岸

よ

り

　これだけ無視しているんだから、黙って立ち去ってくれればいいものを、バカ丸出しでこっちからわかるほど大口を開けて、僕を呼んでいる。

　本当にいったんここを離れようかと思ったとき、風船売りの握り締めていた、風船が一つ、黒い空へ逃れた。目を射る橙色が、真っ黒な空へどんどん小さくなってのぼっていく。

　バカな奴だ、売り物をダメにして。だいたい、ガスを詰めた風船を夜まで売り残すほうがどうかしている。これからまた深夜営業の観覧車へでも行って、売ろうというのだろうか。

　視線を戻すと、風船売りは残りの風船をオーバーオールの両の肩紐にまとめて結びつけていた。だらしなくずり落ちていた肩紐が、風船に引っ張られて心持ち浮かび上がる。

　そして、自由になった両手で、大きな胸のポケットから、何かを取り出した。

　およそ、そのポケットには入らないだろうというような大きさの、これは普通の空気を詰めたらしい細長い風船だ。

　あのポケットは実は、底に穴があいて、だぶだぶしたウエストを通ってズボンに抜けているんじゃないだろうか。そうでもなければ、いくらやわらかい風船でもあんなところには入らないし、遠めにもガリガリ痩せた体型に、風船売り二人分は入ろうかという超特大サイズのオーバーオールだった。あんなので歩いて、よく落ちないものだ。

　風船売りは、僕の視線を捕らえたと思うや満面に得意げな笑みを浮かべた。

　怒ってその場を逃げ出さなかったのは、ドブ川の向こうの夕闇にも関わらず、街灯に浮かび上がったそれが、どこか麗子を思わせる、極彩色の笑い方だったから。

　そいつは僕の注意をそらさないよう注意深く、身体をダンスみたいに動かしながら、風船を器用にクルクルと捻り、犬の形に作り上げた。

　何だよ、僕に風船を買わそうって言うのか。こんな夜の闇そのものみたいなドブ川の向こうとこっちで。後ろ手にナイフを持ち、もうとっくに彼女ではない女を待ち伏せている、この僕に？

　しかし風船売りは僕の心の声が聞こえたかのようにフルフルと大袈裟に首を振って見せ、慌てたように風船の犬を手放した。

　キャンッ！

　聞こえたのは、甲高い子犬の声である。

　風船の犬が宙を舞い、風船売りの肩から生えた風船の束の間をすりぬけ、細長い身体をくねらせて、しきりに風船売りにまとわりついているのである。犬が苦手らしい風船売りは、大袈裟に首や手を振って逃げ回り、キャンっと風船の犬が吠えるたびに、飛びあがって怯える素振りを見せた。

　川向こうの、犬の声以外には大口をパクパクさせている風船売りの悲鳴も聞こえてこないそれは、さながら無声映画のような不思議な光景だった。

　街灯の照らす限られた円の中を逃げまどいながら、風船売りはまた胸のポケットに手をやった。

　再び取り出したピンクの風船を、さっきよりも素早く捻ってもう一匹の犬を作る。赤いリボンをつけると、たちまち女の子のプードルになった。

　すると、さっきまで執拗に風船売りを追いかけていたほうの犬が、急に大人しくなってでれんと女の子に寄り添う。風船売りが、ふうっとため息をついて額の汗を拭いた。

　ぱちぱちと、拍手が聞こえた。

　いつのまにか、買い物帰りらしい親子連れが僕のすぐ近くにいて、風船売りのマイムに見とれ、小さな兄弟がさかんに拍手を送っているのだ。母親も、ついにこにこと見とれている。その向こうからゆっくりとやってきたオヤジも自転車も、油の切れたブレーキを軋ませて停車する。

