実際になれるとかなれないとか、そんな次元じゃなくて、もっと純粋に空を飛ぶ鳥に憧れていた。空の青にぽつんと浮かび、広げた翼に悠々と風を受け、影だけをはるか地上に落す。自由で、孤独で、誰の手も届かなくて、ああいうものにぼくはなりたかった。

　大人になってから、ぼくは鳥の仲間入りをした。ハンググライダーという翼を手に入れたのだ。

　フルフェイスのヘルメットをかぶり、オレンジ色のゴーグル、パイプと布製の機体にぶらさげたハーネスにもぐりこむと、元の「生田寿和」と名付けられた生き物は跡形もなくなる。鳥になった、というにはあまりに不恰好すぎるが、ぼくは何も考えずに空に浮かぶ、それだけの存在になるのだ。

　上昇気流の中を昇って行くとき、向かい風の中を真っ直ぐに進むとき、ぼくの頭の中には人間らしい思考はひとかけらもない。ただ鼻の頭に風の冷たさを感じ、耳を塞ぐ風音だけを聞いている。

　最初の頃に感じていた、気持ちいいとか怖いとかそういう感触さえもとうに手放して、ただ空を進むためだけにぼくの体が風をさぐる。

　あの瞬間こそが、真実のぼくなのかもしれない。と、この頃思っている。

◆

　ぼくはその日、会社をサボった。

　朝はむしろいつもより早く起きたのだが、家を出る直前にコンタクトレンズを水を張った洗面台に取り落した。濡れると透明ですっかり見えなくなるなるレンズを、手探りで探して、十分もロスをした。家を出て、誠意の続く限り走ってみたが、電車の乗り継ぎが悪いので、どうしても数分の遅刻をすることになる。

　数分とはいえ、課長より遅く席に座るのはどう考えても気まずい。朝のミーティングが始まっているところへ息を切らして飛び込むのも雰囲気が辛かろう。何より、遅刻届を書くのが面倒くさい。遅刻の理由欄をでっち上げるのが面倒くさい。さらにそれを持って課長に詫びに行くのがどうしてもイヤだ。

　何と言っても、昨夜は課長と係長に罵詈雑言を吐き捨てて退社してきたのだ。あの険悪な雰囲気の翌朝に、ごまかし笑いで遅刻届を出さなきゃいけないなんて我慢がならない。休んだら休んだでまた何か言われるだろうが、顔を突き合せずに済むだけよっぽどいい。

　結論。仮病でサボる。

　道端に立ち止まり、携帯電話から三十八度七分のいかにも仮病らしい体温を告げる。電話口に出た新入社員の女の子は疑いもせず、上司への伝言を引き受けてくれた。

　電話を切り、ぼくは駅へ向かう道を反対方向に引き返した。

　急ぎ足のＯＬや、チャリをとばすサラリーマン、大声で笑いあっている学生たちの制服姿が、こちらへ向かってきては行き過ぎる。駅へと向かった一定の流れに乗っていないのは、のろのろ歩きのぼくと、毎朝の散歩らしい老夫婦、それにこれからのぼりを立てようとしているアイスキャンデー売りくらいだ。

　いつもと同じ朝の道を反対側から見ただけだが、何だか不思議な光景に見える。

　ぼくは道の端へ寄り、石造りのベンチに腰を下ろした。急に、歩いているのが馬鹿馬鹿しくなったのだ。天気もいいし、どうせ今日はもう予定なんか何にもない。

　目の前には海が見えている。今でこそ通勤・通学でごった返しているが、もうあと小一時間もすれば、近所のお母さん達が乳幼児を日光浴させに来るような、海沿いの遊歩道なのだ。

　青く澄んだ空に、羽根を広げてぽっかりと浮かんでいるかもめが目に入る。羽ばたかなくても浮かんでいられるだけのいい風が、きっと上空に吹いているのだろう。強くて、真っ直ぐで、潮のにおいのする。

　ああ、飛びたいなあ。

　突然しみじみと思う。このところ仕事が忙しくて、随分長いこと飛んでいない。

　かもめと違って、人間が空を飛ぶにはハンググライダーという翼が必要で、しかもどこでも気軽に飛べるわけではなく、フライトエリアとして認められた場所でないと飛べない。ぼくの翼は丹沢でスクールをやっている従兄弟に預けてあって、今現在のぼく自身には翼なんか生えちゃいないのだ。

　大好きなフライトもご無沙汰になるほどに、この頃忙しいのは、上司が変わったせいだ。

　以前のチーフなら、きちんとよそとの調整をつけ、個人個人のスケジュールを把握し、仕事の振り分けをしてくれた。要は管理能力の高い、自分自身も仕事の出来る人の下にいて、恵まれていたというわけだ。だが優秀な人はどんどん抜擢されるもので、このたびめでたく本社栄転となり、後釜に来たのが今のチーフ。

　今のチーフときたら、管理能力も個人的能力もボロボロで、まあ仕事がわからないのと管理ができないのはセットなのだろうが、部下にフォローや尻拭いが回ってくる有様。以前のチーフなら自分でやっていた仕事が部下に回ってきたり、何よりも指示ミスによるやり直しの二度手間が一気に増えた。それで深夜残業や、下手をすると休日出勤になったりする。

　最初の半月で懲りて、事前に不審な点はこちらから指摘するようになったが、それでも仕事のわからない奴にはどうしても伝わらないらしい。いろいろ行き違いが重なると、チーフを飛び越して課長とも喧嘩になる。昨日も課長に罵詈雑言を吐き捨ててきた。別に望んじゃいなかったが、出世はもう当分無理だろう。

　もう、いまさら。馬鹿にぐだぐだ言ってもはじまらない。そんな無駄手間をかけるくらいなら、汚名引っかぶってでも黙ってやることをやっていれば、いずれは何が正しかったのか明らかになる。

