警備員という仕事柄いつも不在がちだった夫が、一年三百六十五日二十四時間家にいる。

　私たち夫婦に子供はいない。互いの両親も早くに他界した。祖母から譲り受けた古い家には、しがない絵本作家の私と、猫のミヤオがいるだけだ。ミヤオだって昼間は外に出ているから、私は大抵家に一人で、しごく快適に仕事をしていた。

　私には、絵本一冊の仕事は滅多に来ない。知り合いの編集者から仕事を回してもらって、子供向け雑誌に口絵を描いたり、玩具の取扱説明書の挿絵を描かせてもらうことのほうがずっと多い。

　それでも私は自分の仕事が好きだったし、のんびりした生活が好きだった。夫は数日に一度のサイクルでしか戻らなかったが、連続した休みがあれば二人で近場に旅行に出かけたりもした。

　ところが、夫が仕事をやめてしまった途端、私の生活は一変した。

　朝は早く起きて、朝食を作らなければならない。夫はご飯党で、私は朝はパン派である。夫の食事を済ませてから、私は一人でトーストをかじる。前日の晩に米を研いで電気釜にセットしておくだけでも面倒に思える。

　きっかり夕方の六時に、夫は夕食を取る。警備員だった頃は、この時間に弁当の支給があったそうだ。私は夕方までには買い物を済ませ、夕食の支度を整えていなければならない。遅れると、夫は空腹のために不機嫌になる。

　私が挿絵の仕事の手を止めて、そういった家事をする。家事をしていないときも、何かと話しかけて来るので、気が散って仕事にならない。夫はいつだって家にいるのだから仕方がない。

　もともと、絵を描いている工程を他人に見られるのは、極端に嫌いだったと思い出す。

　そんなことは結婚するときにわかっていたじゃないの、と周囲には言われる。

　実際、新婚の頃には家を空けがちな夫の仕事を不満に思ったりもしていた。けれどあの頃と今とでは、物事の感じ方や、順応力が違っている。私ももう四十に手が届こうとしているし、昔は童顔だった夫も、今ではただのくたびれたおじさんだ。

　私にしても夫にしても、いまさら新婚の若々しいときめきが返るはずもないし、新しい環境を咀嚼するエネルギーは残っていない。

　のんびりと日を過ごし、自分の仕事をささやかに誇り、老猫のあごひげを撫でるのが、今の私の生活のすべて。

　二人が今更一緒に暮らすには、どうしても無理があった。

　にも関わらず、夫はずっと家にいて、再就職の口はなかなか見つからないようだった。

　夫は、当面は働かずに暮らしていけるだけの退職金はもらっていたし、失業保険も受け取っていたが、お金があることと仕事がないことは別だ。そもそも早期退職制度が一種のリストラで、幹部クラスに残れなかった夫は切り捨てられた敗者なのだ。

　定期的に職安に通ってはいるものの、納得の行く就職口にありつけずに戻った夫は不機嫌で、卑屈なひがみは私にも伝わった。

　二人とも機嫌がよくないから、些細なことで口論になる。

　今朝も、それで小さないさかいをした。冷蔵庫の塩ジャケとアジの干物のどちらを先に食べるか、たしかそんな発端だったと思う。

　夫は塩ジャケを食べたいと言い、私はアジの干物のほうが古いから先に食べてくれと頼んだ。私は朝はパン食だから、夫に食べてもらわないと困る。言い方が悪かったのか、それほどに塩ジャケが食べたかったのか、何かが夫の気に触ったらしい。本当につまらないことで、怒鳴りあうようなケンカになった。

　結局、夫は塩ジャケを食べ、私は朝食を抜いて、十一時頃にご飯とアジを食べた。猫のミヤオは、とっくの昔に朝食を済ませて外出したらしい。

　夫は私の遅い朝食には何もコメントせず、居間で新聞を広げながら、テレビをつけて、そのどちらにも没頭する様子はなかった。

　私は食卓で仕事をしようとパステルを手にしたが、イライラして気が乗らない。こんなときに描いた絵は、子供に嫌われることが多いので、さっさとあきらめることにして家を出た。