　僕は少なからずうろたえたが、誰も僕の手の中のナイフになんか気づいていない。

　その間にも、風船売りは次の風船を次々取り出しては捻っている。

　ゴオオ！

　次に聞こえたのは、巨大な炎が空気を巻きこむ音だった。

　いくつもの風船をつなげて作ったドラゴンが、風船売りに向かって火を吹いていた。子供が、あれドラクエで見たよ！と叫ぶ。

　風船売りはよくよく追いかけられるタチらしい。ドラゴンと立ち回るには狭い、街灯にくりぬかれた円い舞台を、大口をパクパクさせ、両手両足をばたつかせながら逃げ回った。肩口からの糸に引っ張られ、上空の風船が滑稽にはずむ。

　音の聞こえぬマイムに、こちら岸から小さな兄弟が必死の声援を送っている。どうも風船売りではなく、ドラゴンを応援しているように聞こえたが。

　やがて追い詰められた風船売りは、意を決したように身構えた。大きく息を吸いこみ、何と歌い出したのである。無声であるから、歌声はこちらへは聞こえてこない。だがドラゴンは心地よさそうに聞こえぬメロディに耳を傾け、節回しに巨体をゆすり、そのうち風船売りに懐いてしまった。

　風船売りは満足げに微笑し、頬にすりついてくるドラゴンの頭を撫でてやり、ついでとばかりに胸のポケットに押し込んだ。ドラゴンの巨体は、あろうことかするりとポケットの中に滑り込んだ。

　子供たちがまた喝采を送る。いつのまにか僕の周りには、風船売りの観客がずらりと並んでいた。人通りのないこのドブ側沿いのこちら側に、ほんの数分の間にどこからわいたのか十数人の人だかりができていた。僕にはこちらのほうが、風船のドラゴンよりもむしろ不思議に思えた。

　対岸の風船売りが驚いた仕草で、もしくは得意げに、観客に向かって両腕を広げる。

　街灯の下でなかよく寄り添っていた風船の犬が、一匹ずつその片手に飛び乗った。風船売りはためらわず、二匹を同時に胸のポケットにしまいこんだ。

　また喝采。

　ナイフを握り締めたままの僕の右手は、背中のところで痺れたままだった。

　風船売りは、今度は真っ白の細長い風船を取り出した。こちら側の観客が見つめる中、こちらまでは聞こえてこない鼻歌を歌いながら、くるくると捻る。

　出来あがったのは、天使の輪と羽根。

　それをすぽりと、自分の頭に載せてしまった。背中にはおよそ飛べそうにない羽根。澄まし顔で目をつむり、胸の前に両手を組み、何やら天に祈り出す。こちら側で、クスクス笑いが洩れる。

　そして目を開いた彼は、とても天使とは呼べないような、天をも欺くかのような表情で笑った。

　見つめているのは、まっすぐ紛れもなく、僕、だった。

　ぎくりとする間もなく、彼はドブ川の柵に足をかけ、ふわりと跳躍した。

　彼はひどくゆっくりと、まるで天使の羽根と肩紐に束ねた風船にでも吊られているかのように、彼岸より此方へ着地した。

　わあっと時を戻して歓声が上がる。

　子供たちが、近くへ寄って見ると随分と若い風船売りにまとわりつき、母親に風船をねだる。それへ愛想よく笑顔を振りまき、無声映画で想像していたよりもはるかに子供っぽい声で答えながら、彼はちらりと僕を見た。

　邪気のなさそうな笑顔に、何もかも、見透かしているんだぞ、というどこか空恐ろしい瞳がキラキラ輝いている。

　本当に今度こそ、逃げ出そうと思った僕の目の隅に、まぶしいオレンジのがふとかすめた。

　麗子だった。

　あの頃よりはよほど大人びた、上品なオレンジ系のルージュを歪めて、僕を見ていた。

　気がつかなかったが、彼女もこの観客と一緒に風船売りのショーを見ていたらしい。学生の頃から変わらない好奇心で、風船を買うためだろう、財布を取り出しながら、風船売りの視線の先の僕に気がついたらしかった。

