそばを通りがかっただけのぼくなら、どろぼうにもわかるわけがないし、まさか小学三年生がこんなたいへんなものを持っているとは、誰も思わないだろう。

　だからぼくに、お兄さんたちは「見えない魚」をあずけた。

　ぼくが水槽を持ち上げると、お兄さんたちは「たのんだぞ」と叫びながら、走っていなくなってしまった。

　よっぽど、どろぼうがこわいんだろう。でも笑っていたから、見えない魚をぼくにまかせて安心したんだとも思う。

　水槽には水がいっぱいに入っていて、ものすごく重い。

　一歩ふみ出すと、ぴちゃんと水が跳ねて外に飛び出す。

　あふれた水の中に「見えない魚」が入っているんじゃないかと、ぼくはひやひやしてアスファルトにできたしみを見る。

　でもアスファルトのしみは、ただのしみだ。見えない魚はだぶんまだ水槽の中にいる。

　ぼくは「見えない魚」を、うちで飼おうと思う。

　本当はおまわりさんに知らせるほうがいいのかもしれないけれど、ぼくにはうまくせつめいできるかわからない。見えない魚は、だって目に見えないのだから。見えない魚の研究のことだって、コッカキミツだから交番のおまわりさんは知らないかもしれないと、お兄さんたちが言っていた。

　だからぼくは、自分で見えない魚の世話をして、いつか研究所にちょくせつ返しに行こうと思う。研究所がどこにあるかも、まだ知らないのだけど。

　それにしても、水槽は重かった。

　こんなに重いものを、ぼくは生まれてからまだ持ったことがないような気がする。ふざけて持ち上げようとしたことのある、お母さんより重いかもしれない。

　ぼくはまだ、中学校のいけがきの横を歩いている。

　本当は走りたいくらいなのだけれど、重くてまっすぐ前に進めない。ぼくはふらふら、右や左に行ったり来たりしながらうちをめざしている。

　明日来ると言っていたどろぼうが、早めに来てしまったら、ぼくはどうなるだろう。見えない魚の入った水槽を持っているぼくを見たら、どろぼうはいきなりおそってくるのだろうか。

　ぼくは目だけをうごかして左右を見てみたが、あやしい人は見当たらない。前は、あいにく水槽で見えない。

　もうすこし、もうすこし歩けば中学校をはなれる。げんばさえはなれてしまえば、きっとぼくは見えない魚なんか運んでいない、ただの小学生に見えるだろう。中学校のそばの橋をわたってしまえば、きっともう追いかけては来ない。

　ぼくはそう信じて、中学校のいけがきの横を歩いた。

　だから、小さな川のせせらぎが聞こえたときには本当にほっとしたんだ。

　なのに。

「よう、ボウズ。重そうだな」

　橋の石だたみに足をかけたとたん、いきなり前から声がふってきた。

　水槽の向こうに、いつのまにか人が立っている。ぼくは飛び上がりかけた足を落ちつけて、しんちょうに橋をふみしめる。

　水槽の水にゆらゆらうつる黒い人かげ。ぼくの行く手をふさいで、両手を広げている。

　どろぼう、だろうか。

　明日来ると言っていたけれど、もう追っ手をまいて、見えない魚を取りに来たのだろうか。

「どいてください」

　ぼくはせいいっぱいに怒った声で言って、右によけた。すると人かげも、右について来る。

「待てよ、手伝うって。それじゃ前も見えないだろ」

　にゅっと、手がのびてきた。

　水槽のへりをつかまえる。その手をふりはらおうと、ぼくは水槽を左によける。水にうつった黒い手のかげも、いっしょについて来る。

　ぼくは、水槽を力いっぱい反対にふった。

　とたんに、水槽の角がぼくの指をすっぽ抜ける。

「あ」

　じゃぷんと、中の水がうなった。波立ったツノの先がちぎれて、水が空に飛び出す。あふれた水は橋の石だたみを流れてまるく広がる。

「さかなが」

　ぼくは、しみの上にかがみこんだ。いっしゅん、あふれた水の中に、見えない魚のすきとおったうろこが見えた気がしたのだ。

　水はすぐに石のあいだの間にすいこまれて、ただの黒いしみになった。手でさぐってみても、石だたみのざらついたかんしょくしかない。こぼれた水には、見えない魚は入っていなかったんだと思う。

