まるで制服みたいに黒いセーターばかり来ていたが、私にはいつもニコニコ話しかけてくれた。朝は手をつないで一緒に学校に通ったし、母がいない日には、お兄ちゃんが作り置きの煮物を温めたり、インスタントラーメンを作ってくれたりした。

　私に兄弟はいなかったたが、まるで本当のお兄ちゃんみたいに感じることさえあったものだ。

「お兄ちゃんも、春になったらりんごを見に行くんだよね？」

　それでもやっぱり、話をするのはぴいたあだった。

　母が田舎に帰った晩、父の手元から漏れるかすかな灯りに目を凝らして、私は隣のお布団のお兄ちゃんを見上げた。私は枕があると眠れないので、枕にきちんと頭を載せたお兄ちゃんの顔は随分高いところに見える。

「ミヤちゃんは、行くの？」

「そうだよぅ。ミヤコもお母さんもお父さんも、いっしょに行くのに決まってるじゃんかー！」

　ぴいたあが、きゅうくつな布団の間から躍り出る。

　お兄ちゃんがシッと人差し指を口に当てて、父の背中に目配せする。父は以前よりも物静かになって、お兄ちゃんが私を寝かしつけてくれる夜には、長い時間人形作りに没頭するようになっていた。

「そうだね。りんごの木に袋がなっているところは、見たいな」

　お兄ちゃんが、ため息みたいに小さな声で囁く。暗がりに消えてしまいそうな微笑が、どこかハルミチおじさんに似ていた。

「でもオレは行かない。一人で生きるって、もう決めたからね」

　それがどういう決意なのかははかりかねたが、子供心にもひどく淋しい言い方だった。

「何だよ、それ。いじわるじゃんかー！」

　たまらず、ぴいたあがお兄ちゃんの鼻に取りつく。お兄ちゃんはくすくす笑って、ぴいたあをつまみあげた。

「うん、意地悪。せっかくだから、もっと意地悪しちゃうもんね、ほら」

　そのままぴいたあを、自分の布団に引っ張り込む。そして枕からはずしたニコニコ顔を、私のおでこがつくくらいにくっつけた。

「たまにはミヤちゃんもお話してよ。

　たとえばオレが明日どっかへ行っちゃうとしたら、口きいてくれる？」

　いきなり変なことを言うので、私はびっくりしてお兄ちゃんを見つめた。叫び出したい声が喉に詰まって、鼻を抜け、目頭にこみ上げる。

「ごめんごめん、わかった。そんな目で見るなよ。ぴいたあは返すから」

　お兄ちゃんが苦笑いして、ぴいたあを取り出す。

　二人の顔の狭い隙間に着地したぴいたあは、ぴくぴくっとツギハギの耳を震わせた。あれっと思う間もなく、くるりととんぼ返りして私の頬に飛び乗る。

「ずるいよ、ミヤコ！」

　しゃべり出したのは、間違いなくぴいたあである。鼻にかかった、少しつぶれたような明るくひょうきんな声。

「おいらにばっかりしゃべらせてんじゃんかー！」

　短い手足を精一杯よじって、ぴいたあが私に抗議する。

　私はびっくりしてお兄ちゃんを見た。お兄ちゃんは右手でこっち向きに頬杖をついて、左手は布団の中。お兄ちゃんがニコニコ笑っている横で、ぴいたあがなおも一匹で跳ねまわっている。捕まえようと手を伸ばすと、ひらりと軽く身をかわす。

　ぴいたあは、ついに私の声と体を飛び出してしまったのだ。私の声なんか出すことに飽きてしまったのだ。

　私は驚くよりも、困ってしまった。ぴいたあがしゃべってくれなくなったら、私はどうするのだろう？私の声は戻ってくるのだろうか？

「なにビックリしているの？ぴいたあはいつも通りでしょ」

　お兄ちゃんが、お兄ちゃんの声で言う。

　いつのまにか、まるで猫みたいにらんらんと輝く目が、楽しそうに少し細められて私を見おろしていた。私は布団の中でぎゅっと身を縮める。こんなお兄ちゃんは、見たことがない。

「なあなあ、ミヤコ。ミヤコは本当はどんな声なの？」

　ぴいたあが私の緊張にはまったく頓着せず、頬を滑り降りて私を覗きこむ。ぴいたあで見えなくなった、お兄ちゃんの目のほうが何となく怖い。

「ミヤコってば聞こえないふりはいじわるじゃんかー！」

　ぱたぱたと、ぴいたあの耳が私の頬を叩いた。それでも、私はお兄ちゃんから目を離せなかった。目をそらしたら何か怖いことが起きる、そんな気がしていた。

「なあ、ミヤコはおいらのこと、好き？」

　ぴいたあが体全体を私の頬にすりつけて、すねたように訊いてくる。

　お兄ちゃんは変わらずにニコニコ笑っている。まるで人形みたいに、体も表情も動かない。目だけが生きているものを埋め込んだように、きらきら光る。

「ミヤコ、ミヤコってば。……ミヤコ、ミヤちゃん」

　ぴいたあの声が情けなくかすれて、ふっとお兄ちゃんみたいな声になった。

　思わずじっと、お兄ちゃんの瞳を覗きこむ。

　お兄ちゃんは静かに、笑っていた。ハルミチおじさんみたいな苦笑いで、ぴいたあみたいな悪戯笑いで、あの晩の窓ガラスに映っていたみたいな無表情で、いっぺんにいろんなふうに見える表情をしていた。

