骸
の
上
に
花
の
降
る

　雨に拭われた大気の澄んだ匂いと、黒雲をはらんだ闇を弱々しく照らす街灯。草木も寝静まる深夜、アパートへ帰る路地に人気はなく、かすか遠くに車の音が聞こえている。

　濡れたアスファルトに、夜目にも白く散らばっているのは、桜だ。

　花びらであったり、開かぬままのつぼみであったり、枝ごと折られたものもある。無惨にちぎられたそれらを、避けることもなく歩きながら、小さくわだかまる闇を踏みかねて、ふと足を止めた。

　闇が息づくかのような黒い塊。動かぬ猫の死骸だった。

　車に当たったのだろう。いつからそうしていたのか、四肢を投げ出し、背を丸めて、ひっそりと横たわっている。もう少し明るければ、毛にこびりついた血痕が見えたかも知れない。小さな骸に流れていたはずの命の液体の量は、そう多くもないだろうが。

　何故、俺の帰路にこれがあるのだろう。

　過去を逃れるようにこの街へ来て、昼の日差しさえ避けるように、静かに過ごしているのに。

　目の前のちっぽけな物体は、何かをつきつけるように沈黙している。

　仕方なく、持ち上げた。

　がさがさした、およそ生き物らしからぬ手触りのそれは、軽々と両腕におさまった。意志を持ったように固まったままの姿勢が、かえって物体じみて感じられた。

　のろのろと、方向転換する。

　ぼんやりといつも目の端に留めていた、墓地があった。

　正しくは墓地ではない。桜の木が四隅を守る、小さな公園だ。ベンチとぶらんこが置いてあるが、他には遊具もない。自分が見かける、夕方と深夜には人がいたためしがない。ひっそりと静まり返り、四季ごとに花が咲くだけの空間は、まるで墓地のようだと思っていた。