　夫がいつまでも家にいるので、一緒にいたくなければ、私が出る他にないのだ。

　競馬やパチンコや賭け事の趣味がないのは夫の長所だったが、今となっては、じっと家にいられるほうがたまらなかった。

　毎日が楽しくて時が早く過ぎたあの頃にはもう戻れないのに、どうしてあの人はずっと私の時間の中にいるのだろう。

◆

　幸い天気はよかったが、イライラした気持ちをもてあましたまま、目的もなく歩くのは苦痛だった。

　うつむいたまま我慢できなくなるまで歩いてから、何か気を紛らわすものはないかと顔を上げる。

　すると目の前には、遊園地のゲートがあった。

　白やピンクの造花で飾り付けられ、まるで私を迎えるように開かれている。丸いアーチの左右にくくりつけられたスピーカーが、歌いながら「ようこそ」と繰り返している。

　前も見ずに歩いてきたはずだったが、周囲からは私が、猛然と遊園地に突進したよ

うに見えていたことだろう。私は苦笑して、そのまま遊園地に踏み込んだ。気晴らしくらいにはなるかもしれない。

　遊園地はまるで、街の延長だった。街との境界は背の低い簡単にまたげそうな柵だけで、開きっぱなしの六箇所のゲートでは入場料を取らない。アトラクションに乗るときだけ料金を支払えばいいので、ただ通り抜けるだけの人もいるかもしれない。

　そのくせ園内には風船売りやピエロや大道芸人が練り歩き、ウォータースライダーの水しぶき、ポップコーンがはじける販売機等、遊園地らしい風物詩も忘れていない。

　気晴らしには手頃な、日常からほんの少しずれた空間だった。

　そして目の前を、さらに日常からずれたものが過ぎた。

　動くものを目で追えば、それはウサギのぬいぐるみだった。白くて大きくて、チョッキを着て懐中時計を抱えている。人が入れるほどには大きくないのに、うさぎは人間のように二本足で走っていく。

　思わず私はあっと叫んだが、周囲の誰も気づいた様子はない。

　ウサギが私のほうをちらりと振り返り、一枚のドアの向うに消える。ベニヤを赤く塗っただけのドアには『三月ウサギの迷路・入口』という看板がかかっている。この遊園地には何度か来たことがあるが、こんなアトラクションがあっただろうか。

　私はそっと近づいて、ドアの隙間を覗いてみた。

　途端にドアが開き、私は鼻を危うくぶつけそうになった。中からさっきのウサギが顔を出して叫んだ。

「大変だ、遅れちゃう！　早く早く！」

　長い耳でひらひらと私を招きながら、ウサギは何度も飛び跳ねる。見れば見るほどそれはただのぬいぐるみで、中に人が入っているわけでもないのに、自在に動いてしゃべるのが不思議だった。

「早く、こっち！」

　急かされて、私も思わず後を追う。ウサギが曲がった角に踏み込めば、私はもう迷路の中にいた。

　二メートルほどの高さにコンクリとベニヤをつぎはぎして道を囲っただけの、よくある立体迷路のアトラクションだ。入口で入場料を払わなかったが、いいのだろうか。

　ともあれ、私はウサギを追って奥へ進んだ。

　壁にはカラフルなキノコや、巨大なイモムシの絵が描かれている。屋根がなく、雨ざらしの壁画はところどころはがれかけて、安っぽい感覚は否めない。もしかしたら無料のアトラクションなのかもしれない。

　ウサギのぬいぐるみを追って、私は次の角を曲がり、分岐点で迷い、押せば簡単にはずれる鉄柵の隙間をくぐる。単純だが、それなりに楽しめる迷路だった。

　現状を抜け出す選択肢がいくつもあるのは楽しい。

　三つ目に飛び込んだ袋小路で、私はついに白ウサギに追いついた。

　行き止まりを戻ろうとして振り向いたウサギも私に気づくと、方向を迷い、その場で

左右に飛び跳ねる。慎重に間合いを詰めて近寄る私は、まるで好奇心いっぱいのアリスだ。

　白ウサギを角に追い詰め、手を伸ばして屈んだ途端、ぐるりと視界が回った。

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