わ

の

下

の

法

師

「マンドリンはね、こうやってピックで小刻みにはじいて音を鳴らすんだよ」

　弦を軽くかき鳴らすと、朗らかな響きにどこか遠い郷愁を秘めた、不思議に懐かしい音色を奏でる。マンドリンは私が本土へ来ていちばんに魅せられた、何故だか遠い島を思い出す、どこか矛盾した楽器だった。

　ハルミ君が足りないように丸い目を見開いて凝視するので、そのまま指に任せて一節かき鳴らす。

　何故だか、無性に楽しいと思った。はじき返す弦の響きが、いつもとは違うものに感じられた。

　波のように広がるはずの響きはほとんど国道を走る車の音にかき消されたし、家の中の祖父や祖母に聞こえる心配もあったが、何となくそういった懸念は麻痺していた。国道沿いの生垣の根方のポケットみたいな空間で、ハルミ君の独特なペースに巻き込まれていたからだろう。

　医者を志し、三浪の末に上京したのに、勉強よりもマンドリンに夢中になり、二年続けて国試に落ち、それでもぶらぶらと肩身の狭い現役学生の愛好会に顔を出して下手糞なマンドリンを弾き続けている怠惰な自分への罪悪感は、どこかへ置き忘れたように消えていた。私がマンドリンをやめたと思っている祖父の耳に入れば、怒鳴られるに違いないのだが。

「へえ……テケテケ言うんだね」

　だがハルミ君はどこまでもマイペースで、何とも気の抜ける感想をくれた。マンドリンの音色をテケテケとは、そう聞こえないこともないが、随分極端なデフォルメである。

　私は構わずに、続きを弾いた。構わないくらい、気持ちが高揚していた。

　ハルミ君は膝を抱いたまま、耳を傾けてくれた。つばの下で瞬く大きな目が、私の手の動きを追いかけている。

　ややあって、私の奏でる音色に別の音が絡んだ。ハルミ君の声だった。

　はじめはうなるみたいなハミングで、それから少し口が開き、わかる部分の歌詞を途切れ途切れに口ずさむ。子供みたいに高い声で、ついでに発声や発音もくすぐったくなるような舌足らずだったが、ハルミ君は気持ちよさそうに歌っていた。

　終わりまでたどりつき、私はまた頭から弾き始める。ハルミ君はすっかり自信をつけて、さっきよりも高らかに歌いはじめた。歌詞のわからない部分は、アーアーとかフーフーで誤魔化しているので、奇妙な楽器のようではあったが。

　浜辺に流れ着いた椰子の実にふるさとを思う唱歌。ハルミ君の故郷はどこになのか、遠く懐かしい空を目指すように、歌声は風に乗り悠々流れていく。決してうまくはない歌声に、私は彼のふるさとを見た気がした。

　引き換え、同じメロディを奏でているはずの私には、故郷の空、風、におい、何ひとつ訪れては来ない。灰色に切り取られた時空の、じっとり汗ばむ体に閉じ込められ、私はひとり隔絶されている。故郷の島を離れ、医者にもなれず、行き場のない、私の音色。

　指先がゆっくりとリズムを落とし、やがて停止する。

　ハルミ君は聞こえぬ余韻に数秒身を委ね、それから笑った。

「いいなあー、こういうの。

　オジさん、オレと一緒に流しをやろうよ。あっちこっちとこぷらぷら回ってさ、道路に座り込んで、ビワホウシするの。楽しいよー、きっと」

　およそ非現実的な提案をする笑顔は無邪気に熱っぽくて、たぶん嘘がない。目を細くして、私は微笑した。

「あ、本気にしてないね。オレ、相当マジなのに。

　そりゃ行き当たりばったりの思いつきだけど。何とかなるもんだよ、家も仕事もなくてもさ、毎日が楽しければさあ。オレって実際そういうかんじだし。

　オジさん、おじさんだからって当たり前のことだけ考えちゃうのは損だよ、結局さ」

　ハルミ君は唇をとがらせて、歌っているときからは想像もできない明快な滑舌で一気にまくし立てた。私は笑ったままで、肩をすくめた。

「うーん……私のマンドリンはそんなにうまくないし、その、相棒がハルミ君の歌だと正直ちょっと不安だね」

　誤解のないように言っておくと、ハルミ君の歌は下手とか音痴、というわけではない。ハルミ君の声は少し細いけれども、高音まできれいに伸びる。リズム感も悪くないし、旋律も外さない。でも何故だか歌うときはしゃべるときほど舌が回らないのか舌足らずに聞こえ、おまけに妙に芝居がかったコブシが回るのだ。どちらかというと話術の延長で、まさに曲に載せて語る琵琶法師に近かった。彼の本職はもしかしたら、そういう種類なのではないだろうか。

