の

菊

之

助

　にも関わらず、この日はまだ明けやらぬ刻限から誰かが雨戸を乱暴に打ち鳴らし、菊之助の安穏な眠りは破られた。かくも容赦ない仕打ちをするのは、隣人の美代の他にない。

「菊さーん、起きて、起きてよ。大変なのゥ」

　鼓膜に痛いほどよく通る声はやはり美代だ。この辺りを取り仕切る同心・難波太郎左の一人娘だが、事件というと美代は父親よりも大騒ぎして、どういうわけだか真っ先に菊之助のところへ飛んでくるのだった。

　菊之助はまず、布団を頭まで引き被って無視を決め込んでみたが、美代はあきらめるどころか、ますます声を張り、雨戸を乱れ打ち、いよいよ騒々しくなるばかり。致し方なく、菊之助は布団からのそのそ這い出し、四つんばいのまま雨戸のつっかいを外す。

　途端にからりと戸が開き、眩む日差しを背負って美代がまくしたてた。

「やあッと起きた。もう、大変なのよ。山梨屋で殺し、殺しなの。女将が腰紐で首絞められて、吊るされてぐるぐるのろくろっ首ですって！　すごいでしょう、菊さん」

　これがかぞえて十三にもなる可憐な乙女の朝の挨拶か。菊之助は起き上がれぬまま、こめかみを押さえてその場に突っ伏した。

「あのね、お美代ちゃん。何度も言っていると思うけど、僕は夜遅ーくから仕事をはじめて、明け烏を聞いてから床に着くの。だから朝のこんな時間には起こさないで欲しいし、ましてや血のろくろくめぐらないところに、殺しだのろくろっ首だの、ぞっとしないような話はねえ──」

　菊之助の必死の小言は、美代の期待に満ちた眼差しにあえなく遮られた。

「だから菊さん、一緒に現場へ行きましょう。親分も待ってるから」

　人の話なぞ聞かぬのが、美代の年頃の娘らしさの証らしい。

　菊之助はがくりと肩を落とし、渋々目覚めることにした。

◆

「殺されたのは、さっきも言ったように山梨屋の女将。襦袢姿のまま、腰紐で首絞められて、鴨居にぶらん。あの百貫女将を吊るすなんて、まずこりゃあ腕力のある男の仕業だろうッてのが親分の見解」

　道々、聞きもしないのに美代がぺらぺらと事件を解説する。

　菊之助はすっきりと身支度を整えてはいたが、口元に手を立ててあくびを噛み殺したり、すれ違いざま秋波を送ってくる男女に愛想笑いを返したりして、真面目に聞く様子はない。

「夜中のうち、それも女将の寝屋が現場だから、まず屋敷内の者、真ッ先に旦那が怪しいと親分は踏んだんだけど、この旦那がね、昨夜は出かけてて屋敷にいなかったって言うのよ──ちょッと、聞いてる？　菊さん」

「はあまあ、だいたい」

　いい加減な菊之助の返事に、美代がもうッと拳を振り上げる。ひょいと身をかわし、菊之助は手近の暖簾に逃げ込んだ。

「おっと、そうこうしているうちに山梨屋だ。いたいた、親分さん」

　菊之助の呼び声に、聞き込みをしているらしき渋面が振り返る。同心の難波太郎左である。

「おう菊さん。またお美代にひッぱり出されて来てくれたのかい」

　太郎左がじろりと睨むと、途端に美代が小さくなる。

「ええまあ。一介のきゃら売りをこんな現場に連れてくるのは、いい加減に勘弁してほしいんですけどねえ、親分」

　菊之助がおどけて月代を叩くと、ちくりと視線が刺さった。太郎左が腰掛けている奥に、笑いの形に目の細い男が正座している。

「親分さん、そちらは？」

　太郎左よりも頭ひとつ分高いところにある笑顔はいかにも営業用で、町人にしては豪奢な身なりをしている。これが大店の呉服屋・山梨屋の旦那なのだろう。

「あァ、旦那、お気になさらず。こいつはきゃら売りの伊花菊之助。昔からの馴染でね、まあ、あっしのせがれみたいなもんでさァ」

　太郎左の紹介に、山梨屋の旦那はうろんそうに眉をひそめた。

「きゃら売り？　ってことはアレですか、伽羅だの沈香だの、香木を売り歩くついでに色も売るという」

「いや僕は色のほうはもう、最近はお馴染さんにしか売らないんですけどねえ。前髪はまだ何となく残してますけど」

　菊之助がにこにこ笑いかけると、旦那は嫌そうにそっぽを向いた。

「で、旦那。昨夜はどこにお出かけでしたッけね」

　太郎左が聞き込みに戻る。

「親分さん、いったい何度私にその話をさせるんです。女中のお清が深夜に見たという、不審な背の高い男の影、そちらのほうをお探しいただくほうがよろしいかと私は思いますが」

