ア
ト
リ
エ
と
令
嬢

　取引先との会合があるのだそうだ。数時間刻みのスケジュールとは、忙しいことである。

　俺はそのまま絵を描き続け、明け方に完成させた。いつもより少しだけ、ペースが早かったかもしれない。

「終わり？　崇哉」

　絵筆を置いて、一息つくと、俺の左肩に誰かのアゴが載った。アゴ先の尖った感触は、康介である。

　昨夜の深夜にふらりとやって来て、冷蔵庫を漁ったり、ソファベッドに転がったりしていたようだ。

　康介は、見た目は人間の男だが、今時珍しい宿なしとかで、このアトリエをエサ場兼寝床にしている野良猫のような奴である。出入りしても俺は一切かまわないし、奴も俺がいようといまいと気にしていないふうで、まさしく野良猫のようなつきあいをしている。

　まあ野良猫にも、気まぐれに甘やかして欲しいときはあるらしく、そんなときは無意味に体をすりつけてくる。

　今、俺の肩に無意味にアゴを載せているのもその一環だろう。俺はかまってやる気は毛頭なかったが、奴のアゴが長時間同じ姿勢で凝り固まった肩のツボを適度に刺激して心地いいので、とりあえずそのままにしてやる。

「何の絵？」

　アゴを肩に載せたまま、康介が訊ねる。耳のすぐ横で、吐息が少しくすぐったい。

「何に見える？」

　逆に、訊き返す。

　キャンバスには、緑の絵の具が散りばめられている。若葉、翡翠、ビリジャン、ブロンズ、エメラルド。グラデーションで、濃く薄く、時に光を帯びて白く。

「木。森。緑の島。風の色」

　康介が思いつきを並べる。背後からアゴを載せて、腕を交叉して肩にかけているので、薄い胸が俺の背中に当たっている。伸縮するあばらの中で、やわらかい緑の言葉が共鳴する。

「当たってない？　崇哉、答えは？」

「んー」

　首を左に傾げて、俺は唸る。こめかみの触れたところから、俺のうなりが康介の頭蓋骨に震動する。

「ん。何を描きたかったのか、忘れちまった」

　正直に答える。最初のビリジャンの絵の具チューブを握ったときには、何かイメージがあったはずなのだが、今では思い出せない。

「何だよ、それ」

　康介が呆れたように、鼻から忍び笑いを漏らす。

　耳の横でクスクス笑われると、なま温かくくすぐったい。俺は康介の額を捕まえて、脇にどける。康介はにょろりと背中に逃げて、今度は右肩から顔を出した。

「でも何か珍しいね、こういう絵」

　アゴを肩に突き刺してグリグリしながら、康介が感想を言う。康介は、抽象的で稚拙ながらも、不世出の俺の絵を評してくれる数少ない一人だ。

「何だろうな。何か感じ違う。崇哉、作風変わった？」

　右肩にくすぐったい頭をつかもうと手を伸ばすと、にょろりと逃げる。逃げるくせに、またアゴを突き出しては肩にグリグリする。実にうっとうしい奴である。

「いや、別に」

　逃げ回る康介の頭をようやく捕まえて、俺は答える。

　もう逃げられないよう、捕まえた頭を脇の下に挟んでヘッドロックの状態に持ち込む。これならば、チョロチョロ身動きもできまい。

「崇哉、オレ、こういう感じ好き」

　脇の下に挟まれた頭が、急に可愛い口を利く。

　実際に可愛いかはともかくとして、不意をつかれて俺は赤面する。くどいようだが、俺は自分の絵を褒められるのに慣れていない。

「やわらかくて、色使いがいい加減で」

　続く言葉は、しかし褒めているのかけなしているのか微妙なところだった。

「あのなあ。『いい加減』って何だよ」

　ヘッドロックの頭に、左手の拳をグリグリ押しつける。さんざん人の肩をグリグリしたお返しだ。

「うーんと、いつもこんなにたくさん色使わないじゃん？　使っても、正反対の色ばかりで眩しいのにさ。これは似た色のグラデーションでやさしいかんじ」

　ようやく、それらしい評価が出てくる。こいつが「好き」「嫌い」以外の言葉を使って、俺の絵をまともに評したのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「……たとえれば、オレ甘やかすときの崇哉みたいな」

　そしてやっぱり、よくわからないコメントで締める。康介はどこまでも感覚的なのだ。

「何だ、そりゃ」

　頓狂なコメントに力が抜けた一瞬、俺の体はフワリと宙に浮いた。

「う、わ？」

　スローモーションで後ろに傾いて、俺の裸足がジタバタと空を掻くのが視界に入る。それから背中に、床の感触が当たった。どうやら俺はスツールごと背後に倒れたらしい。

　さっきまで脇の下にがっちりホールドしていたはずの康介の頭は、いつの間にかクッションにすり替わっていた。

「へへっ、変わり身の術」

　頭上から、逆光を背負って康介の笑いが降り注ぐ。生意気にも、無様に転がった俺の頭を跨いで仁王立ちしていやがる。

　そうだった。油断した。康介は今まさに「甘やかして欲しい」モードの野良猫で、いたずらを仕掛ける機会を虎視眈々と狙っていたに違いないのだ。

　わかっていて、まんまと引っかかった。

「康介、この……！」

　頭のすぐ横にある細い足首をつかもうとしたが、ひらりと飛んでかわされる。

　宙に飛んだ康介は、俺の腹に落ちてきた。康介は男にしては体重は軽いが、勢いをつけてダイブされたのでは息も詰まる。ぐぇっと呻く俺の鳩尾の上で尻を軸にくるりと回転し、康介は勝ち誇って俺を見下ろした。

「やーい」

　いまひとつ趣旨のわからない罵声が降ってくる。

「……お前なあ。何がしたいんだよ？」

　脚を中途半端に倒れたスツールにひっかけたまま、俺は脱力して康介に訊く。下手に暴れて、足元のイーゼルを倒したくない俺は、既に降参モードだ。

　俺の腹に跨った康介が、邪気のない表情でにんまりと笑う。

「ん。何したかったか、忘れた」

　あっけらかんとした答えに、俺は本当に脱力する。それは、さっきの俺のセリフじゃないか。

「もういいじゃん、何だって」

　気まぐれな野良猫は、俺の上で丸くなってのどを鳴らしながら、首筋に猫っ毛をすり寄せてくる。結局は、こいつの思惑通り、野良猫様の甘えたい気分にご奉仕させられるハメに陥ったらしい。

　レースのカーテン越しのやわらかい暁光が、仕上がったばかりの絵を包む。緑の波長の淡い光は、たしかにいつもの俺の絵とどこか違うかもしれない。

　俺はいつもと同じように描いただけだ。

　けれど何かが、変わるのかもしれない。