　懐かしい。

　いまでも強く惹きつけられる。

　懐かしくて、いまでも好きで、でももう遠い人だ。

　僕は三つのことを、同時に思った。

　風船を見ると手にしたくなる、化粧も格好も派手な、陽気な麗子は相変わらずで。黒いコートの背に白く光るナイフを隠し、何も知らないどこへも行けない、僕も相変わらずで。

　たしかに二人は一緒にいて、そして二度と会わないと言ったけれど、数ヶ月の僕の悩みや彼女の忙しさにも関わらず、何も変わらず、いまここにいる。

　僕は何もかも変わることを望んだのに、灰色の景色はいつでも変わってくれなかったし、彼女も僕も何一つ変われなかった。

　それが、僕は辛かったのだ。

　そして何一つ変えられずに、いま僕はこの瞬間を過ぎねばならぬのだ。

　風船売りが、子供たちに風船を配りながら、だんだん僕に近づいてくる。天使の輪と羽をつけた、悪魔みたいに微笑む奴が、僕を真っ直ぐにやたらガラスみたいに透きとおる瞳に映している。

　もしかしたら僕は、ここで終われるのかもしれない。いろんなことに無気力で、飽き飽きして、麗子がいなければなにもできない僕は、ようやく裁きを受けるのかもしれない。

　彼岸より舞い降りた天使が、僕の前に立った。

　さあ。

　彼の声は、驚くほど明るかった。

　僕の姿をその瞳にとらえて離さないまま、手のひらを僕に差し出す。何をしなければならないのか、僕にはすぐにわかった。

　後ろ手に隠していたナイフを、風船売りに渡す。握り締めすぎて痺れた腕には、冷たい汗の他にはもはや何の感覚もなかった。

　本当に僕はあの刃の長いナイフを渡したのかどうか、風船売りは男にしては小さな手のひらに、くるりと包み隠してしまった。

　そして麗子みたいな極彩色の笑みを浮かべ、それを空へと放り投げた。

　あっと目で追う観客の上へ、夜空からキラキラ光りながら落ちてきたのは。

　キャンディーだ！

　子供たちが飛びついた。いまどき、そんなものが売っているのかというような、幼い頃に十円玉一つで買ったような、合成着色料の色鮮やかな、紙を丸めた棒のついたキャンディーだった。

「ああ、お夕飯前だろうから、お母さんがいいって言ったら食べるんだよ、それ」

　中でもひときわ大きな、橙色のキャンディーを素早くキャッチしながら、風船売りが子供たちに笑いかける。不思議なことに、キャンディーは子供たちの手元を目掛けて落ちて、無残に道路に砕けたものは一つもなかった。

「これは、あんたに」

　大きなキャンディーを、風船売りは僕に差し出した。

　即座に断ろうとする僕の口に、素早くビニールを剥いたキャンディーが差しこまれる。

「あんたは最初からショーを見ていてくれたからね。それから、これもサービス」

　肩に結びつけた一本をほぐして、僕の手を取り、強引に糸の端を握らせる。ふわりと、オレンジ色の風船が僕の手を空へと引いた。

「もしいらなかったら、あの派手っぽいお姉さんにでもあげてよ。さっきあんたがあげようとしていたものより、ずっといいと思うよ」

　何もかもを見透かした目で、まるで何も知らないように笑う。

　僕は動けなかった。

　この僕が死ぬほど驚いた瞬間だって、世界は結局何ひとつ変わりやしないのだし、僕も何ひとつ変わらないのだと思う。けれどそのままでも、どこへでも行けるし、何にだってなれるのかもしれないと、思ったのだ。

　風船売りに顎をしゃくられて、麗子が驚いて身を竦ませる。

　でもすぐに彼女は、いかにも化粧品の営業らしい派手な化粧を崩して、熱帯の花みたいな極彩色の笑顔を浮かべた。

Ｆｉｎ．