銀色に光る鋭利な先端が、鈍い痛みを腕に穿つ。皮膚を破り、半透明の組織をくぐり、血管の壁を貫いて、熱い血脈を探り当てる。自分の体の中に澱んでいた赤黒い血液は、脈々と頷きながら、銀色の管を這い登り冷えていく。

　すうっと全身が軽くなる浮遊感と、同じ強さで訪れる恍惚感。体の輪郭が溶けて、空気中に昇華され、実体が消えて行く。

　その瞬間、震えながら漏れる吐息は、安堵のため息よりも苦痛と愉悦の狭間の喘ぎに近い。

　くらくらと眩暈がした。

◆

　五年来の彼女はいるし、三十代ヒト性別オスとしてのメカニズムは正常で、しようと思えばできないわけでもない。

　ただ、セックスをする気にならない。面倒くさい。かったるい。疲れる。体が、重い。

　それで、気がつけば数ヶ月はしていない。

　彼女も仕事が忙しいようで、あまり会わなくなった。どちらかの部屋で会えば、食事してセックス、と思うと面倒なので、どちらからとも会おうとも言い出さなくなった。

　彼女とは、週末の夜に電話で話をする。旅行雑誌の編集をしていて、特集記事のチーフに抜擢されたのだと張り切っていた。

　彼女の出張が多いのも、二人が会わない口実の一つだ。それでも仕事の話をするときの彼女は輝いていて、魅力的だと素直に思う。彼女とつきあっていることを、誇らしいとも思う。

　彼女のことは、純粋に好きなのだ。

　ただ、セックスしたいと思わなくなっただけで。

　もともと、私も彼女も淡白なほうだ。上から下まで洗濯板体型の似たもの同士で、セックス・アピールの強いほうではない。互いに好みのタイプだったわけでもない。自分たちのセックスなんて、映画や小説とは違ってひどく滑稽だという自覚もある。

　生き物の生殖本能とは違った次元で、互いを信頼できて、生き方を認めて、尊敬することができる、それでつきあいはじめた。つきあいはじめたから、なりゆきでセックスもした。恋人同士ならそうするものだと思っていたからだ。

　快感も当初あることはあった。今ではもう、その後の疲労感と秤にかけて、面倒だからとあきらめてしまえる程度の快感だが。

　マスター・ベーションを憶えて、毎日していた十代の頃のエネルギーは、いつのまにか薄れてしまった。

　結局、私の中でそういうものに費やす分のエネルギーが切れたのだろう。

　かといって、私は彼女と違って、仕事でもマンネリ感が否めない。古い企業の体質で、派手な出世もなければ、手酷いリストラもない。毎日をぼんやりと過ごして、気がつけば同期にじわじわと差をつけられている。

　それでも、悔しいとも思わない。たかが生活費と割り切っている仕事にムキになるエネルギーなんか、性欲より先に手放してしまっている。

　セックスにも、仕事にも、自分を向けるだけのエネルギーが残っていない。

　何故だかはわからない。いつからこうだったかも憶えていない。こうじゃない頃はたしかにあったはずなのに。

　とにかくもう、私の中では何もかもが死んでしまっているのだろう。

　死体のように重い体。鉄のにおいのする、粘度の高い血を抜けば、少しは身軽になるだろうか。

　そんなふうに考える。

◆

　丸々と健康そうな輪郭の看護婦が微笑んでいる。愛想よく笑いながら、私の腕から手際よく針を抜き取る。

　体に埋め込まれていたものを引きずり出されると、それまであった異物感と引き換えに切ないような喪失感に囚われる。もう少しそのままにしておいてくれればいいのに、とさえ思う。