「ミヤちゃん、オレのこと、好き？」

　ぴいたあが、まるでぴいたあじゃないみたいな声で繰り返す。

　勿論お兄ちゃんは動かないし、笑ったかたちの唇も動いていない。でも私は、お兄ちゃんを見つめたままでこっくり頷いた。

　それからようやく捕まえたぴいたあを顔から引き剥がし、ぎゅっと抱きしめる。

「そう、それじゃあね。好きな人や好きなことは、ずっと好きでいてね。もしもそれで一人になってもね、ミヤちゃん」

　お兄ちゃんが、なだめるように私の髪を撫でる。お兄ちゃんの声は、とても小さくて掠れていた。

「……行っちゃうの？」

　次に出た声は、ぴいたあでもお兄ちゃんでもなかった。随分と久しぶりの都の声。お兄ちゃんの表情が、わずかに動く。

「うん」

「ひとりで？」

　都の声は、ぴいたあよりも幼くて、うまく舌が回っていない。でもお兄ちゃんは、そんなことを気にする様子はない。

「うん。明日じゃないけどね。春になる前にね」

　お兄ちゃんは、ぴいたあを抱きしめた私の頭を、伸ばした片手でくるりと包み込んだ。

「だから憶えててよ。一人になっても、好きな人はずっと好きだって。自分の声で言えるって。約束してよ、ミヤちゃん」

　私はうんと言うかわりに、頷くかわりに、ぴいたあを抱きしめた。

　父はずっと、小さな灯りを頼りに作業を続けている。お兄ちゃんの腕に塞がれた耳の奥に、かすかに物音を聞きながら、私はだんだんと眠くなっていった。

◆

　そんな思い出の地とはまるで無縁の児童館の入り口で。

　私は懐かしい人の姿を見つけたのだ。

　群がった子供たちの真中に、声高にしゃべりながら、まるで地に足がついていないように身軽く歩く、子供みたいに目をきらきらさせた大人。花壇のぐるりを囲んだレンガの上を、どんぐりを糸でつないだ人形が躍っている。ジャラジャラとにぎやかな音を立て、子供たちには見えない糸でどんぐり人形を従えているのは、紛れもなく。

「お兄ちゃん」

　小さくつぶやいたが、聞こえるはずはない。

　私は思わず駆け寄った。一緒に歩いていた仲間がぎょっとして呼び止める。その声に、お兄ちゃんがこっちを向いた。

　じっと顔を覗きこむ。間違いない、お兄ちゃんだ。何年も経つのに、面差しがちっとも変わっていない。

　戸惑うように、私を見ている。無理もない、私は変わったのだ。

　自閉症だった小さな子供は、背も髪も伸びて、田舎の畑に縛られている両親を置き去りに、仲間たちと一緒に全国を回る、大好きな人形劇の劇団員になっていて。ぬいぐるみも持たず、もうお兄ちゃんよりも人形使いがうまくなったと自惚れて、真っ直ぐに、お兄ちゃんを見上げているのだ。

「お兄ちゃん」

　もう一度はっきりと、自分の声で呼ぶと、お兄ちゃんはこっちへ寄ってきた。

「お兄ちゃん、探したんだよ。お母さんのところへ行くなんて、ウソついて……あれ、ウソだったんでしょう。お父さんもお母さんも信じて、うちは三人で引っ越してしまったけど。

　私はずっと思ってたんだ。お兄ちゃん、一人で生きるって言っていたもの。ずっと一人だったんでしょう」

　じっと、不思議そうに私の顔を見つめる。

「それでずっと、お兄ちゃんは一人かもしれない。うちはお兄ちゃんごと鎌倉を捨てて、ひどいことをしたのかもしれないって、ずっとずっと思ってたんだよ。

　私にだけあんなこと言って、あんな辛い約束をさせて、お兄ちゃん、いじわるじゃんかー！」

　最後のほうは、まるで子供みたいな声になった。追いついてきた仲間がびっくりしたみたいだったが、私がこんな風になるのは、彼らはとっくに見慣れている。

　ああ、とそこでお兄ちゃんはにんまり笑った。目をそらしたら、怖いことになるんじゃないかというあの笑みで。

「そう、あれはウソだったよ。おじさんとおばさんが好きで、でもオレの母さんも好きだったから。それがいちばんだと思ったんだ」

　どんぐり人形が、飛びあがってお兄ちゃんの手のひらに載る。

「それにごめんね。大事なことを言い忘れてた。

　約束を憶えていてくれたら、オレは一人だけじゃないって。好きな人を好きなものをずっと好きでいてくれたら、そのために一人になっても、一人じゃないって。

　……久しぶりだね、ミヤちゃん。また会えて、うれしいよ」

　そう言ってお兄ちゃんは、手のひらのどんぐり人形を私に差し出した。そうして、その日のお土産を渡すときの、得意げな、こっそり不安げに、笑って見せたのだった。

Ｆｉｎ．