マンションの出窓に置いたミニサボテンは、弟の純の形見だ。半年前に、バイクの事故で他界した。九つ離れた弟は、まだ二十歳にもなっていなかった。

　大学の近くに一人で暮らしていた純のアパートの窓際に置いたあったミニサボテンは、自分で買ってきたものなのか、それとも誰かにもらったものなのか。お猪口よりも小さな素焼きの鉢に光る色砂でアレンジされている。

　整頓の苦手な純らしく散らかった部屋には、他に植物やインテリアの類はなかったし、おそらく誰か女の子からもらったものだと思うが、家族の誰もガールフレンドの話を聞いたことがなかった。弔問に訪れた友人たちの誰も、そんな素振りは見せなかったし、サボテンのことも話さなかった。

　うるさがられてもいいから、好きな人がいたのかどうかくらい聞いておけばよかった。姉弟として生きてきた時間は長いのに、照れ屋のあの子とそんな話をした思い出はない。からかうたびに、いねえよ、そんなの、と口を尖らせて逃げてしまった。

　ねえ、純。好きな人はいたの。

　出窓のサボテンに、小声で呼びかけてみる。

　もちろんサボテンを純だと思っているわけではないけれど、サボテンを通して、純にどこかで届くような気がして。昼下がりの日差しの中、サボテンはじっと動かないが、何となく答えてくれるような気がする。

　亡くなった人をいつまでも思って引き止めるのはよくないよ、と夫はいい顔をしない。けれど弟のことを思い出すのは、もう亡くなってしまった純のためでもないし、自分を追い詰めるためでもない。純のことを思い出してひっそりと悲しむ。残された者にもそんな権利くらい残して欲しい。

　産休を取って、この頃は家に閉じこもってばかりいるから、余計に思い出してしまうのかもしれない。一種のマタニティ・ブルーなのだろうか。

　もうすぐ生まれてくるこの子に、純と名づけたら、夫や、父や母は怒るだろうか。赤ちゃんと純が全然別の存在だということは、おなかに入れている私がいちばんよくわかっているのだけれど。もう会えなくなった純と、まだ会えないおなかの中の子。いま会えないということでは、私の中では同じだ。

　台所でやかんがカタカタ鳴っている。お湯がわいたのだろう。

　座っていた椅子から立ち上がろうとして、バランスを崩し、よろけた私は窓枠に手をついた。はずみで、サボテンの鉢が窓の外へ転がった。

「純」

　私は思わず叫んで手を伸ばす。おなかが出窓のへこみに引っかかって、私はじたばたともがく。

　あっけなく落ちていくサボテンが、海沿いのカーブを曲がりきれずに転落したという純に重なって、とにかく助けなければと焦った。

「危ないですよう」

　下からいささか間抜けな声が聞こえて、私はようやく我に返った。

「これ、奥さんの？　お届けしますよ。何号室ですか？」

　窓の下で、Ｔシャツの男の子が手を振っていた。

　遠目にもわかる笑顔で振っている手の中には、どうやらミニサボテンの鉢が握られている。落ちたサボテンを、彼が受け止めてくれたのだろうか。

「そこで待ってて。取りに行きます」

　私は叫んだが、彼はもう一度、部屋番号を聞いてきた。よく通る声質で、閑静なマンションでは騒音公害になりかねない。

「三階です。三○五」

　部屋番号を告げると、彼はすぐにエントランスに姿を消した。

◆

　本当に来るのだろうか。平日の昼間に、ただの通りすがりなのか、見えないが何かのセールスマンなのか。口うるさい管理人のいるエントランスを無事に通してもらえるだろうか。これから訪ねてくるだろう客が気にかかったが、私はまずやかんの火を止めに行った。

　そろそろお茶にしようと思っていたところだ。あの子の分を考えて、二人分のカモミールティーを準備する。もともとはコーヒー党だが、刺激物は止められているので、この頃はこればかりだ。

　お茶の支度をして、レンジで温めたドーナツを皿に移したところで、玄関のチャイムが鳴った。

　ドアを開けると、先ほどの少年がにこにこ笑っていた。

　亡くなった純と同じくらいの年の頃に見えるが、タイプが全然違う。純はこんなふうに見ず知らずの人間に笑ったりしない。人見知りで照れ屋で、家族にもはにかみ笑いばかり見せていた。