　すげない私の答えに、ハルミ君は唇ばかりでなく、頬までも膨らませた。

「ちぇっ、オレの歌じゃダメかあ。オジさん意外とはっきり言うね……じゃあさ、こういうのはどう？何か弾いて。……ちゃららららーん、っての弾ける？」

　ほんの少しメロディーを口ずさむのにも、彼独特のコブシがかかる。私はこっそりと笑いを噛み殺しながら、請われる曲のあたりをつけてかき鳴らす。

「何だよゆっくりだな、オジさん。もう少し速くならないの？」

「これで精一杯。勘弁してくれよ」

　どうしてもテンポの上がらないマンドリンのＢＧＭへの不満をへの字口に残したままで、ハルミ君はすっくと立ち上がった。

　追って見上げると、逆光に刹那表情が隠れる。瞬きの後には、彼は満面の笑顔に切り替わっていた。不敵にも見える、自信に満ちた表情。

「ではとくとご覧あれ、お集まりの皆々さま！あいや、今日は一名様っきりの特別披露、どうぞこの技お見逃しなく！

　本日少しばかりお目汚しに預かりますは、風まかせ流れさすらう旅がらす、ハルミ法師の旅支度。お気に召せばいざともに参られませ……それ、やっ、やっ！」

　節回しにあわせてハルミ君は左手と右手にそれぞれ二個ずつ、びわの実を出して見せた。

　何もないところにびわを出す、そのへんが見るポイントなのだと思うが、さっき食べた十数個の他にまだびわの実を隠し持っていたという事実のほうが私には可笑しかった。たった一人の観客のズレた反応を目の端に捉えつつ、ハルミ君がにやりと笑ってさらに続ける。

「路傍の木の実は旅人たちへのお情けお恵み日々の糧。天より光、地より水を受けて、天地の狭間に血肉となりて、我と我が身を生かしたもう」

　小難しい文句を並べながら、ハルミ君はそれらをひょいひょいとパーカーのフードに投げ込む。詰まるところ、彼が道々食べる食料であるらしい。

「お次は……こちら、ご覧あれ」

　音を立てて重ね合わせた両手のひらを、ゆるゆる広げた間に現れたのは、真っ白な紙。

「旅人の必携アイテム、白い地図。真っ白だって、ご懸念めさるな。我が道しるべを占うためにあらず、我が足跡を記すために携えるのであれば」

　琵琶法師といい、ハルミ君のボキャブラリーはいったいどのへんの時代に属しているのであろう。厳密にはちぐはぐであろう半端な文語体に、マンドリンを支える私の肩が小刻みに揺れ始める。

「そしてこれは不思議の針。我が進むと戻ると関わらず、時を貫く頑なな意志、ひとつ方のみ指し示す」

　くるくると開ききった白紙の端から転げ落ちたのは、何の変哲もないコンパス。少しは、旅支度らしいアイテムだが、手当たり次第の感は否めない。

　ハルミ君は丸まった地図とコンパスを無造作に投げ出し、今度はパーカーの前ポケットに両手を突っ込んだ。ずるずると取り出したのは何やら墨文字を散りばめた木製の札。びわの他にそんなものまで入っていたのかと目を疑う大きさだ。

「さてこちらに取りい出しましたるは、通行手形。出女に入り鉄砲まかりならん、関所越えにはこいつがなけりゃ。この者、流しの芸人につき宿なしツテなし無一文、いかなる関所も通して障りなし」

　もう滅茶苦茶である。私は笑いが止まらなくなり、弦をはじき間違えた。崩れた不協和音に、ハルミ君は真顔でイヨーと合いの手を挟む。

「さあて盛り上がってまいりました！いよいよ登場真打でございます」

　手形を放り投げたハルミ君は、右手を高々と掲げた。指の隙間から、ぶらりと何かが垂れ下がる。

　マンドリンを弾く、私の手が止まった。

「これぞ真打……アレ？」

　リズミカルな口上が、ひどく自信なさそうに途切れた。失敗、したらしい。手の中に取り出したものに、ハルミ君は困惑の眼差しを泳がせている。

「何でこんなのが出てくるんだ……おかしいなあ？」

　意図とは違うものを出してしまったらしかった。それどころか、どうしてそれを自分が持っていたのか、それすらもわからない様子だ。

　ハルミ君がためつすがめつしているものを、私は厳粛な気持ちで眺めた。

「それ……聴診器、だね」

　声をかけた私と、ハルミ君の目が合った。ハルミ君の目から得意げな輝きは消えていて、ただガラスみたいに透き通り、あたりの景色がくっきりと映っていた。灰色のアスファルト、国道沿いの生垣、降りかかる光と影、マンドリンを抱いて座りこんでいる私。

