ク

ラ

チ

ル

　あたしの通学路にはずうっと桜の木が植わっている。だからこの季節になると、桜の花がまるでトンネルのように道を覆う。それでなくても単調な一本道なのに、桜のトンネルの中を歩いていると、あたしは窒息しそうになる。

　このぼんやりかすむ白い天井は、いったいどこまで続けば気がすむのだろう。

　足元にときどき、鳥に噛み切られた花が落ちている。拾い上げて見れば、ひとつひとつはとくにきれいでもない、ちっぽけな花なのだ。それがたくさんで寄ってたかって咲いているから、派手に見えるだけ。みんなで同じことをすればいいっていう、幼稚園児のお遊戯みたいなところがキライ。

　だいたい、枝の先に葉っぱがなくて、花だけしかないって状態はどう考えてもおかしい。植物のクセに、光合成をしていないことになる。そこまでして、花を咲かせるわざとらしさがキライ。そうでもしないと花を咲かせられない不器用さがダサくてキライ。

　いっせいに咲かせた花を次々惜しげもなく散らせてしまう無神経さもキライ。花が終わりかけて、枯れたみたいに赤くなるのもキライ。

　そんなにして花を咲かせても、この通りに植わっている種類が結ぶ実は、食べられもしないし、アスファルトの上で芽を出すわけでもない。花が終われば、毛虫がいっぱいつくだけ。５月にはこの道はつぶれた毛虫で真っ白になる。まるでバカみたい。

　こんな木、好きになれる理由がない。キライキライ、大キライ。何でみんなこんな花が好きなの。

　なのに、よりにもよって、あたしの名前も「さくら」という。亡くなったおじいちゃんの好きな花だったから。

　春が来ると、あたしはあたしの安売りをされているみたいな桜の花びらを踏みにじりながら、この道を歩く。一年中でいちばんイヤな季節。

　でも今年は、少しだけ違った。

　あのイヤな花が頭上を覆い尽くしてしまう前に、あの人が来てくれた。

　その夕暮れ、あの人はまだ一分咲きの桜を見上げて、春ですねえー、と大きな声で言った。道を歩いていた人は、みんなびっくりして振り返った。でも振り返っただけで、また何事もなかったように歩いていく。

　毎年桜の咲く頃になると、浮かれた人は増えるのだし、いちいち相手なんかしていられない。

　あの人はそんなせかせかした周囲を気にもとめないで、その桜の枝の下に悠々と陣取った。持っていた帆布カバンを下ろし、しゃがんで、中をがさごそあさる。

　それから立ち上がって、にこにこと周りを見回した。胸元に添えた手にはたたんだ白い布が握られている。

「さあて、春の陽気に誘われて、近辺そぞろ歩きの皆さま、お時間があればしばしお付き合い。マジシャン・ハルミのレーッツ、ショウ、ターイム！」

　瞬間、片目をつむったのがあたしには見えた。

　中学生のあたしの耳にもあまり発音のよくない誘い文句で、あの人は手にしていた布をぱっと頭上に広げる。

　中から飛び出したのは、ただの白い紙ふぶき。なのに、ものすごく高く広く上がって、とてもゆっくりと舞ったので、まだ一分咲きの桜から花ふぶきが散ったように見えた。

「枯れ木にー花を、咲かせましょう！」

　変な節をつけて歌いながら、頭上の何度も布をはためかせる。その度に新しい紙ふぶきが重力がないみたいにフワフワと舞い上がり、一分咲きの枝を白く包んだ。

　今度こそ、いろんな人がびっくりして振り返る。あたしも、すっかり立ち竦んだ。

　こういうときに、変な人じゃなくて大道芸の人だ、とすぐに気づくのはこの街のちょっと変わった風習。休みの日には街暮らしの人のちょっとした遊び場になるので、道端で何かする人はとても多く、みんな慣れっこなのだ。

　すぐにぐるりと、面白がって数人の見物人が取り囲む。

　あの人はにこにこに見物人の顔を順に眺めていき、輪にはずれていたあたしにも気がついた。目が合った瞬間、にこっと笑いかけられた。

　もう暗くなりかけた夕暮れの中で大きな目がきらっと光り、そのまま光が細められて、口元がきゅっと吊上がる。何でそんなに無防備に笑うの？不思議なくらい、小さい輪郭の中で筋肉が動くのが遠目にもわかって、あたしは持っていたカバンをぎゅっと握った。