「こんにちは。落し物のお届けです」

　男の子は愛嬌たっぷりの仕草で、両手のひらのお盆に載せてサボテンを差し出した。固めた色砂が少しこぼれているが、傷ついた様子はない。

「ありがとう。あなた、怪我はしなかった？」

　サボテンを受け取ってから、私は広げたままの男の子の手のひらを覗き込んだ。男の子の割には小さくて、子供みたいにやわらかそうな手だ。インテリア用のミニサボテンとは言え、マンションの三階から落ちたものを受け止めたのだ。トゲが刺さったりしなかっただろうか。

「大丈夫。ゆっくりまっすぐ落ちてきたから。天からの授かりものかと思っちゃいましたよ」

　笑って顔の前で手を振って見せる。ゆっくり落ちたはずはないのだが、大丈夫そうだった。ほっとしたついでに、私は誘ってみた。

「ねえ、お礼にお茶でもいかが。ドーナツが余っているの。甘いものが嫌いでなければ」

　男の子は途端にぱっと顔をほころばせた。いまどき、残り物のドーナツごときでこんなに喜ぶが子いるとは。

「喜んで、是非！　あ、でも、いいんですか？」

　ちらりと、私のおなかを見て笑顔をおさめる。予定日が近いので、スイカでも入っているみたいに大きくなっている。

「大丈夫よ。病気じゃないんだもの。ずっと一人で家にこもっているから、退屈していたところなの」

　実際、私は退屈していた。少し前までは朝から夕方まで会社にいたのに、そうそう切り替えられるものじゃない。細々とした家事をしたり、おなかの子供のために昼寝をしたり、やることがないわけではないが、ずっと一人きりで家にいなければならないというのがたまらなかった。それで、サボテンに話しかけたりしていたのだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて。甘いの、大好きなんです」

　そう言って上がりこんだ彼は、まず私を椅子に座らせて、やりますからとキッチンからカモミールティーを仕込んだポットを持ってきた。手際はあまりよくないが、何とか二つのカップに香りの湯気を注ぎ、私の勧めでミルクとはちみつを垂らして、それから着席する。

「では、いただきます」

　手を合わせて行儀よく挨拶をしてから、あまり上品ではない勢いでドーナツを食べ始める。

「あれ、奥さんは食べないんですか？」

　残り物のドーナツは、昨夜の夫のお土産だ。このところ食欲のない私のためにあれこれと好物を買ってきてくれるのだが、妊娠してから味覚が変わって、処分に困るものが度々ある。

「いいの。何だか食べたくなくて。前は好きだったんだけど、ドーナツ」

　男の子はドーナツをほおばったまま、私が手のひらに載せたままのサボテンを手を伸ばした。

「ありゃあ、そうなんですか。それは残念ですね。じゃあせめて、お茶でも。ジュンさんにはこっちにいてもらって」

　取り上げて、テーブルの上の空席に移す。不意に純の名を呼ばれて、私はドキッとする。

「このサボテン、ジュンさんっていうんですね。さっき、窓のところで呼んでました」

　そうだ。さっき窓からサボテンを落としたときに、私はとっさに純の名前を読んだのだ。何故と聞かれたら、どう説明すればいいのだろう。ちらりと見上げると、男の子は今度は自分を指差していた。

「ちなみにオレはハルミといいます。奥さんは？」

　一秒足らずで自己紹介を振られて、私は少し慌てる。

「私。私は、優子。でもそのサボテンは……」

　純じゃない、と言いかけて、私は口をつぐんだ。目の前のハルミと名乗った男の子は、純を知らないのだ。夫や両親にするように、ミニサボテンが純でないことくらいわかっていると、言い訳なんかしなくてもいい。

「純は、純は……私の弟なの」

　けれど、どうしても言いたかった。

「半年前に亡くなったの。バイク事故で、海に落ちたって。電話一本で、遺体も上がらないのよ。ひとひとり、そんなふうに会えなくなるなんて、信じられる？」

　早口に言ってから、向かいでドーナツを食べている男の子を見る。

　男の子は少し驚いたようで、大きな目を見開いて、食べかけのドーナツを静かに置いた。そのまま、話を聞いてくれそうだった。

「バイクに乗り始めたのは大学に上がってからだから、私は純がバイクに乗っているところなんか見たこともないの。なのに、バイクに乗ってあの子が死んだって言うのよ。家にいた頃は、野球部の規則で頭を坊主にしてて、ガクランで自転車に乗っているところしか思い出せないのに」