　旦那は大分閉口している。既に親分が随分絞っているらしい。

「はあ、そっちはそっちで若いのに探させてまさァ。ところで歳のせいですかね、あっしァどうも最近もの覚えが悪くッてねえ。ひとつ爺に免じて、くどいと言わずにもッかい頼みますよ旦那」

　太郎左は首を傾けて、十手で耳の孔をつついた。熟練同心の太郎左の強さは、この責めのねちこさにある。

「だからさっきから何度も申しておりますように、私は昨夜は石峰屋の静磨のお座敷におりました」

　勘弁してくれと視線で傍らの岡引に懇願する。年若い岡引が、石峰屋の裏は取れていますと頷く。

　石峰屋とは、最近この界隈で人気の若衆茶屋、つまり少年を置く座敷である。この頃、歳若い少年を愛でる男色はむしろ粋なたしなみとされ、遊郭通いは許さぬ嫉妬深い女房達も、異性相手には警戒のゆるむふしがあった。

　菊之助がぽんと手を打って間に割り込む。

「へえ、石峰屋の静磨とは。さすがは大店の旦那。ありゃあ美貌と床技で評判の若衆だが、高値いでしょう。常に指名が入ってて、滅多に顔見世にも出ないから、金がなければ花のかんばせさえチラとも拝めやしない。いやいや、羨ましいことです」

　勢いで菊之助が座敷のほうへ身を乗り出すと、旦那は正座したままで後ろへ身をにじり退いた。どうも、菊之助に近寄られたくないらしい。

「これは失敬。高級若衆買いの旦那は、僕のようなきゃら売り風情は苦手ですか」

「はは。妻が亡くなったばかりですのでね。あなたのような美形はどうも」

　旦那は軽く手を振って、なおも世辞の笑顔を崩さない。菊之助は上がり口から上半身を座敷に迫り出して、旦那をたっぷり斜めに睨み上げてから、ひょいと身を起こした。

「それはどうも。……じゃ、親分。お邪魔みたいなんで、僕は行きますよ。お美代ちゃんも行こう」

　菊之助がさっさと店を出る。父親の手前、大人しくしていた美代が、旦那にイーッと歯を剥いてから着いて出る。

「いけすかない旦那！　何よ菊さんに意地悪して」

　のれんをくぐるかくぐらないかのうちに、美代が不平を漏らす。その耳元に、菊之助はそっと囁いた。

「そうだねえ……それにお美代ちゃん、あの人は嘘をついてるよ」

「えっ、菊さん、もうわかったの？　どうして？」

　美代の鼻先に小指を立てて見せ、菊之助は真顔で言った。

「若衆茶屋へ出入りするような人が、この僕の流し目に反応しないなんておかしな話はないからさ」

　がっくりと、美代は目に見えて肩を落とした。

◆

　それから一刻ばかり、菊之助はぼうっと山梨屋の前に立っていた。立ったままで腕を組み、大きな目には半分までまぶたが落ちている。

　大店の大事件とあって、山梨屋には親族や呉服組合の者が次々詰め掛け、ひっきりなしに役人が出入りし、野次馬まで群がってきたりして周囲は大変な人ごみだ。美代は店内の様子が気になるようだが、あれやこれや菊之助に話し掛けて気を紛らわせている。

「だからね、山梨屋の夫婦仲が悪くて毎日大喧嘩ってのは、ここらじゃ三ツ子だって知ってる事実なのよ。絶対にあの旦那が怪しいって──あッ、菊さんたらまた寝てる。もう、中に戻って旦那を問い詰めましょうよ」