「……たぶんね、それは私の旅に必要だから、出てきたんだよ」

　私はマンドリンをケースに戻し、ゆっくりと立ち上がった。

「私の親父はね、離島で医者をしているんだ。

　もとは横浜の小児科医だったが、まだ若い頃、ちょっとした縁で島に行った。他に医者のいない島でね、都会育ちには不便な田舎だろうが、向こうに骨を埋めるつもりらしい。肉親の情を差し引いても、立派な人間だと思う。

　それが去年、腰を痛めた。大した事はないんだが、結構な年だしね、原付での往診なんか辛いようで、早く私に帰って来て欲しいと手紙が来る。お袋も看護婦だが、そろそろ体力的にきついらしい。無理もないな。

　それなのに、私と来たら、マンドリンを弾いているのが勉強よりも楽しくて。無心に弦を爪弾いているときがいちばん楽しくて。ときどき島の両親のことを忘れるんだよ」

　私はゆっくりとハルミ君に近づき、彼が手にしている聴診器を受け取った。

　プラスチック製のそれは玩具に過ぎなかったが、ごくごく幼少時の記憶を喚起させた。幼い頃、私は純粋に父を尊敬し、医者になるんだと子供特有の単純さで決めていた。あの頃の私は、何も知らなくて、明日さえも遠い絵空事で、ちょうどハルミ君のような目をしていたんだと思う。

「私の当面の旅先はこれで決まったよ。いや、最初っから決まっていたんだけどね。私は何とか医者になって、島へ帰らなきゃ。

　だから、君とは行けないね、ハルミ君」

　私は聴診器を首にかけ、ハルミ君の額の真ん中に聴診器を当てた。玩具の聴診器は何の音も伝えなかったが、背伸びをして押し返してくるハルミ君と目が合った。

「ちぇーっ、ホント失敗したな。つまんないの」

　ぺろりと舌を出す。ハルミ君はどうやら本気で私と流しの旅に出るつもりだったらしい。聴診器をどけて、ふてくされるハルミ君の頭に、宥めるように手を載せる。父が、島の子供たちによくしていた仕草だ。

　ハルミ君は、くすぐったそうに笑い、頭を振って払った。照れるように跳ねて、マンドリンケースに飛びつく。

「でもさ、こいつはオジさんと一緒に連れて行くんでしょ」

「え？」

「旅の道連れは必要だよ、オジさん。ビワホウシなんて、いまどきちょっと流行らないけどさ」

　それは琵琶ではないのだが。聴診器だけでなく、マンドリンも私の旅支度らしい。私には少し意外な発想だった。厳格な祖父が聞いたら、そんなものは勉学の邪魔だ、捨ててしまえと言うだろうに。

「だからさ、旅のどっかでまた会ったときに、セッションしようよ。それまでにはオジさんがうっとりするような歌声、習得しておくからさ」

　ケースに詰めたままのマンドリンを、差し出してくる。

「うん。そうだね。そうしよう」

　私がマンドリンを受け取ると、ハルミ君はにいっと歯を見せて笑った。そのまま後ろ向きに跳ねて遠ざかる。

「そんじゃ、オレ行くわ。びわ、いつもごちそうさまって、おじいさんに伝えておいて、オジさん！」

　何とハルミ君は、私の祖父が誰であるかわかっていたらしい。

　私の驚いた顔を確認すると、ハルミ君はくるりと踵を返した。そして「目指せ、日本一の歌うたい〜」のいささか心もとない親指を突き立てて、彼の道を歩いて行く。ハルミ君の頭上には初夏の青空が輝いている。あの空は彼のふるさとや、きっと私の故郷の島にも続いているのだ。

　私のもとに残されたのは、首にかけたままの聴診器と、いつか彼と歌うはずのマンドリン。

　その代償、祖父のびわの実、確認する限り十数個なり。

了