　水槽をふり返ると、知らない人がしりもちをついてかかえていた。

　水槽は、ぶじだ。

　水はへっていたが、すこしだけだ。みどりの水は、たぷんたぷんしながら水槽のへりを洗っている。見えない魚はきっとまだ中にいるだろう。

　ぼくは飛んでいって、水槽の中をのぞきこんだ。

　とは言っても、見えない魚は見えないのだから、いるかどうかわからないのだけれど。

「……魚がいるの？」

　しげしげとのぞきこんでいたら、水槽ごしに話しかけられた。顔を上げると、さっきの知らない人が笑いながら首をかしげている。

　へんだ。

　どろぼうだったら、見えない魚のことを知っているはずなのに、この人は知らないと言う。

　知らないふりをして、ぼくをゆだんさせようとしているのだろうか。

　ぼくは水槽の角に手を当てたまま、じっと顔を見つめる。

　男の人だ。中学生くらいにも見えるけど、子供っぽい顔の大人だと思う。座っているから、ひざ立ちのぼくと顔が同じくらいの高さにあって、大きな茶色の目にぼくがうつっているのが見える。

「よっ、と」

　その人は、水槽の下じきになっていた自分の足を抜いた。橋の上に、水槽をそっとおろす。取られてしまわないように、ぼくはずっと水槽のへりをつかまえている。

　ぼくたちは、水槽をはさんでにらみ合った。足もとの橋の下を小川がさらさら流れる音がする。

「さかなが、いるの？」

　もう一度、その人は聞いた。

　どろぼうにしては、ずいぶん声にきんちょう感がない。どろぼうなら、もっと低くてこわくてしゃがれた声にちがいないのに、この人の声は音楽室のもっきんみたいに高くてのんきでほがらかだ。

　それに、ぼくを見てにこにこ笑っている。わるいことを考えているようには見えない。

　もしかしたら、どろぼうじゃないのかもしれない。

「魚が、いるよ」

　用心深く、ぼくは答えた。

「へえ、どこかな」

　水槽の中に顔をつっこみそうに、その人はのぞきこむ。

　黒いやきゅうぼうをかぶっていて、うっかりつばの先を水につっこみ、慌てて顔を上げる。目が合うと、つばから水をしたたらせてにやりと笑った。

　あまりに、まぬけすぎる。この人はたぶん、どろぼうなんかじゃない。

「見えないよ。いるのは、見えない魚なんだから」

　だからつい、言ってしまった。

　もしこの人がどろぼうだったら、水槽を持って逃げるのだろう。口ふうじに、ぼくをころすかもしれない。ぼくはぎゅっと、水槽のへりをつかむ。

　でも、その人は顔を上げて、ふしぎそうに目をぱちぱちさせた。

「見えない、魚？」

　ぜんぜんわかってない。やっぱりこの人はどろぼうじゃなかったんだ。ぼくはほっとしながら、ウンとうなずく。

「見えない魚がいるの？　この中に？」

　かた目をつむって、水の中をのぞきこむ。

「……何も、見えないけど」

　かた目をつむったところで、見えない魚が見えるわけがない。すこし笑った口もとは、おどろいたというより、信じていない顔だ。

「見えないよ。だって見えない魚なんだから」

　むっとして、ぼくは言い返す。

「この中に魚がいるって、だれに聞いたの？」

　かた目をつぶったまま顔をあげてぼくを見る。まるで、ぼくの頭の中をのぞこうかとしているように。

「……中学生のお兄さん」

　ぼくが答えると、もうかたほうの目をあけて、一回まばたきした。それから、ななめ上のほうを見て、またぼくにもどってきて、首をかしげた。

「あのさ、エイプリール・フールって知ってる？」

　こんどはぼくがまばたきする。どこかで聞いたことがあるような気がするけど、意味は知らない。見えない魚と、何かかんけいがあるのだろうか。

　ぼくが首を横に振ると、その人は目を細めてにかっと笑った。

「そっかそっか、見えないお魚かあ」

　言いながら、ぼうしをとって、その人はぎりぎりまで顔を水面に近づける。にごったみどり色の水は、ちょっとふしぎなにおいがする。その人は顔を上げて、口をへの字に曲げておどけて見せた。