　立ったまま危うくこっくりといきかけたところで、菊之助ははっと身を起こした。

「おいで、お美代ちゃん。下手人を見つけたよ」

　瞳を半ば閉じたまま、ゆらり、幽霊のように菊之助が歩き出す。

「菊さんちょッと大丈夫？　寝ぼけてるんじゃなくて？」

　美代は慌てて、人をかきわけ後を追った。

　店の前の大通りを左に折れたところで菊之助は一人の男の腕を取った。背は高く肩幅も広いが、背を丸めているので小さく見える。

「──山梨屋の方ですね。お名前は」

　腕を取って男を振り向かせてから、絶妙の間を置いて菊之助は微笑んだ。夏だというのに日焼けしていない男の白い頬に、さっと朱が差す。

「は、はい。越智周五郎と申します。山梨屋の勘定方の見習で」

　男がどぎまぎと答える。大抵の男は、菊之助の顔を間近に見ては神妙になるのだ。菊之助は満足げに、さらに微笑を深くした。

「あなたでしょう。昨夜、旦那の身代わりで石峰屋へ行ったのは」

　朱が差していた周五郎の目元が、今度はさっと青くなる。

「ち、違います。誓って、そんな」

　男の片手を取ったまま、正面へ回り、菊之助はその場にしゃがんだ。

「きゃら売りに嘘をついちゃあいけない。僕にはわかりますよ」

　腰を這い登るように、下から菊之助の眼差しが射抜く。睫毛の下に潤む瞳の深さに、周五郎は狼狽し、喉を嚥下させた。

「──それともあなた、昨夜のことははかない夢と、静磨の小指に誓って言えますか」

　言われた途端、周五郎はその場に転げて土下座した。

「ど、どうか堪忍してください。あのひとは、静磨さんは、私のことを山梨屋の旦那と思って、よくしてくださったんです。まさかただの算盤はじきの使用人だなんて思っていない。昨夜のことは、だから、どうか」

　菊之助はその肩をそっと起こして、やさしく囁いた。

「あのね、周五郎さん。商売で色を売る若衆は、肌を合わせる人が本当はどういう人か、わからないわけがありませんよ。正体を隠して来る客はごまんといる。相手の名乗りを鵜呑みにしていたら痛い目に遭うこともありますからね。あなたが山梨屋の旦那でないことくらい、静磨はとっくにわかってるでしょうよ」

「へ」

　間近に菊之助に覗き込まれ、周五郎が呆けた声を出す。

「静磨がもしも傷つくとしたら、あなたが正体を明かすときではなく、あなたがあの馬鹿旦那をかばって、正体を明かさぬまま咎人になるときでしょう。あのね、このまま放っとくとあなたが下手人扱いですよ、周五郎さん。不審な背の高い男の影を、皆さん必死で探してますから。旦那は最初から、自分と同じくらいの背の高さの周五郎さんをすべての身代わりにするつもりでいたんでしょうねえ。あなたいつも猫背だから印象がないけど、これくらい背の高い人はそうそういませんし」

「は」

　いまひとつ反応の鈍い周五郎に、菊之助は笑って小指を立てて見せた。

「でもまあ、おかげさまで周五郎さんは本来なら雲の上の若衆・静磨に出会えたんですねえ。粋なご縁というべきか」

「はあぁ」

　美代はとっくに追いついてきていたが、菊之助は地べたにしゃがみ込み、向かい合って地べたに這いつくばる男にこんこんと何やら説いている。何をやっているのかさっぱりわからないし、どうにも入り込む隙間がない。

　菊之助が事件の核心に迫るとき、美代は傍にいるのであるが、百戦錬磨のきゃら売りと純情な乙女の間には、暗くて深い川がいつも横たわっているのだった。

◆

　菊之助が連れ帰った周五郎の証言で、山梨屋の存在証明は崩れた。

　そもそも最初から石峰屋の静磨本人を連れてきて面通しをすれば、成り立たないからくりではあったのだが、大店の旦那の信用と、一般人には目にも触れぬ高級若衆の神秘性がそれを阻んだ。

「それにしても菊さん、何で旦那が怪しいと睨んだんで？　あっしみたいに熟練のカンってわけでもなかろうに」

　美代の入れてくれた茶をすすりながら、太郎左が首を捻る。

「──だってあの旦那、香りがしなかったんですよね」

　まんじゅうを一口ほおばって、菊之助が答える。菊之助は、実は甘いものに目がない。事件後の甘味は太郎左の菊之助への礼なのだ。

「僕が静磨に売りつけた、きゃらの香りが、ね。かわりに甘ったるい紅おしろいの匂いがしてて」

　美代が手を叩いて感心する。

「すごーい、さすがきゃら売りの菊さん。それで周五郎さんのほうにその香りがしたってわけね。私、周五郎さんの近くにいたけどそんなのわかんなかったわ。ご褒美に、もっとおまんじゅう買ってきてあげる」

　まんじゅうの残りがないのに気付き、美代がひらりと表へ飛び出していく。世話焼きのたちなのか、単に落ち着きがないだけなのか。

　甲高い下駄の足音が遠ざかるのを待って、菊之助は太郎左にそっと耳打ちした。

「と、言いますかね。若衆は遊女と違って、着物や部屋なんかに香を焚き染めるんじゃなくて、こう香炉をまたいで股ぐらを燻すんですよ。だから、昨夜どの若衆と過ごしたかなんて、たいがい僕にはわかるんです。股ぐらの香りに聞けば」

　吹き出した茶を何とか袖でぬぐって振り向くと、菊之助はいつもの顔で笑っている。

　下世話なことを囁いた菊之助の笑顔は、不釣合いに少年のあどけなさを残していて、太郎左は不覚にも耳たぶを赤くした。