行きつけの飲み屋は、臨時休業だった。商店街の福引で温泉旅行を当てたとかで、年末年始も店を閉めたことのない真面目な親爺が、今年に限って店を閉めたのだ。

　気のいい働き者の夫婦の羽根伸ばしにケチをつける気はないが、取り残されたほうは何とも淋しい。ここ数年、淋しい独り者のおいらの年越しは、大晦日に温かいソバと旨い焼酎を飲ませてくれる、親爺の店だった。

　実家には、一人前になるまでは帰らないと決めている。実際のところは、郷里までの旅費分の余裕がなかっただけなのだが。

　おふくろが電話を寄越したが、大晦日も正月も仕事だと誤魔化した。

　実際、仕事をするつもりだったが、オーナー夫婦は軽井沢でスキーだとかで、工房ごと閉められてしまった。正月くらい親御さんとこ顔を出しておいでと、半端に上司らしいことを言うくらいなら、財布の中身を察して年末手当ての一つも出しやがれってんだ。

　結局、今年もまた、おいらの身の上に華々しい出来事は起きなかった。

　算盤勘定だけが能のオーナーが経営する、ハッキリ言って有閑マダムの社交場と化したジュエリー工房で、見習とも下僕ともつかない身分に甘んじている。

　今年こそは、小さなコンテストでもいいから賞の一つも獲得して。今年こそは、おいらの才能を見出してくれる運命の出会いをして。今年こそは。

　そればかりで、過ぎた。

　ああ、おいらはもういくつになるんだ。数年前の人生設計では、人もうらやむ愛くるしい妻がいて、そろそろベイビーの一人くらい誕生しているはずだったのに。

　待てよ、そんな甘っちょろい人生設計を描いたのは、もう十年も前になるのか。あの頃は若くて、何もできないから、何でもできると思っていた。そんな頃もあったのだ。

　否、そんな頃が、もう十年も前に過ぎたのだという事実に、むしろゾッとする。

　いかん。この寒い時期に、年を跨ごうという夜に、一人でネガティブな方向に物思いにふけるものではない。

　おいらは首をブルブルと横に振り、深呼吸した。

　冷たい大気が耳を打ち、ひんやりとした空気が胸の奥まで入ってくる。

　首ではなく、身体がブルブルッとふるえた。ハッキリ言って、寒い。三年もののダウンコートは、中身が抜けて随分と薄くなっている。隙間風が入ってくる気さえする。

　コンビニで温かいものでも買って帰るか。都会の年越しは、飲み屋の親爺に逃げられたくらいで絶望はしない。

　しかし、ポケット奥まで手を突っ込んで、おいらは今度こそ絶望した。

　ポケットの底の、薄い財布に届くはずだったおいらの手は、そのまま反対側へ突き抜けたのだ。底が抜けて、ぽっかりと穴が開いている。道理で妙にスースーすると思った。

　ポケットには、ボロアパートの部屋の鍵も一緒に入れていた。大家は大家で、毎年の習慣でどこかのお山に初日の出を拝みに出かけているはずだ。

　つまりおいらは、金もなければねぐらもない、まったく哀れな状態に陥ったというわけだ。

　後ろを振り返ってみても、真っ暗な道に落し物は見当たらない。二年参りに近所の神社まで出かける人々が、三々五々と歩いている。

　晴れ着の女。ダウンコートのカップル。原色のマフラーを巻いたガキども。どいつもこいつも楽しそうで、白い息を弾ませている。

　どうしていつも、おいらだけがこんな目に遭うのか。

　悲劇的に天を見上げたら、白いものが視界を過ぎった。

「雪」

　明るい声で誰かが叫ぶ。

「違うよ、雪じゃない。風花だよ」

　別の声が応じた。

　随分と風流な物言いじゃないか。おいらが金なしの宿なしになって打ちひしがれているというのに。

　おいらはヨロリと、道の端に寄った。

　住宅街の間の小さな公園の入口で、冷たい石造りの車止めがある。その上に腰を下ろして、おいらは深い溜息をついた。

　まったくもってツイていない。それ以外に表現のしようがない。

　視界をふいと白い欠片が過ぎる。おいらは背中を丸くして、ウウと唸る。唸ったところで、寒いものは寒い。

　腹の虫もグウと唸る。鳴ったところで、余計に腹は減る。昼から何も食べていないのだ。

　最悪な年越しだ。

　というか、おいらは無事に年を越せるのだろうか。飢えと寒さで、このまま朝までここにいて、年が明ける頃には冷たくなっているんじゃないだろうか。

　冗談のような冗談にならないシチュエーションを考えて、おいらはまた身震いする。

　神様。仏様。そのへんの見ず知らずの通行人。誰かおいらを助けてくれ。とりあえずこのネガティブな物思いのループからひっぱりあげてくれるだけでもいいんだが。

「飛島さん」

　突然、背後から声をかけられた。

「こんばんは」

　寒さで固まった首でぎこちなく振り返ると、いつかどこかで見たことがあるようなヤツが笑っていた。どこで見たんだったか。もう随分前の話だが。

　ああ、ミキモトのお稚児さん、と言いかける前に、

「マジシャンのハルミです」

　にっこり笑顔で遮られた。

「甘酒、いりませんか」

　唐突に聞かれた。

「あまざけ？」

　予想外の単語で、反射的に聞き返す。マジシャンはにっこり笑って、白い紙コップをおいらの鼻先につきつけた。

　甘い、饐えた穀類の、独特の香りがふわりと漂う。

　遠くでかすかに香る分には悪くないかもしれないが、至近距離では苦手な香りだ。というか、おいらは甘酒自体がキライだ。甘いものがそもそも食べられない上に、あのぶつぶつざらざらした舌触りは一種の悪夢だ。