　言いながら、目頭が熱くなってきた。見ず知らずの男の子を前に、私はいったいどうしたのだろう。

　自覚しながら、私は止められなかった。

「子供の頃はね、二人でスイカの種の飛ばしっこをしたのよ。縁側から、狭い裏庭のブロック塀の穴目がけて。何でかしら、思い出すのは小さな頃のことばっかりで。いつのまに、サボテンなんか、誰にもらって、どんなふうに大切にしていたのかも知らなくて。何で聞かなかったのかしらって後悔しているの」

　男の子がティッシュを渡してくれた。目に当てると、揺れていた視界がすうっと吸われた。

　本当に、どうかしている。私は苦笑いした。

「そんなこと知っていたって、どうなるわけでもないのにね。純はいない。おなかの子供は生まれてくる。今さらもう、何を悔やんでも、何にもならないのが悲しいの」

　私は口をつぐんだ。本当に今さら、純が亡くなってから半年も経って、見知らぬ人に何を言っても、何にもならないのだ。

　じっと動かなかった男の子が、動かないままで、小さく答えた。

「わかります」

　ほとんど聞こえないくらい、気を遣った声だった。

「でも、何にもならなくても、優子さんが思うことは、悪いことじゃありませんよ。亡くなった弟さんのために、優子さん自身のために」

　彼は、夫や両親とは、逆のことを言った。

　悲しいのはわかる。でも優子のおなかには子供がいる。せっかく仕事が休みなのだから、過ぎたことをくよくよ悔やむのはやめて、明るい気持ちでいなさい。悔やんでも、何も変わらないのだから。

　それは、正しいことだ。悔やんだり悲しんだり、マイナスの感情はおなかの子にはよくないだろう。それでなくても、情緒不安定になっている。

　でも、純が亡くなったのは事実だ。悲しいのも事実だ。見なかったふりをして、笑っていられない優子も現実なのだ。

　顔を上げると、男の子は静かに笑っていた。さっきまでと、まったく違う笑い方だった。

「明日出会う人もいれば、会えなくなる人も、います。オレだって、もう優子さんに会わないかもしれない。オレはたぶん死なないけど、またサボテンでも降ってこないと、ね」

　ドーナツの砂糖を口の端につけたままで、男の子はくしゃりと笑い崩れた。

「だから案外、一緒なのかもしれない。ただ会えないだけで、どこかにはいる。だから、どうにもならなくたって、思うくらい、いいんじゃないですか。そういうのが届く保証もないけれど、届かない保証もないですから」

　男の子がもう一枚、ティッシュをくれた。こんな男の子の前で泣いてしまうなんて、今日の私は本当にどうかしている。

「ごめんなさい。お母さん、泣かせちゃって」

　男の子は慌てたように立ち上がって、私の足元に膝をついた。さっきサボテンを載せていた手のひらを、そっと私のおなかにかざす。

「お詫びに、おまじないです。オレからおなかの赤ちゃんのために。……元気に、生まれてきますように」

　神妙な顔つきだった。そのまま目を閉じた男の子の手を取って、私は大きなおなかに当てた。

　男の子は驚いたように目を開けて、私を見上げてはにかみ笑いをした。

　純が生きていて、赤ちゃんのいるおなかを触らせたら、こんな笑い方をしただろうかと、私は思った。

◆

「ドーナツ、ごちそうさまでした」

　男の子は来たときと同じ、純とは違う全開の笑顔で笑っていた。

「さっきはあんなことを言っていたけど、また、遊びに来てね」

　玄関口で声をかけると、ええ是非、と愛想のいい返事が返ってきた。澱みのない答えは条件反射みたいで、少し淋しくなる。

　赤いズックに足を突っ込んでから、彼はくるりと振り返った。

「そうだ。サボテン、鉢を移したほうがいいですよ。あんな小さな鉢に、砂も固めてあって、窮屈そうだった。もう少し大きい、そう、これくらいの鉢に」

　一度合わせて開いた手のひらに、魔法のように植木鉢が現れた。どこにでもあるプラスチックの白い鉢だったが、今の鉢の三倍くらいの大きさがある。

「これにね、やわらかい砂をたっぷり入れて。そうしたら、大きくなりますよ。びっくりするくらい」

　言われて、初めて気がついた。

　私は純を、もう半年も、小さな鉢に押し込めていたのだった。

Fin.