こんな日には外を歩きたくない。ぬくぬくと室内から雨の音を聞いているのが至福ってもんだろう。

　今夜はアトリエに泊まる、という実家への電話を切った後だった。

　雨音に消され、何の前触れもなくドアが開いた。

　ずぶ濡れの子供が二人、入ってきた。

　否、入ってきたのは子供ではなくて、随分と小柄には違いないが、二人ともそれなりに大人らしい。ひょろひょろと痩せた、比べれば背の高い方が、貼り付いた前髪の下からおれを見上げた。

「……いたの、崇哉」

　困惑したような、下手をすると迷惑そうな口ぶりである。おれは少なからずむっとした。

「いて悪かったな。ここはおれのアトリエだよ」

　康介は、住所不定無職の平たく言えば怪しいやつだが、おれにとって害があるわけでもなければたまには役に立つので、このアトリエに自由に出入りさせてやっている。まあ、普段から鍵をかけるような場所でもないので、私有林の奥深くにしまわれているという場所柄を除けば、誰だって侵入しようと思えばできるのだが。おれにしてみれば、たまに訪れる外猫を受け入れてやっているようなお恵み精神なのだ。

　にもかかわらず、ここの持ち主……実際はおれのじいさんなのだが、持ち主のようなおれに、いたの、はないだろう。いっそこの雨の中に蹴りだしてやろうか。

　が、おれの刺したトゲには何の反応も見せず、康介は連れを振り返った。

　小さな康介の背後に隠れるように首を縮めているのは、女の子だ。

　真っ黒な長い髪が額や頬に貼りつき、顔つきや年の頃はよくわからない。幾何学模様の柄シャツにジーンズというありきたりの衣服に包まれた体つきからすると、まったくの子供というわけでもなさそうだ。

　康介は閉じたビニール傘を持っていて、濡れ方はそれほどでもないが、女の子のほうはすっかり濡れ鼠だ。腰まで届きそうな髪の先からはぼたぼたしずくが落ちる姿は、水から上がったドザエモンを思わせる迫力だ。

　康介はドザエモン嬢に何かしら言い聞かせて、またこちらを振り返った。

「崇哉、ごめん。ちょっとシャワー貸して。それと、今晩はここに泊めて」

　おれが、なにおう、と反論するより早く、康介は女の子の肩を抱いてバスルームへ誘導した。さらに勝手知ったるおれのクロゼットからタオルと着替えを調達し、バスルームへ差し入れる。何やかや言い聞かせているのだろう、康介の低い声が水音に混じって響く。

　まさかそのまま一緒に入浴してるんじゃないかと、おれが様子を覗きたくなってくる頃、康介はタオルで自分の髪を拭き拭き戻ってきた。

　ぼんやりと宙を見据える様がはかなげに見えたが、よく見れば康介はそんなに濡れていない。唇が蒼ざめるほど凍えている様子もなく、ただ物思いに囚われているようだった。

　そのまま、冷蔵庫に直進して牛乳パックを引っ張り出す。今朝おれが実家からくすねてきたものなのだが、まったく頓着せずマグカップに注ぎ、冷蔵庫の上の電子レンジにセットする。ピッピッと電子音を響かせ、そのまま動かなくなった。

「おい、康介」

　苛々して声をかけると、はっとこちらを振り返る。ボタンを押すために持上げた指がそのままだ。

「……ああ」

　吸い寄せられるようにこちらにふらふら移動してきて、口を開けばまるで的外れな反応。

　ああ、じゃない。このアトリエの持ち主様（のようなもの）に状況をきっちり説明しろっつの。

「誰だ、あの子は。いったい何だよ」

　康介は不思議そうにおれを見遣り、今はじめて認識したようにぱちぱちと瞬きした。どうもおれは、外猫様の意識の端にすら留めていただけていなかったらしい。

「ああ、その。あの子は、ミヤちゃん。

　おなかに赤ちゃんがいるかもしれないって」

　は？

　おれはたっぷり十秒、機能停止した。

「って、康介、おい！お前、それは、その」

　言葉が続かない。息が切れ、おれは差し伸べた手のひらを康介の両肩に置き、ようやく呼吸を落ち着けた。

「そのつまり……あの子のおなかにお前の子がいるってことか？」

　康介は夢見心地のようにおれを見上げ、それからぽかんと口を開けた。

「何で？」

「何でって、お前、いま自分でそう言ったろ！てめえの彼女に赤子が出来て、困っておれにところに来たんだろ！」

　首根っこを掴んでがくがく揺さぶる。ああ、こんなに骨だけみたいな吹けば飛ぶようなへろへろしたヤツが、そんな大それたことをやらかそうとは。だいたいおれは、年齢不詳で性別不問で正体不明で得体の知れないこいつを、生身の人間だなんて思ったこともなかったのに。

「ち、違うよ、崇哉」

　気付くと、おれの手の中で、相変わらず握り甲斐のない康介が、珍しく必死にじたばたもがいていた。

「なにおう？」

　揺さぶるのを止めてやると、とりあえず康介は息をついた。

「ミヤちゃんのおなかにいるかもしれないのは、オレの子じゃないよ」

「……む？」

　ちょっとしたおれの早合点だったらしい。

「じゃあ何で、お前と一緒にここに来るんだ。あの子はお前の何なんだ」

　少しだけ余裕が出て、おれはようやく順序立てて問いただすことができた。康介が最初っからちゃんと説明してくれていれば、無駄な大騒ぎをせずに済んだのだが。

「ミヤちゃんは、うーん、俺の妹。みたいなもの」

「妹『みたいなもの』って何だ。思い切り怪しいな」

　康介の返事は相変わらず煮え切らない。

「しょうがないじゃん。本当の妹じゃあないし。今ミヤちゃんのご両親は青森なんだけど、学校通うためにミヤちゃんだけこっち出てきてて。

　それでオレのとこに来たんだけど、外は雨だし、オレ家ないし、滅多なところじゃ話もできないし……ここに来たんだ」

「じゃあ、父親は誰だ。そいつと話せばいいだろう」

「それが確信がないんだって。彼氏じゃなくて、一方的に憧れてただけで、でも他に心当たりがなくて。いまは帰国して兵役についてるって」

「帰国に兵役って、日本人じゃないのか」

「うん」

　おれはこめかみに指を当てた。今度は別方向に話がでかくなってきた。

　わずかな隙をついて、康介が一気に結論付ける。

「だからちょっと場所貸して。崇哉は普通にしてていいから」

　普通にしててって、なあ。一応は何部屋かに区切られているとはいえ、一隅で重たい人生相談室、一隅で呑気に絵など描けるほどに広大ではないのだ、このアトリエは。

　康介の言うことを信じるならばおれが帰ったほうがいいのだろうが、今しがた迎えの車を断る電話を入れてしまったところだ。

　第一、康介の言うことも、どこまで鵜呑みにしていいのかどうか。穴だらけの説明の中で、水から上がったドザエモンみたいなあの子を見てしまった、という事実だけがおれに重くのしかかる。この状況で、果たしておれは帰っちゃてもいいものか。

ｎｅｘｔ．