＠
ア
ト
リ
エ

　胸に載っている小さな頭を、手のひらで軽くはたく。そのまま手を載せると、手のひらにじわりと体温が伝わる。

「俺は、何も変わらねえよ。変わるわけないだろ」

　思ったままを口にしてみたものの、おそらく康介の感じている不安は別のものだ。目には見えない、もっと漠然とした孤独の中に、康介はいる。

　けれど俺には、それくらいしか言えることがない。未来のことなんて、たとえ俺自身のことだって、わかるわけがない。

　それでも俺は、敢えて口にするのだ。言葉にして、康介に言ってやる。

「それにここは、アトリエは、ずっとこのままだ」

　俺の言葉が聞こえているのか、康介はじっと動かない。俺の腹筋あたりに載っているあばらはゆっくり定期的に伸縮し、眠っているんじゃないかと思えるほどだ。

「アトリエはもう、変わりようがない。俺にとって一種の聖域だからな。俺はいつでも気軽に出て行くが、またいつでも帰って来る。俺の一部、なんだろうな……って。おい、聞いてるか？」

　あまりに反応がないので、俺は康介の耳をつまんで引っ張る。腹に当たる吐息とは裏腹に冷たい耳たぶが、俺の指から移った絵の具で赤く染まる。

　さらに強く引っ張ると、小さな頭がたまらず跳ね起きる。

「イテテ、ちゃんと聞いてるって！　崇哉が柄にもなく真面目なこと言うから、笑っちゃって顔が見らんないんだって！」

　失礼な言い訳を叫んで、康介は人の腹の上で遠慮会釈なく笑い転げた。細かく収縮するあばらが、ゴリゴリ俺の腹をこする。はっきり言って、痛い。

　ったく、ちょっとひとが真面目になってやれば。

　俺は耳を引っ張っていた指をずらして、康介の頬を思い切り引き伸ばす。いひゃい、いひゃいと騒ぎながら、康介はなおも笑い続ける。

　痛みのせいか、笑いすぎのためか、康介の目尻にはうっすら涙が滲んでいる。

　俺は頬をつまんだまま康介の顔を引き寄せると、目玉をベロリと舐めてやった。

「いひゃっ！　なに考えてんだよ、崇哉」

　今度こそ本気で、康介が俺の手を振り払って飛び退く。

「別に。舐めたいと思ったから舐めただけだ。何も考えちゃいない」

　腹の上からやっと康介がどいたので、俺は上半身を起こしてニヤリと笑った。さらに逃げ腰の康介を捕まえて、床に転がして組み敷く。

　基本的には、タッパもウェイトも俺の圧勝なのだ、ざまあみろ。

　暴れる手足を押さえ込んで、目玉舐めを続行する。康介の目玉は青みを帯びた半透明で、舌先に触れる丸みはほんのり塩味だ。鳶色の瞳はクルクルと逃げ回り、瞬くまつげが舌先を打つ。

「げ、キモチワル。崇哉のヘンタイ！」

　ジタバタした挙げ句、康介は目をぎゅっと閉じることで俺の目玉舐めを防御した。仕方がないので、俺は舌先をまぶたのくぼみの曲線に移行し、ついでに指についた赤絵の具で頬に猫ひげを描いてやった。

「ふう、飽きた。さて、ヨダレと絵の具を落とすか」

　あっさり、一分足らずで解放してやる。

　腕を引っ張ってとりあえず上半身を起こしてやると、康介はがっくり肩を落とした。今の目玉舐めで、大分体力を消耗したらしい。

「……崇哉ってつくづくわっかんねー」

　体育座りの膝に頭を落として、深いため息をつく。

「そう簡単にわかってたまるか。俺の欲望の突き上げどころは、正直、俺にもわからん」

　きっぱり俺は断言して、ぐしゃぐしゃになった康介の髪をさらにかき回してやる。

「だからお前もさ、したいようにすりゃいいんだよ。いつだって、ちょっとくらい何か変わったって、来たけりゃまたここに来りゃいい」

　うつむいていた康介が、大きな目で俺を見上げる。

　康介の眼は、大きくて、澄んでいて、真っ直ぐに俺を映して、またちょっと舐めたくなる。

　頬には、俺が指で引いた赤い三本線の猫ひげが伸びている。よく見れば耳も赤く、茶色がかった髪の毛の先にも赤い絵の具の固まりがついている。

　白いセーターも、赤い絵の具ですっかり斑模様だ。

　ナリだけ見ると、まるで康介はひどい目に遭わされたように見える。

「まあ、まずは選択権なしに風呂場直行な。ヨダレはともかく、絵の具はしつこいぞ。覚悟しろよ。セーターもそれはもうダメだ。違うのをやるから、着てけ」

　親指で風呂場を指さして先に歩きかけ、油絵の具用のハンド・クリーナーはイーゼルの横に置いてあったことに気づいて戻る。

　素直に後を着いてきた康介と、また、ぶつかった。

　今度は二人して転がらずに抱き止めて、俺の胸の辺りにある額に手を当てて仰向かせる。

「俺の婚約者、な。今度、お前にも紹介するよ。お前の好きそうな、ちょっと不思議な雰囲気のコだよ」

　もしかしたら、最初からこう言えばよかったのかもしれない。

　康介は意外そうに瞬きしてから、目を細めてにやっと笑った。

「あのひとなら、オレもう知ってるよ」

　今度は俺が、瞬きする番だった。

◆

　中規模会社の社長本人ということで、そうそう頻繁に来られるわけではない。それでも時間が空くと、ふらりとアトリエに寄る。

　出現率の気まぐれ度合いは康介といい勝負だが、彼女の場合は、一応事前に俺の携帯に来訪予告を寄越す。とは言っても、予告時に俺がアトリエにいようといまいと、彼女の来訪意志には影響がないらしいのだが。

　むしろ、彼女の目当ては俺よりアトリエという空間なのだ。彼女が来ても、野良猫扱いの康介以上に手が掛からない。俺が絵を描いていれば、二言三言の挨拶だけで、話もしない。彼女は一人、趣味の歌を詠んで帰る。この頃また、歌壇に投歌を始めたらしい。

　アトリエを出入りする気ままな人間が一人増えた、というところか。

　基本的にアトリエに入り浸りの俺と、出現率の気まぐれな小百合嬢と康介とは、ごくごくたまに三人で鉢合わせる。

　もともと知り合いだったというだけあって、小百合嬢と康介とは仲がいい。

　何故知り合ったかについては二人の「ナイショ」らしく、ときどきアトリエの隅で二人、ヒソヒソクスクス囁き話をしている。仲がよすぎて、こっちが疎外感を覚えるくらいだ。

　気になって耳をそばだてると、壁に立てかけて乾かしている俺の絵の寸評をやらかしていたりする。

「お前ら、本人の前で遠慮のないダメ出しをするなっつの！」

　怒鳴ると、令嬢の微笑とチェシャ猫笑いにはぐらかされる。一見すると違う種類の笑い方だが、どうも効果は同じらしい。

　それに、常に感覚的な感想しか言わない康介に比べて、語彙の豊富な小百合嬢は意外に毒舌なことがわかってきた。時折グサリと来るような酷評をちょうだいする。的確なポイントをついているので、言い返せないのが悔しいところだ。

　俺の絵は、相変わらずである。売れないし、あんまり褒められもしない。それでも日が経てば、枚数が増えていく。

　康介だけは、やっぱりちょっと俺の絵は変わったと言う。どこがどう変わったのか、ヤツの表現力では他の誰にも伝わらないのだが。

　俺は変わらず、描き続けている。