そのときは自分がどこをどう歩いているのか、どこへ行こうとしているのか、自分でもわかっていませんでした。ただひたすらに右足と左足を交互に出して、体を前のめりに、どこでもいいから行きたかった。少しでも、私を閉じ込めるあの黒いビルから遠ざかりたかったのだと思います。

　外はもう、深夜と言ってもいい時間でした。

　道行く人々は皆コートとマフラーに身をくるんでいましたが、私はスーツ姿のままでした。もともと外出しようと思っていたわけではなく、手洗いに立ったついでに、ほんの少し外の空気を吸ってみたい、と思っただけでしたので。

　黒いコンクリを固めたあのビルときたら、三階から上の窓は十センチと開かないようになっています。ストレスによる自殺防止のためなんだというのがもっぱらの噂ですが、本当のところはわかりません。いずれにしても新鮮な空気を吸いたかったら、外に出るしかないのです。

　私がなかなか戻らないので、同僚は心配しているかもしれません。外へ出て、随分歩いてからそれに気がつきましたが、今さら戻ろうとは思えませんでした。思考でも、感情でもなく、プログラムが自動処理をするように、私は寒風の中をひたすら前に進んでいました。

　もともと北国育ちですから、寒さはそう感じていなかったのだと思います。普段でも、会社の近くの屋台へ行くくらいならコートは着ませんから。もっともこの冬は、秋口くらいまでしか、食事のために会社を出たような記憶もないのですが。

　けれど上京してからの私は、すっかり冬が嫌いになっていました。このあたりでは、冬の間じゅう雪に閉じ込められたり、庭木が凍るほど寒かったりしないかわりに、ただ乾いた風が吹く。雪や土埃のにおいのしない無機質な風は、私にとって豪雪やマイナスの気温よりもはるかに辛く感じられました。

　体ではなくて、まるで心がカラカラに乾いていくようで。指先で折ればしなう青葉も、葉脈の水分を失う冬にはわずかな衝撃でも脆く砕けてしまう。私の心も、同じなのだと思います。

　鼻や喉や瞳の粘膜を乾かせる風を避けて、私はここ数日の間、完全に室内にこもりきりでした。仕事の納期も迫っていましたし、一人暮らしのアパートへ帰るのも面倒で、会社に泊まりこんでいたのです。思い返してみると、夏場もあまり変わらない生活をしていたような気もしますが。

　プログラマーという仕事は普通に考えてみると不思議なもので、一日中ほとんど座ったまま、四角いディスプレイに向かっているだけで仕事が進みます。顧客を訪ねて打ち合わせをしたりすることもたまにはあるのですが、ほとんどはメールに添付して仕様書が届き、納期に間に合うようにせっせとコーディングを組み、本社のサーバーに転送する。現場への仕込みは顧客サービス担当の部署に任せ、私たち開発部隊は煙草を一服だけしてまた次の仕事に取り掛かるのです。

　一日中、人語ではない言語文法を指先で操り、たまに同僚を振り返っても口にするのはやはり機械言語。「デルファイ」語を流暢に操る先輩が格好よく見えた頃もありましたが、この頃は規則性のゆるんだ田舎のなまりを恋しいと思います。

　ふと、実家に電話すれば田舎のなまりを聞けると思いつきましたが、老いた両親は既に就寝している時刻です。それに、あの人たちは携帯電話のよじれた音声を極端に嫌がるのです。まるで宇宙人と交信しているみたいだからなんて旧式なことを言って。この頃は、街中で公衆電話もそう見かけなくなったというのに。

　冗談のように目の前に公衆電話があったりするかと、私は少し目線を上げました。万が一あったところで電話できないことくらいわかりきっているのですが、実際にないことを、たぶん確認したかったのだと思います。

　歩く震動で小鼻までずり落ちてしまっていた眼鏡を中指で押し上げて見回すと、私はいつのまにか賑やかな大通りを抜けて、閑静な住宅街に迷い込んでいました。

　この街に来て数年になりますが、まるで来たこともないところです。それとも、夜だから景色が違って見えたのか。ふちなし眼鏡の境界ににじむ、アンティークな外灯のオレンジ色に、私はようやく、０と１だけで整然と構築された世界を抜け出したのだと感じました。

　どこかで犬が鳴いています。室内で贅沢に育てられている小型の犬でしょう。家の中で誰かに話し掛けるような鳴き方ですから。かん高い甘え声に惹かれて、私は住宅街のもっと奥へ進みます。

　灯りの少ない奥へ行けば行くほど、道は細く、ぶつ切れに曲がっています。そのうえ、息が切れるほどの坂です。この辺りに住んでいる人たちは、毎日こんな坂を上り下りしているのでしょうか。

　大きな家には大きな外車が停めてあったりしますが、車体の幅が道幅よりも大きいように見えます。物理的違和感を感じながら、私はその前を通り過ぎます。

　どこかの家では今頃から食事なのか、よいにおいが漂ってきます。独特のにおいは夜食のラーメンかもしれません。高級住宅街に不似合いだと思いつつ、私は少し微笑して坂を登ります。