「ちゃんといるよ。いるってば」

　その人はさっきからずっとにこにこ笑っているので、まるでばかにされているみたいで、ぼくはムキになる。

「へえ。じゃあ、どんな色？」

　いきなり聞いてきた。ぼくはちょっと考える。

「とうめい色」

　見えないんだから、とうめいに決まっている。

「どんな形？」

　すぐに次のしつもんが来る。

「さかながた」

　ぼくは指で、空中に魚の形をたどる。大きな茶色の目が、ぼくの指の動きを追いかけてくる。

「ふうん、大きいの？」

　つぎつぎとしつもんが来るので、ぼくは休めない。今度は指で、見えない魚の大きさにはばをとる。

「ううん。これくらい」

　ちょうど大人の小指くらい。本当は、見たことがないから、わからないのだけど。

「泳ぐのははやい？　おそい？」

　水槽の上に体をのり出して、聞いてくる。ぼくも負けないように、あごをつき出す。

「すっごくはやい！　ぴゅって動くときのヤゴぐらい」

　ぼくはぴゅっと、その人の鼻の前を指で横切る。でもその人は、まったくペースをくずさない。

「尾びれは長いの？」

「お、おびれ？　は、長くない、と思うけど」

　尾びれって魚のしっぽのことだ。すこし考えた分、ぼくは口ごもった。本当は見たことがないから、さいごのほうがもごもご小さくなる。

　そこで、その人はにやーっと絵本の化けねこみたいに大きな口で笑った。

「うそだ。オレには見えるよ。ひらひらっと長い尾びれが」

　ひらひらっと、その人は手のひらを動かした。その人の手はうすべったくて、まるで骨がないみたいにやわらかくなびいて見える。

　ひらひらした手は、水槽の中の水をさし示して、止まった。

「ようく見てごらん。ねったい魚みたいにひらひら長くて、透きとおっているけどふちだけ銀色で、ときどき反射して光る尾びれが見えるだろ」

　ひらひらした手の影が、みどりの水にちらちらうつる。しずかだった水槽の中は、言われればどこかにいきものの気配を隠しているように見える。

「え、どこどこ？　見えないよ」

　水面に鼻がつきそうになるくらい顔を近づけても、にごった水の中はなかなか見えない。

「見えない魚を運んで、どうするの」

　頭の上から、その人が聞く。

「うちで飼うんだ」

　ぼくの答えは、水槽の中にマイクみたいにひびいた。水面に小さくわができる。

「見えないのに？」

　わは広がって、うすくなってすぐに消えた。

「ウン。見えないから、欲しい」

　見えない魚が本当にこの中にいるのなら、それはすごいことじゃないか。昔飼っていた赤い金魚より、学校の池のにしきごいよりすごい。

　そんなすごい魚を飼ってみたいと思うのは、当たり前じゃないか。

「でも見えないんだよ。飼っていてもつまらない」

　言われて、ぼくは水槽から顔を上げる。たしかに、ぼくにはまだ見えない。

「お兄ちゃんには、見えるんでしょ？」

　聞くと、その人はまじめな顔になって、ぼくのほっぺに手を当てた。

「見える。見えるよ。ようく見て」

　ほっぺをはさんだ手にうながされて、もういちど水槽の中を見る。水はあいかわらずにごっていて、動くものは見当たらない。

「今は水槽のいちばん底。少し休んでる。動かないから、光らない」

　いっしょうけんめいに目をこらしてみても、ぼくにはどこが水槽の底なのかもわからない。

　やっぱり見えないよ、と顔を上げようとしたとき、その人がシッと声をひそめた。

「ほら、動き出した。ひらひらした尾びれを動かして、上の方にのぼってくる。見えないかな、ハンカチみたいな尾びれがホラ、今も光った」

　言われてみると、どんよりした水の底に、もやもやと何かの気配が見える気がする。

　いしきを集中して、じっと目をこらすと、みどり色の水の底からせり上がってくるかげが。

「あ」