　この頃の開き直ったぼくの強がりだ。いったいいつ報われるかは、皆目見当もつかないが。

　ただ、肉体的疲労はそれなりとしても、自覚ある能率の低下はとにかく精神的にストレスになった。わかっていて、チーフの要領につきあってやらねばならないのだから。

　それでつい、休日に丹沢まで飛びに行く気力を食われがちなのが実態だ。

　かといって家で一日寝ていられるわけでもなく、残業や休日出勤のためにめっきり会う機会が減った、彼女とのデートに費やされることになる。彼女のことは嫌いじゃないが、天気のいい日に二人で外を歩いていると、こんな暇があるなら飛びたいと思ってしまうのも事実。

　かと言って、彼女をハングに誘ったりしたことはことない。スカイ・スポーツは高所恐怖症の彼女には到底無理だろうし、それに空の上では一人だ。タンデムという手もあるが、ぼくにそこまでの腕前はないし、空の上まで他人が一緒なんて考えるだけでぞっとする。ぼくは日常の「生田寿和」とはまったく別の生き物になりたくて空を飛んでいるのだろう。

　もしかしたらぼくはすごく冷たいのかもしれない。

　それでもこんな日には、無性に空を飛びたいと思う。

◆

　ふと、何かの影が頭上を通り過ぎた。

　見上げた視界をかすめたのは長くて赤い布。一瞬、丹沢に置いてきたぼくのハンググライダーかと思った。

　振り返ると、背後にぱさりと着地したのは、ただのアイスキャンデー屋ののぼり。竹ひごに縫い目を通しただけの軽量なのぼりが、うっかり風で飛んだのだろう。

「すみませーん、ぶつかりませんでした？」

　向うからアイスキャンデー売りが勢いよく駆けてくる。

「大丈夫でした？今日は何か風が強くって。すみませんね、びっくりしたでしょ」

　ぼくの無事を確認するや、にこにこと人懐こい笑みを浮かべる。自転車荷台のアイスキャンデー売りなんて、職をリタイヤした年代のおじさんがやってるかと思ったが、存外に若い。まだ少年のような年頃に見えた。

　敏捷な仕草でぼくの後ろののぼりを拾い、パタパタとほこりをはたく。竹ひごを指でたどり、折れたりしていないのを確かめると、よかった、ゼンジイに叱られないで済む、と呟いた。

　それから唐突にぼくを振り返り、にっこり笑った。

「そうだ。お詫びに一本、おごりましょうか。昔ながらのアイスキャンデー、味は保証しますよ」

　言うなり、ぼくの返事を待たずにのぼりを持って駆け出し、あちこち錆びの出た旧式の自転車を引いて帰ってきた。車輪がギイギイ鳴っている。

「何味にします？ミルクとあずきとメロンとチョコ。おすすめはやっぱプレーンなミルク味かな」

　アイスキャンデー売りが自転車の二台のクーラーボックスを開けると、地味な色合いのアイスキャンデーがぎっしりと並んでいた。子供の頃によく食べた、何の変哲もないアイスキャンデーだ。もう何年も食べていないが、味は今でも覚えている。

「いや、ぼくは。別に怪我もなかったんだし。それに、大事な売り物だろう？」

　丁重に断ると、アイスキャンデー売りはぺろりと舌を出した。

「いいんですよ。どうせ平日のこんな朝早く、まだ夏休みでもないのにお客が来るわけがない。オレは臨時のアイスキャンデー屋なんで、商売根性ないんです」

　言って、ミルク味を一本強引にぼくに押し付けた。

　さらにもう自分もミルク味の白いキャンデーを手にし、ぼくの隣りに腰掛けて早速ビニールを破る。そのまま大口を開けてパクリ。

　このアイスキャンデー売り、商売根性がないというのはどうやら本当らしい。

「何やってんの、溶けちゃうよ。早く食べて食べて」

　勢いに押され、ぼくは封を開けた。会社をサボって何をやっているんだか。

「おにいさんは営業まわり？こんなところで平日の朝からぼっとしてる人なんて珍しいよね」

　アイスにかぶりつきながら、アイスキャンデー売りはなかなか痛いところを突いてくる。

「ぼくは平日の朝にアイス売ってるとも思わなかったけど。売れるのかい？」

　ぼくは質問には答えず、やり返した。実際、夏休みでもないのにこんな朝早くからアイスキャンデーを買う人がいるものだろうか。

「売れないですよー、全然」

　アイスキャンデー売りは笑いながらあっさり否定した。

「オレはね、臨時のアイス屋なんです。

　本当は毎日売れるときも売れないときも、ゼンジイが朝から夕方までここで立ってるんだけど、一昨日腰痛めちゃって、入院してるんですよ。

　でもいつもいるゼンジイがいないと心配する人もいるから、オレがここで代わりに立ってるんですよ。いつものおじいちゃんはどうしたのって訊かれたら、ゼンジイは頑張って腰治したらすぐ帰って来るから、また来てねって」

「へえ、それは大変だね」

　ぼくは無難な相槌を打ったが、内心ちょっと驚いていた。

　売れるときも売れないときも立ち続けるアイスキャンデー売りの老人というのは何かすごい響きだったし、こんな一見ぽやっとした男の子が、おじいちゃんの生き方を理解して応援しているのも驚きだった。

「でも朝は本当に売れないから。サボりです、サボり。天気はいいし、風は気持ちいいし」

　ぺろりと平らげたアイスの棒をきれいに舐めながら、臨時のアイスキャンデー売りはケラケラ笑った。ぼくもついつられて笑い、

「気持ちわかるよ。ぼくもサボりだ」

　ぽろりと白状してしまった。

ｎｅｘｔ．