　そうして坂を登り続け、私は、公園のような、広場のような空間に遭遇しました。

　この土地の斜面に合わせて作ったのでしょう。白茶けたレンガを階段状に並べて広場を囲っています。

　ここはいったい、何をするところなのでしょう。私は立ち止まりました。

　レンガには枯れたツタが這い、住宅街から区切られ、坂道の途中に囲まれただけの空間には遊具もありません。

　外灯にぼんやり照らされて、坂道を登る階段の下から上まで溝が彫ってあるのが見えます。水がめを捧げた石の天使が頂上にいるので、もしかすると夏場には水を流すのかもしれません。今は、からからに乾いて枯葉がたまっています。

　私は溝に沿って、階段を上りました。

　近づいて見ると、石の天使は背中の羽根が片方欠けています。もげた羽根の跡が、やけに白っぽく光って見えましたから、ごく最近、壊れたのかもしれません。

　誰かに呼ばれた気がして振り返ると、私が登ってきた坂の上に、オリオンがのぼっていました。都会でもよく見える、数少ない星座です。特徴的なベルトの三ツ星と、四肢のように伸びる台形。けれどここからでは、四辺の左下の一方が、裸木の樹上に引っかかったゴミ袋だか何だかに隠されて見えません。

　あんなもの、無神経に誰が引っかけたのでしょう。誰かが捨てたものを、乾いた風が運んだのか。それとももしかしたら、街が明るすぎて私に見えないだけなのか。

　私はわけもなく落胆し、傍らの天使の羽根の跡をそっと撫でました。

　その途端でした。石の天使が口を利いたのは。

「お兄さん、ひどいなあ」

　私は驚いて、少し荒れた石の肌から手を離しました。まじまじと、石で彫られた天使の横顔を見詰めます。

「天使の羽根、取っちゃったら、ただの子供になっちゃうじゃん」

　動かない、アルカイックの唇で、彼は言いました。本当にただの子供のような、駄々をこねるような口調です。

　羽根を折ったのは私ではありません、と言い訳しようとしたとき、天使の向こう側からひょいと顔が覗きました。

「羽根、そこの溝に埋もれてたよ。元に戻せるかなあ」

　不平そうに口を尖らせながら、瞳は笑っていました。さっきから、しゃべっていたのは彼だったのです。

　視界に現れた彼は、本当にただの子供でした。

　彼は羽根の欠片を手にしています。その端を石の背に注意深く押し付け、恐る恐る手を離し、バランスを失って落ちかけるのを慌てて受け止めたりしています。

「そのう、羽根を折ったのは私ではありません」

　私がいたたまれずもごもご言い訳すると、彼は顔を上げて、やっと私を見ました。

「そう？　欠けた羽根の跡を撫でてため息なんかついてるから、てっきりお兄さんかと思っちゃった。ごめんね」

　そしてまた、天使の羽根を石の背に載せようとします。接合部より外側に羽根が湾曲しているので、何度試してもおそらく結果は同じなのに。

「あのう、重さのバランス的に、載せるだけじゃ無理だと思います。何か、接着させるものがないと」

　私は見かねて声をかけました。

　彼はまた私を見上げて、それもそうだね、と呟き、ダウンジャケットのポケットを探り始めました。どこか縫製がほつれているのか、彼が身じろぐはずみにジャケットの中からあふれた白い羽根がふわりと宙に浮きます。

「じゃあ、とりあえずガムテで」

　私が羽根に気を取られている間に、彼はガムテープを取り出していました。普通、そんなものを持ち歩く人はいないと思うのですが、彼にはごく自然なようでした。

　そして石の像をガムテープで補修するのはまずいんじゃないか、という私の懸念にはお構いなしに、音を立ててガムテープを切り、天使の羽根を仮止めしました。

「見てるんなら手伝ってよ、ここ押さえてて。ええと、お兄さん、名前聞いてもいい？」

「は、はい。あの、河原です」

　強い口調で言われて、私も羽根を押さえます。彼はぐるぐる、実に鮮やかな手つきで羽根の継ぎ目にガムテープを巻き、端を切りました。

「どうもありがとう。オレはハルミ。よろしく」

　もう手を離しても、天使の羽根はくっついたままです。ガムテープの見た目がどう見てもお粗末ですし、何日もつかもわかりませんが。

　私は修理したばかりの羽根にぶつからないように気をつけて、天使の背中越しに差し出された彼の手を握り返しました。

「うわ、河原さん、手冷たいね。今日ちゃんと夕飯食べた？」

　彼は私の目を正面から真っ直ぐに覗き込みました。まるで母親のような口ぶりです。

「え、はい」

　きっちり一時間前に、私はデスクに買い置きのゼリー飲料を飲んでいました。キーボードを叩きながらのそれを「ちゃんと」と表現していいかはともかく、私なりの夕食は済んでいましたので、自信を持って頷いたつもりでした。

「ダメだよう、ちゃんとしたもの食べないと」

　でも彼はあっさりと見透かして、まるで私の母親の世代の女性のような、陽気なイントネーションで私を叱りました。

　こんなふうに誰かに根拠のない断言をされたうえに叱られるのは、とても懐かしい気がして、私は照れ笑いしました。

「でも、食欲がないのです」

　まるで子供のような言い訳です。でも実際食欲がなくて、この頃の食事はもっぱら流動食ばかりでした。噛んで咀嚼するだけの気力がなくて、固形物では喉につかえるような気がするのです。

「そう。それじゃあ。……辛いねえ」

　彼は今度は、随分あっさり同意して、結んだままの唇の両端だけに笑みを浮かべました。

next.