　桜の下には死体が埋まっているという。ならば、俺も一度は実現しなければならない。

　他人から見ればおそらく奇妙な、確信があった。

◆

　雨になぶられた土は、桜の枝で容易に掘ることができた。

　敷き詰められた白い花はたちまち、掘り起こした土と染み出す泥水にまみれた。程なくできた小さな穴に、抱いてきた亡骸を押し込む。

　その上から土をかぶせると、含んだ骸の体積分、こんもりと山になった。

　埋めたところで、消え失せるものでもない。むしろはっきりと、そこにあることが見て取れる。

　俺はひどく狼狽した。

　仕方なく、靴の先で山を崩しにかかる。少しずつ崩してはならし、ただの植樹跡のように、違和感なく平らになるまで。

　俺は飽きることなく同じ動作を繰り返した。

「お知り合いだったんですか？」

突然声をかけられ、ギクリと振り返る。

　一人の少年がいつのまにか背後に立っていた。この公園に人影を見るのは初めてだ。

「お花、あげていいですか」

　少年は返事を待たず、俺の脇にしゃがみ、嵐におられたのだろう、桜の枝を置いた。それから、目を閉じて両手を合わせる。

　俺が執拗にならした土は、小山があるよりはっきりと「墓」になった。

　数秒の祈りを終えた少年は、しゃがんだままで俺を振り返った。

「お知り合いだったんですか？」

　先ほどと、同じ問いを繰り返す。

　……埋めた死体が、俺の知り合いだと言うのか？殺人死体遺棄の現場の発見者のつもりだろうか？

　俺は少年を睨んだ。

「あはは、そうですよね。ペットなら普通、家の庭に埋めますよね。でもここ見晴らしいいから、ノラさんにはいいですよ」

　埋めたものが、猫ということはわかっているらしい。いったいいつから見ていたのだろう。見知らぬ猫の遺骸を抱き、何の感傷もなく地に埋め、踏みつけた俺のことを。

　いやなところを見られたと思った途端、少年にとがめられた。

「それ、ひっかかないほうがいいですよ。ほら」

　立ち上がり強い語調とともに、パーカーのポケットから出したティッシュで、俺の喉のあたりを押さえる。見せられたティッシュには赤い点が付着している。

　俺は、かみそり負けのかさぶたをいじっていたらしい。

　放って置いてくれ、と少年の手を払う。

　俺が俺のかさぶたを剥ごうが、少年には関係ないはずだ。

　そこにある突起物を平らにならす、そういう意味では俺にとっては至極生理的な仕草なのだ。それが他人から見て異様な光景だとしても、知ったことではない。

　少年は刹那目を瞬せたが、くるりと表情を入れ替えて笑った。悪戯の発覚した子供のようだ。

「ね、飲みませんか」

　突然、何を言い出すのだろう。

「お通夜にお酒はつきものでしょう。お清めなのかな。それで故人のことを語り合うんです」

　体のいい断りを思いつく前に、少年がパーカーのポケットから取り出したものを握らされる。

　コップ型のガラス瓶。自動販売機で売っている酒だった。どういうわけか、今買ってきたばかりのように温かい。

　商売柄、まずい酒は飲みたくないが。

「さっき埋めたの、誰だったんですか？」

　……人じゃないと言っているのに。

「その、誰の代わりだったんですか？」

　驚いて、少年をじっと見る。

　見上げてくる瞳は、人というより、埋めた猫が死ぬ前はこんなふうだったのではと思うほど、濁りなく澄んでいる。感情の色もなく、ただ鏡のように、静かに俺を映す。

　まるで、俺の心まで映すように。

「お通夜ですもん、そういうの、聞きますよ」

　カップ酒を一息に干す。

　少年は何も持っていない。俺は尋ねた。

「あんた、飲めないの？未成年？」

「いえ、金がないだけです」

「じゃ、来いよ、飲み直そう。上等の酒飲ましてやる」

◆

　俺は少年をアパートに連れ帰った。安アパートの２階は、歩くだけで床がきしむ。深夜の来客は下の住人さんにはさぞかし迷惑だろう。

　音を立てずに座るよう、少年に指示する。

　ロックアイスを入れたグラスに、店からくすねてきたウイスキーを注ぎ、ミネラルウオーターで水割りにする。

「すごい、本格的だ。手慣れてますね」

　きちんと正座したまま、少年が伸び上がって俺の手元を見つめている。

「店で働いてるから。でもママにはかなわない」

　フラフラしていた俺を、少し落ち着きなさいと雇ってくれたのが、今の店のママだった。

　人より整った容貌のおかげで、どの街へ行っても、どの女も同情して喜んで衣食住を提供してくれたが、説教をして、労働の対価としてのお金をくれたのは、ママだけだ。以来、夕方から深夜まで、ママの店でのアルバイトが俺の定職になっている。

　少年にグラスを渡してやると、眺めたり透かしたりしてから、ほんの少し舐めた。あまり飲み慣れていないのだろう。

　飲むよりもつまみを食べる量が多いところを見ると、空腹なのかも知れない。

　気がついて、ジャーに残っていた冷やご飯でお茶漬けを作ってやる。少年はうれしそうに食べ始めた。

　海苔とジャコと梅干しとわさび。これは店のメニューにはない。家政婦がいたから滅多に料理をしなかった、母さんの唯一の手料理。

「どんな方なんです？」

　お茶漬けをすすりながら、ごく自然なふうで少年が問う。まるで俺の脳裏が見えたかのように。

　店のママのことを聞いているのか、そんなはずはないのだが、母のことを聞いているのか。

　俺は水割りをあおった。今度は原液で氷の周りを満たす。

「俺が殺して埋めた人のことか？」

　無造作に投げた俺の言葉に、少年は少しだけ驚いたふうだった。

◆

　さっきの猫に、同じような姿勢で倒れていた、母の姿がかぶったのは事実だ。

　ばあやがつくような家のお嬢様で、体が弱くて。か細い神経で、何故、根性悪の親父に嫁いだのだろう。

　親父は小さな町の議員で、汚いことばっかり。……母とも政略結婚だったにちがいない。

　俺は親父は大嫌いだった。金をばらまいて権力を死守し、権力を使って金を稼ぎ、若い女を常にとっかえひっかえし、そのくせ一人息子の交友関係にはうるさく干渉した。政略結婚の手駒だったからだろう。

　高校に上がる頃から、俺は外泊が多くなり、たまに帰れば親父と大喧嘩になった。

　ある日、殴られそうになり、咄嗟に殴り返したところ、親父はあっけなく床に転がった。切れた口からは血が流れていた。

　しまったと思った瞬間、俺の背後で母が倒れた。胸をかばうように背を丸め、膝から崩れて転がった。

　もともと弱っていた、心臓が止まっていた。慌てて病院に運んだが、それきりだった。

　肝心の親父はかさぶたができたくらいで、ぴんぴんしている。

　母の死んだ病院から、俺は逃げた。

　吐き出してしまえば、それだけの事実だ。

　過去は過ぎたその瞬間から、血の流れない死骸になる。生前の形を頑なにとどめたまま、ただの物体になる。

「埋めたのは……お母さんだったんですね」

　俺は答えずに天井を見た。

　視界が丸く盛り上がった。

　通夜も葬式にも出なかったし、泣きもしなかった。あの人のために。

　少年がそろそろ寄ってきたが、振り向かなかった。

　天井を見つめたままで。一心に喉のかさぶたをひっかいた。そこにあるものを、なくしたくて。たとえ血が滲むとわかっていても、いたたまれなくて。

　ふいに部屋が暗くなった。電気を消したのか。

　かさぶたが剥がれて、血液が外気に触れた。じんわりと広がる痛みに、目の端から視界があふれる。

　ふと、喉元に何かが触れた。

　驚いて顎を引くと、さらさらした髪と、温かい吐息が、顎の下にはさまる。

　濡れた感触が剥がれたかさぶたに滲みる。

　舐めている？

　喉に滲んだ血液を、誰かが舐めている。少年なのだろうが、暗闇で、よく見えない。

　それは人のようでもあり、別の生き物のようでもあり。

　舐められるたびに走る痛みが、闇に過去を再生した。

◆

　今宵、骸の上に、花の降る。