こ
の
耳
に
響
く
声

　片脚を軸に振り返った、小さな顔の中で、大きな目が音を立てそうに二度瞬く。戸惑いにゆるんだくちびるから洩れたのは、まるで子供じみた高い声。

「あれ、崇哉は？」

　そしてじろじろ無遠慮に、私の姿を上から下まで見やる。触れられるほどの間近に立ち、私の胸の高さにある頭が、ほぼ１８０度に近い角度を往復し、目を合わせて停止した。

　口が開くほど仰向いた、まるで無防備な表情に、私は瞳だけで微笑してやる。

　大概の人間ならそれだけで術中に陥れるその視線を、彼は真っ直ぐに見返して、同じ質問を繰り返した。

「崇哉は？あんた誰？ここ、崇哉のアトリエでしょ」

　彼は、人を訪ねて来たらしい。

　しかしここは、十日ほど前から私の住処で、タカヤという人間の所在は私のあずかり知らぬことだ。

　週間賃貸の家主とは直接会わずに契約したし、前の借り主のことも特段聞いていない。

　いずれにしても、生活のおよそ似合わぬこの建物に、以前に住人があったとも、ましてそれを訪ねるかくの如き年若い客人がいようとも、思いもよらぬことであった。

　街の灯に取り残されたかの如き黒い雑木林を抜けて、テトラポッドの沈む暗い海に臨んだ、レンガ造りの古風な建築。蔓薔薇のからみつくブロンズの門扉をすすんで押し開き、呼び鈴も鳴らさずにこの館に入り込んだ彼に、私は幾ばくかの驚嘆と、微かな好奇心を覚えた。

　すぐさま捕らえて今宵の糧とし、黎明の雑木林に転がすのは容易いが、その前に少しばかり戯れるのも悪くはない。

　私は黙ったままで、私を見上げる少年をゆっくりと見下ろした。

　恐ろしく、細い。小さな頭に連なる首も胸も腰も、この国の人間にしては決して短くはない手足も、すべてがひどく華奢である。サイズの合わない、肩が抜け出そうにゆるい丸首の襟からは、指先で容易く折れそうな鎖骨が覗き、その骨格の頼りなさをいっそう強調している。だがその割に、少年の瞳の宿す光は頑強なまでに強く、日に焼けて色素の薄くなった髪は、白熱灯の光を眩しいほど反射している。

「あんた、誰なの？崇哉の頼んだ外人モデルさん？」

　無言でかぶりを振る私に、言葉が通じないのではないか、という疑問は持たないようだ。小首をかしげて、じっと私の正体を品定めしている。

「……あ、もしかしてヴァンパイアとか？今まさに崇哉の血でも吸い終わったところ？」

　通常、初対面の人間には、たとえそれがいかに妖しげな信じがたいような容貌を持っていたとしても、おそらく聞けないであろうあやかしの存在の名を、少年はあっけなく口にした。

　虚を突かれ、さしもの私も小さく息を呑む。

「だってさー、そんな真っ黒のマントなんて、フツー家の中で着ないし。だいたいイマドキそんな服、見ないし。それとも風の又三郎の時代の人？」

　冗談、らしい。それこそ今時の時代には珍しい、アンティークなボキャブラリーの持ち主なのだろう、彼は。

「……出かけようと、していたところでね。

　残念ながら、タカヤ、という人は私は知らない。ここは、私の住処なのだよ。仮初めの住まいにはちがいないが」

　私はマントの襟をややくつろげ、冷淡に彼を見下ろした。

「あっ、それは。変なとこ押し掛けちゃってすみません。俺、ここの家主の知り合いで。

　……ちぇ、崇哉、また海外だな。この前来たときは何も言ってなかったのにな」

　私の、あきらかにこの国の人間ではない色の瞳に射すくめられると、おろおろとするのが彼ら単一民族の習慣だと思っていたが、少年は物怖じせず、それどころか言い訳じみた独り言を洩らした。ごく、珍しいタイプのようだ。

「いや、本当にすみませんでした。失礼します」

　険を含んだままの私の眼差しに、ようやく気づいたかのように、少年は慌てて頭を下げた。それからまた片脚を軸に方向転換し、ドアのほうへ行こうとする。

「……待ちたまえ」

　静かな声色で、少年の薄い肩に、今度はすり抜けぬよう、強い力で手をかける。

「雨が降っているのだろう？雨宿りしていくといい。肩も髪も濡れている。私も、雨の中出かけるつもりはない」

　無表情のまま、抱くように細い身体を振り向かせる。少年が、まず叱られた子供のように首を竦め、それから囁かれる声の甘さにきょとんとし、重心を失って脱力するのを見計らい、私はごく微かに笑いかけてやった。

　間近な距離でしかわからぬ微笑に、鼓動の響かぬ胸に抱きすくめられる圧迫に、今度こそ、少年は動きを停止する。

　片腕に巻き込んだ痩身の、ややのけぞった姿勢の青ざめた頬に、空いたほうの手を這わせる。そのまま、滑らせた指をかすかに湿った前髪に差し込み、さらに反らせて、慄きにほどけた丹唇をそっとふさいだ。