「……いりません。遠慮しとく」

　ぶっきらぼうに断って、背を向ける。どういうわけだか、このマジシャンには、社交辞令を振り撒いてやろうという気が起きない。おそらくこの、ヘラヘラと緊張感のない顔のせいだと思うが。

「ええ、何で遠慮なんかするわけ？　これは別にオレのおごりなんかじゃなくて町内会のふるまいものだし、ゼンジイの甘酒は超特別スペシャルにウマイんですよ？」

　正面に回りこみ、額をぶつけんばかりに顔を寄せて子供じみた熱弁を振るうマジシャンに、おいらはじろりと一瞥をくれる。

「甘いもん、苦手」

　ぼそっと理由をつけ足す。大の大人が、酒を愛するイイ男が、何だって甘酒なんかズルズルすすらなきゃならないんだっつの。

「でも」

　お稚児さんがまだ食い下がる。

「ゼンジイのはそんなに甘くないし……それに飛島さん、凍えてますよ？　甘酒、すごく温まるのに」

　口を尖らせ、猫みたいな目でじっと見つめ、首を傾げたついでにおいらの首筋にふうと吐息を吹きかけた。

「のわあ！　何しやがる！」

　おいらは慌ててポケットにつっこんでいた両手で首を押さえる。

　こういうのは、本当に苦手なのだ。なまじ、このお稚児さんが愛嬌ある顔立ちと、妙に色っぽい目つきをしているだけに。

　マジシャンはケラケラと高い声で笑い転げ、笑いながら首を押さえたおいらの右手を取って、温かい紙コップを握らせた。ポケットに突っ込んだ、おいらの手を引っ張り出すための手管だったらしい。回りくどくも気色悪いことするんじゃないっつの。

「どうぞ、温まりますよ」

　マジシャンが気障な仕草で手を差し伸べる。

　紙コップ越しに伝わる甘酒の熱さは、冷え切った指先にじわりと伝わり、甘い香りのする湯気は、たしかに鼻先を温めた。

　なりゆきから口をつけると、思ったほど不味くはなかった。たしかにつぶつぶした異物感と甘さは否めないが、無理やり飲み下してしまえば、かえってすきっ腹には染み渡った。八割方空腹のせいだろうが、むしろウマイかもしれないとさえ思う。

「ウマイ、でしょ？」

　見透かしたようににやりと笑って、マジシャンが同意を求める。

　ウマイなんて素直に言ってやるのも癪で、おいらはずずずっと音を立てて甘酒をすする。

「素直じゃないなあ、飛島さんは。でもいいですよ、マジシャンのオレにはお見通しですから」

　人の心まで見通すのか。マジシャンとは何と嫌な存在だろう。いや、マジシャン全般はともかくとして、こいつの性格がいけすかないのだ。

「ねえ、飛島さん。オレの未来をも見通す力で、来年の運勢を占ってあげましょうか」

　答えずに、おいらは甘酒をぐっと干す。あっという間にカラだ。

「全部飲みましたね？　じゃあ、来年の運勢は……と」

　カラになった紙コップをひょいと取り上げて、マジシャンは中を覗きこんだ。

　中はカラッポで、せいぜい白っぽいつぶつぶが残っているくらいだが、そんなもので何か見えるのだろうか。まあ、どうせハッタリなのだろうが。

「ん、運勢いいですよ。願い事、叶う。良縁……は来ないなあ。待ち人、来る。と、失せ物、出る！」

「失せ物？」

　つい、反応してしまった。つい期待を込めて、マジシャンの覗いている紙コップの底を眺めてしまう。今ここで、失せ物が出てきたら、おいらはどんなに幸せか。

「失せ物、出ますよ。たとえば、ホラ」

　マジシャンが、おいらの膝の上で紙コップを逆さに振る。

　ぽろりと、財布が落ちてきた。何と探していたおいらの財布だ。さらに見覚えのある鍵が落ちる。手製の金色のつる薔薇モチーフのキーホルダーをつけた、正真正銘おいらのボロアパートの鍵。

「え、あ？　あ！　あーっ！」

　立ち上がって、言葉にならない声を上げる。

「薔薇のキーホルダー、やっぱり飛島さんのだったんだ。……はいはい、飛島さんは本当わかりやすいね。よかったですねえ」

　興奮したおいらは、無意識にマジシャンの肩を抱きながら飛び跳ねていたらしい。ポンポンと宥めるように肩を叩かれて、我に返って飛び退く。

　マジシャンのほうはまったく動じていなくて、くりっと公園の対角を振り返って頭をかいた。

「あ、いけね。ゼンジイがガキどもに囲まれて難儀してる。じーちゃん、子供の扱いヘタだからなあ。じゃね、飛島さん。オレ、行くから」

　ひらひら手を振って、身を翻す。向こうの甘酒配りの手伝いをしているのだろう。

「飛島さん、この分なら来年はきっといいことあるよ！」

　おめでたい捨て台詞も忘れない。

　なかなかにおめでたくて、ありがたいヤツだった。おいらも今度ばかりは素直に礼を言う。急いで走って行ったヤツに、聞こえたかどうかはわからないが。

◆

　しかも後で冷静に考えてみれば、あの財布と鍵はヤツがたまたま拾ってくれていたのであれば、あんな回りくどい真似をせず、最初からそうと言ってくれればよかったのだ。紙コップ占いなんて、ヤツの口からでまかせにつきあわされて本気になったおいらは、まるで間抜けじゃないか。

　しかも財布だって、落としていたものが戻ってきただけで、ラッキーというよりはプラスマイナスゼロに過ぎない。

　……それでもまあ、ゼロなら上にも行けるってもんか。

　コンビニで買ってきたインスタント麺をすすりながら、おいらは少しだけ野心に燃えて年を越した。

Fin.