「さあて、それではお集まりの皆様にマジシャン・ハルミからひとときの夢を。何からやりましょうかねえ。

　ちなみに今お目におかけしましたのは『枯れ木に花を咲かせまショウ』……この枝は全然枯れ木じゃないから、かなり簡単でしたけどね。

　では、お次は『ここ掘れワンワン』でも……本当は花咲かせるのと順番、逆ですけどね。これ、このあたりの何の変哲もない足元の地面ですが……」

　その人は、そこでそうしてマジック・ショーらしきものを始めた。

　足元の土から泉のように紙ふぶきを噴き出させてみたり、その紙ふぶきを集めて大きな花にしてみたり、いつも見慣れた大道芸とそんなに変わるわけでもない。だんだん増えてくる見物人も、いつもと似たような反応で笑ったり手を叩いたりしている。

　でも何だかその人の、たとえば躊躇いもなく見物人をまっすぐに射すくめる眼差しや、すいすい器用に動く指先、カン高さが変に耳に残る独特の節回しの声は、他の誰とも違うものに見えた。まるで、ハルミという名の、別の種類の生き物のように。

　あたしは目を離せずに、結局ずっとそこにいた。

　どれくらい経ったかわからない。気がついたら人だかりはまばらに壊れている。

　あの人は出していた小道具を手早く取りまとめ、お金の投げ込まれた小箱を拾い、やたらと愛想笑いを振り撒きながら、壊れた輪の中に紛れようとしていじっと見つめ続けているあたしに気がつくと、あの人はかすかな笑みを残し、溶けるように雑踏に消えた。

　その人の名乗ったハルミ、というフワフワした響きだけが、あたしの耳にいつまでも残った。

◆

　翌日からほとんど加速的に、この街の桜は開花した。

　あの人は毎日同じ夕暮れ、同じ桜の下にやってきて、毎日同じようだけどちょっとずつ違うマジックを披露した。たぶんテーマは春。あの人の振り撒く紙ふぶきの上で、本物の桜がどんどん花開いていく。

　あたしは毎日同じように、カバンを握り締めたままそこに立ち尽くした。

　他の見物人みたいにお金を入れるわけでもない。中学校に行くのにお金なんて持っていないし、それ以前に見物人の輪の中にも入らない。

　ちょっと離れたところで、何となくあの人を見つめている。マジックよりも、あの人を。それだけで時は過ぎた。まるで時間の流れがあの人の周りだけ変わってしまったみたいに。

　あの人は、何もかもが特別なのだ。声も表情も仕草も、あの人に触れていく空気や時の流れさえも。だからあたしはここにいる。あの人なら、あたしを特別にしてくれる気がして。

　小学生の頃、あたしは自分が特別だと思っていた。勉強も出来たし、運動はそう得意じゃないけれど、スピーチが得意で、ずっとクラス委員なんかをやっていた。大人の人もクラスメイトも、あたしには一目置いていた。

　でも中学に入って、そんなの特別じゃないことに気がついた。

　勉強だってもう一番にはなれなくなったし、たしかに特別な人に出会ってしまったから。特別な女の子、神崎芽衣ちゃん。

　芽衣ちゃんは一年のとき同じクラスで、出席番号順に並んだ席順であたしのひとつ前だった。

　明るくてびっくりするくらい美人で、勉強も出来てスポーツ万能。性格は明るくてさっぱりしていて、とても頼りがいがある。体育の時間に貧血を起こしたあたしを、とっさに抱えて保健室に運んでくれたのも、男の先生じゃなくて芽衣ちゃんだった。

　芽衣ちゃんのことは、男子も女子も先生も、みんなが大好き。彼女の周りは、何かワクワクするような特別な空気が包んでいる。

　だから二年になって新しいクラスになっても、彼女は大人気だった。同じクラスになった誰もが彼女に夢中になり、「芽衣ちゃん」なんて子供っぽい呼び方じゃなくて、「メイ」と呼びすてる子達が新しく彼女を囲んだ。スポーティーな芽衣ちゃんには、そのほうがたしかに似合っていた。

　でもそうなると、別のクラスになってしまったあたしには、何となく近寄りにくくなった。お昼休みにクラスの子と校庭でバレーボールをしている彼女を、窓から眺めるだけ。去年までは一緒にだらだらと給食を食べて、食べ終わっても机をくっつけたままで、ノートに絵を書いて遊んだのに。あれも本当は、特別な芽衣ちゃんにはつまらないことだったのかと思えてくる。

　あたしはずっと自分も特別だから芽衣ちゃんの傍にいられるのだと思っていたけど、気がついたら、特別な芽衣ちゃんを遠くから見ているだけのただの観客になっていた。

　何でだろう。どこで変わってしまったのだろう。

　あたしのなくしてしまった何かを、あの人……ハルミと名乗るあの人なら、探し出してくれる気がして。

　それでもあたしは見つめるしか出来なかった。

　ショウなんか見ているけれど無関心だったし、本当のことをどう話したらいいかわからなかったし、話さなきゃわからないんだとしたら、そんなのはちっとも特別じゃない。あの人ならきっとわかってくれる。

　だからあたしは黙って見つめていた。

ｎｅｘｔ．