　生命の交流の伴わない触れるだけのくちづけに、茶色の瞳がゆるりと閉じられる。睫が私の頬に触れ、かすかにたじろいだ。

「お前は、降りしきる冷雨に凍えかねて、蔓薔薇に閉ざされたこの門をくぐった。馴染みの友が迎えるはずが、待っていたのは見知らぬ私。

　しかし私は、お前の友人が温かいココアでお前を迎えるように、上等のワインを温めてお前をもてなそうと思うが……いかがかな？」

　少年はすっかり言葉を失い、自分が何者であるかも忘れたかのように、光に濡れた瞳に私を映した。

◆

　人間の内を流れる血のように、熱く赤い飲物を口にするうちに、少年はようやく人心地がついたようだった。

　夢見心地に見えた瞳は今やくるくるとよく動き、冷たかった頬はほんのり薄紅に、固く凍えていた唇はこみあげる微笑にゆるんでいる。ふんわり湯気の立つ赤ワインに蜂蜜とレモンを落とした、体を温めるためのアルコールが、彼の心までとろかせてしまったようだ。

　酔って無防備な表情になお、自己を主張してやまない炯炯と輝く瞳が、この国にいささか飽きていた私を喜ばせる。

「伯爵さま」

　彼が私をそう呼ぶのは、たった今はじめたばかりのゲームだ。

　うっとりと見上げてくる眼差しには、ゲームばかりでなく、魅了された証に潤んでいる。このまま連れ去られてしまいたい、吐息にまぎれて聞こえたように思ったとき、少年は悪戯を思いついた子供のようにくすくす笑った。

　開くともなく開いていた唇が、呪文のように改めて動く。

「まだ来ぬ冬将軍から降り注ぐ、氷の雨に苛まれた旅人のわたくしに、かく温かき御心遣い。神の城に住まう伯爵さまの、人とも思われぬ玲瓏たるその美貌に、わたくしは真の人の姿を垣間見ました」

　どことなく怪しげな、しかし立て板に水の、少年の口上に、私は微笑を禁じ得ない。

　なかなかどうして、退屈しないアルルカンのようだ。

「ぶはっ、舌噛むわ、こういうの！鳥肌ぷつぷつチキン肌。あんたもそこで平気な顔して、にこにこしてないでくれよ！」

　私に捧げるように持ち上げていたグラスを降ろし、少年は大袈裟に身震いする。今度は私が、グラスを掲げて見せる。

「どうして？なかなか面白い。その先をどう吟じてくれるのか、大いに興味がある。どうか続けてくれたまえ」

　変わらぬ私の様子に、少年は刹那、素に戻って照れ笑いした。それから私の本音をうかがうようなうわ目使いをちらりと流し、覚悟を決めたようだった。

「しかしながら伯爵。伯爵さまをたたえる言葉を、卑しいわたくし、いえ、俺の唇は持ちません」

　一人称が、不自然な「わたくし」から「俺」に変わる。本筋に入ろうという彼の演出に、私はいぶかしむような身振りで合わせてやる。

「俺は本当は……詩を吟じる歌い手でもなければ、その詩を口ずさむただ人ですらございません。本来ならばこの城に踏み込むことさえ許されぬ、神に逆らいし魔法使いなのです」

　今時には珍しい、アンティークでノスタルジックな、それが彼の設定だった。あいや、と場違いな言葉を挟み、冗談とも本気ともつかず、彼は続ける。

「あいや、どうか、この場でのお手討ちはお許しくださいませ。正体を隠して神の城に忍び込み、伯爵さまのお心をいただいたこの罪は、明日にでもすすんでこの身にお受けいたします。ただ今は」

　少年は立ち上がり、私の座るソファの足元にひざまづいた。

「ただ今宵一夜限りは、おやさしき伯爵さまの御ために、汚れた魔力の贈り物をすることを、お許し願えませんでしょうか？

　俺は魔法の他に、この感謝をあらわす術を知りません。また、ただ一度、我が魔法を伯爵様のために披露できるのであれば、夜明けにこの身が魔力もろともひとしずくの露と消え果てるとしても、これほどの幸せはございません」

　私の足元で従容とこうべを垂れる、セリフにはおよそ不似合いな現代の若者の姿は、濡れた衣の替わりに与えた長衣も相まって、あらがいがたい既視感の底に私を誘った。

「お前の魔法を」

　低く流れる私の声に気づいたのは、少年が驚いたように私を見上げたからだ。

「お前の魔法を見せてみよ。私が気に入ればよし、もしも気に入らねば、即刻、真の魔王を前にみだりに魔を語った、お前の魂を貰いうけるぞ」

　少年は丸く開いた目で私を見上げ、吹き出さず、仰せのままにとうなだれた。

「死を招く魔法の前に、魔道に落ちた愚か者の名を聞かせよ。魔法使い？」

　彼は刹那身を固くし、魂の契約に名を告げるが如く慎重に、そのやさしげな名を、震える声に載せた。

「魔法使いのハルミ。祖国の言葉で、晴れた海を意味します」

　そうしてきらりと輝く星の瞳が、優雅な仕種で私を彼の魔法へ誘うのだ。