　見えたと思った瞬間、水面が大きくはねて、顔にかかった。

　向かい合った二人の間をすりぬけて、水しぶきが高く上がる。ひざ立ちのぼくたちの頭よりも高く、空の水色に届きそうに。

　きらきら輝くしぶきは、橋の手すりをかるがるこえて、川へと飛びこんだ。

　せせらぎにまぎれて、ぽちゃんと小さな音。

　追いかけたぼくは、２メートル下の川面が小さなしぶきを上げて見えない魚を受け止めるのを、たしかに見た。

　あとはもう、もとのせせらぎ。見えない魚のかげはどこにもない。

「あー」

　ため息が、ふたつかさなる。

「逃げられちゃったな」

　パーカーのそでで、ぬれた顔をふきながら、その人が笑う。ぼくはウン、とうなずいた。

「見えただろ？」

　ぼくはまた、ウンとうなずく。

「見えない魚、じゃなくなって、川へ帰ったんだな」

　すなおに今度はうなずけずに、ぼくはじっとその人の顔を見た。

　見えない魚は、見えたり見えなくなったりするものなのだろうか。でもたしかに、水槽を運んでいるときには見えなくて、ぼくが見たのは外へ飛び出すいっしゅんだけだった。

　その人ははんたい側のパーカーのそでで、ぼくの顔もふいてくれた。

「あいつらさ、あそこでこっそりフナ飼ってたんだよね」

　とつぜん、その人は言った。

「かいぼう実習で、切りそこねたやつ。先生にないしょで、こっそり飼ってた。けっきょく、死んじゃったけど」

　その人とぼくの間には、あいかわらず水槽がある。だいぶへってしまった水はどんよりにごって、底まで見えない。中にはもう、いきものの気配はない。

「死んだフナは、どうしたの？」

　ぼくは聞いてみる。

「見える半分は、土の中。見えない半分は、水の中」

　後ろの中学校と、橋の下の川とを指さす。わかるような、わからないような答えだった。

　たぶんな、ひとり言みたいにつけ足して、その人は水槽を持ち上げた。

　水槽を橋の手すりにのせて、ななめにかたむける。神さまにおそなえ物をするような、うやうやしい手つきだった。

　へりからみどり色の水がすべり出て、透明な小川にすいこまれる。水槽の水は、全部流れて川にかえった。

　さかさにして、とんとんと底を叩く。みどり色だった水槽は、ガラスのとうめい色になった。水の入っていたあとに、うっすらみどりの線がついている。

「この水槽さ、持って帰れば。ボウズ？」

　からになった水槽をぼくのほうにさし出して、その人はていあんした。

「今はまだ水が冷たいけど、もう少しあったかくなったら、オレもいっしょに魚を探してやるよ。その魚をこの水槽に飼えばいい」

　それは、めいあんかもしれない。でもひとつだけ、かくにんしておきたいことがある。

「探すのは、見える魚？　それとも見えない魚？」

　ぼくが聞くと、その人はかた目をつむって、にやっと笑った。

「どちらでも、お好きなほうで！」

　まるで投げるように、水槽をぼくに押しつける。

　ぼくはよろけそうになりながら、何とか水槽を受けとめた。さっきよりはずいぶん軽くなったけれども、やっぱりずいぶん重いんだ。

　でも、今度は中の水がなくなって、ガラスごしに前が見える。

「じゃあな、ボウズ。あったかくなったらな」

　とうめいになった水槽の向こうで、ひらひらと手がふられる。うすい手のひらが日差しを横切って、ガラスごしに光りながら遠ざかる。まるで、見えない魚の尾びれだ。

「ねえ、ぼくはタクヤだよ、名前くらいおぼえてて！　いっしょに魚を探すの、約束だよ！」

　遠ざかるひらひらに、ぼくはどなった。そういえば、あの人の名前も聞いていない。

　でもひらひらした手はふり返らず、どんどん遠くなり、やがて見えなくなってしまった。見えない魚と同じで、きっとまたいつか見えるようになるに違いないのだけれど。

　からになった水槽を抱えなおして、ぼくはまた歩き出した。