　赤く小さく開いた穴には、バンソウコウを当てがわれた。うっすら裏側から血が滲むのを指で押さえて隠す。

　紙パック入りの乳飲料をひとつ取って、私はそのまま外へ出た。

　体にまだ残る浮遊感を、無粋な休憩室で霧散させのが惜しかった。このままフラフラと、夢心地で歩きたい。実体がないような、体の軽さは好きだ。

　自分の肉体なんて、重くて不自由で邪魔で、昔から好きじゃない。

　外は秋晴れだった。

　遮る雲ひとつない青空から、陽光が眩しいくらいに降り注ぐ。

　同じ太陽から届く光のはずなのに、夏のそれとは違って、地上に降りるまでにとうに熱を失っている。どことなく、自分に似ていると思う。

　不意に、足元がふらついた。

　陽光がまぶたの裏でチカチカと点滅し、次第に暗くなる。必死に目を開けていても、視界は色を失いモノクロームに、やがて狭くなっていく。

　くらくらと眩暈が来て、私はその場にしゃがんだ。

　どうやら、貧血らしかった。四〇〇ミリリットル献血が効いたのだろう。ここ数年毎月のように血を抜いていたのに、貧血なんて初めてのことだ。

「大丈夫ですか」

　ふと肩に手を置かれているのに気付いた。置かれているというより、両肩をかなりしっかりと抱えられている。

　返事をしようにも、視力が戻ってこない。私が顔を上げるまでの数秒間、手は私を支えてじっと待っていてくれた。

　くらくらする頭を振って、何とか顔を上げる。

「……大丈夫ですか」

　大丈夫ですと愛想笑いをするより先に、もう一度尋ねられた。やたらと大きな目が、至近距離から覗き込んでくる。

「くらっと来たんでしょう。そこの献血ルームを出て、ここでフラつく人、結構見かけるから。立てますか？　すぐそこ、ベンチだから」

　ひょいと脇の下に手を差し込まれ、抱え起こされる。引きずられるように五歩歩いて、私はベンチに座らされた。

「ジュース、飲んだほうがいいですよ。水分取らないと」

　握ったままだった乳飲料の紙パックを取り上げて、ストローを刺し、また握らせてくれる。

　素直に口に含むと、浮き上がりそうにフワフワ軽く感じていた体が、重力下に戻ってくる。遠のいていた五感には、実体の感触がずっしりと重い。

「うん、顔色戻ってきたみたい」

　親切な声の主は、ベンチに腰かけた私の正面にしゃがんでいて、やや甲高い声で話しかけてくる。

　彼は、小柄な少年だった。さっき軽々と私を抱き起こしたので、てっきり大柄な人かと思っていたが、違ったようだ。伸びかけたトレーナーの襟元からはくっきりとした鎖骨が覗いていて、私より痩せているかもしれないと思う。

「どうします？　献血ルームに戻って、休憩室で少し横になりますか？」

　しゃがんだままの彼が、人懐こく笑いかけた。親切にもそこの献血ルームまで送ってくれるつもりらしい。

「うん……」

　曖昧に頷く。

　まだ体は重苦しいが、休日の献血ルームは献血者でごった返している。ベッドも狭くて硬くて、眠れたものではない。

　もっと静かで、体を伸ばしてぐっすり休めるところで休みたい。できれば、体の輪郭を忘れさせるようなやわらかい羽根布団で。

「それより、羽根布団の、大きなベッドのあるところが」

　思ったままを、つい言葉にしてしまった。まるで意味不明だ。

　私はようやく我に帰る。見ず知らずの相手に何を言っているのだろう。どう言って取り繕おう。

　彼は大きな目をぱちくりと瞬かせた。そして私が言い訳するより先に、にやっと笑って立ち上がった。

「いいですよ」

　私の手を取り、軽く引く。

　ほんの少し引っ張られただけなのに、私の体はフワリと持ち上がって彼に並んだ。自分ではこれほどに重い体が、何故彼の手にかかると軽く持ち上がってしまうのだろう。まるで手品だ。

　私の手を引いて、彼はさっさと歩き出す。ほとんど無意識に私の体も着いて行く。

　それほどの力がかかっている気はしない。たぶん彼は、力を加えるべきポイントとタイミングを心得ているのだ。

　他人の体をこんなにも軽く扱う彼は、さぞかし身が軽いだろうと想像し、私は彼が羨ましくなった。

next.