抱きしめる、というほどロマンティックな感触ではない。羽交い締めにされた、と表現するほうが正しいかもしれない。両腕で描いた輪の中にがっちりと捕らえられ、身動きも取れなければ、相手の顔さえも見えない。

　明け方まで研究所にいて、まだ星光の残る夜道を帰ってきたばかりだ。静まり返った一人暮らしの所員寮の玄関口、心当たりがなければ強盗かと思ったかもしれない。だが、こういう所行をする人物には、幸か不幸か心当たりがあった。

「カーマイン？」

　囁きで、心当たりを唇に載せる。

　背後から体を抱えていた腕はするりとほどけ、かわりに見覚えのある顔が横から覗く。豊かに渦を巻いた赤い髪、琥珀色に輝く瞳、悪戯をたくらむ子供のような口元。

「よう」

　彼は、午前四時という非常識な訪問時刻にはそぐわない軽薄な挨拶をした。同時にゆるめた腕の中でくるりと回転させて、斜めに抱き直す。

「……いきなりですね、カーマイン」

　抵抗もせずに体を預けたまま、あまり友好的ではない挨拶を返してみる。

　だいたい、この友人はいつだっていきなりなのだ。事前に何時頃到着するとか、次はいつ頃来るとか、そもそもまた来るとさえ予告をしたことがない。

　ぶらりといきなり現れて、気の済むまで滞在して姿を消す。最近はかなり頻繁に訪れるようになったが、それでも彼特有の気まぐれで、もう二度と一生来ない、という可能性は充分にあり得る。

　そのくせ、通常の人間なら眠っているだろう非常識な時間帯に現れ、いきなり背後から抱きすくめたりするのだ。

　だから、こちらはいつだって準備不足で、戸惑い、相当に驚く。

　そうした行いに対する抗議を込めて、できる限りトゲのある挨拶をしてみたつもりなのだが、彼はまったくもって頓着せず、唇の片端をつり上げてニヤリと笑った。

「何だよ、うれしいくせに」

　しゃあしゃあと言いながら、後ろ手に玄関の電子ロックを施錠し、靴箱のないほうの壁に体ごと押しつけてくる。

　間近から覗き込む、好奇心に満ちた視線。笑ったままの口元が、からかうように頬をかすめて、首筋に落ちる。

「……！」

　あやうく漏らしそうになる吐息を、すんでの所で飲み込んだ。

　実際のところ、彼の言うとおり、うれしいのだ。

　悔しいような気もするが、それは紛れもない事実である。赤毛でハンサムなお調子者、気まぐれで人をからかってばかりいる彼は、ハイスクールのクラスメートだった頃から、無性に心騒がせる存在なのだ。

　唇と鼻先で首筋をなぶりながら、器用な指先が体をまさぐる。研究所から着たきりで帰ってきた白衣のボタンを左右に開き、忍び込んだ手があばらを順になぞる。シャツ越しに胸の突起に触れられて、こらえきれずに吐息を洩らす。

　砕けた腰を抱く手に誘導され、壁に背をつけたまま、その場に崩れる。

「……カーマイン、靴」

　乱れがちな呼吸の合間に訴える。

　まだ、靴を履いたままなのだ、二人とも。玄関先で、ドア一枚を隔てた向こうは所員寮の廊下で、明け方の時刻にふさわしく、隣人たちの眠りの静寂に包まれている。やけに速い自分の吐息ばかりが、耳についた。

「ああ」

　ワンテンポずれて、間の抜けた相槌が返る。胸に触れていた手が、腰と脚を伝い落ち、足先の靴にかかる。スポリスポリと片足ずつ、靴を脱がされた。

　冷静に考えれば間抜けな光景だが、全身の力が抜けているのでどうしようもない。

　力の入らない膝を割って、カーマインが片膝をついている。どこかのパーティー帰りなのだろうか、ピンタックを寄せたシャツの上に、光沢のある縞のベストをひっかけ、ウエストには幅広のサッシュを巻いている。そのくせ、燕尾を引いているだろう上着は見当たらず、どうやらどこかに置き忘れてきたらしい。そういえばほのかに、シャンパンの甘い香りもまといつかせているようだ。

　彼は自分の革靴も片足ずつ脱ぎ捨てると、今度は壁ではなく、床に押し倒した。

　この国では少し変わった作りだが、この家には玄関の周囲平方メートルを四角く残して、青畳を敷いてある。青い畳が香り、耳元でミシリと鳴く。

「……部屋へ行きませんか、カーマイン」

　さすがに、提案してみる。玄関口では、この続きはいかにも窮屈だ。

　だが、彼は首もとにぶら下がっていた蝶ネクタイを無造作に引き抜きながら、あっさりと首を横に振った。

「面倒だ。このままヤらせろ」

　あまりに無神経な言い草に、返す言葉を失う。

　彼と来たら、いつでもこうだ。

　だが不思議と、嫌ではない。それどころか、彼のむしろ剥き出しの欲求を、うれしいとさえ思う自分がいる。

　プレイボーイと呼ばれる彼だ。彼の仕事のサービス対象であるご婦人方の前では、こんなストレートな求愛行動は間違ってもしないだろう。やさしく肩を抱き、紳士的な笑みを浮かべて、甘い言葉を耳元に囁くに違いない。決して、己の欲望を見せないよう、細心の注意を払って。

　同じ男同士だから、自分には遠慮がないのかとも思う。女のように、セックスにムードを必要とせず、一度スイッチが入ってしまえば容易に引き返すことはできない。お互い、同じ生き物としてわかっている生理だ。

　或いはもしかしたら、ただカーマインが傍らにいるだけでスイッチが入ってしまうことを、見透かされているのかもしれないとも思う。

　彼の姿を見ただけで、声を聞いただけで、全身が熱くなり、欲情する。熱い体温に触れれば、瞬間に爆発しそうになる。他人に知られたらどうかとは思うが、抗いがたい事実だ。

　他の人間だったら、どんな容姿の男でも女でも、たとえ裸体を見せつけられたとしても、こうは興奮はしない。普段は、むしろ不感症かと自覚することが多い。生物としての物理的欲求は知っていても、感情がその引き金となることは、滅多にないのだ。

　なのに何故、カーマインだけが特別なのか。

　初めてカーマインを見たハイスクールのあの日から、いまだに解けない謎である。以来ずっと、考え続けてきた。

　けれどカーマインを前にすると、謎解きの思考回路さえ、停止してしまう。

「邪魔だな。眼鏡とれよ」

　のしかかって見下ろしながら、カーマインが言う。言いながら、手はもう銀縁のつるにかかっている。

　耳の横を細いつるが滑り、黒髪をひっかけて引き抜かれる。

　眼鏡をはずされるのは、実はかなり恥ずかしい。幼少時からひどい近眼で、二十センチも離れると物体の輪郭が取れない。学校へ通う頃から、眼鏡をかけていた。世界を縁取る銀縁のフレームは、物心着いたときから変わらない。今では顔の一部、否、肉体の続きのような感覚だ。

　その眼鏡を、他人の手ではずされるのは、衣服を脱がされるより抵抗があるかもしれない。肉体の一部を開いて内部を覗かれるような、不可解な羞恥がこみ上げる。

　だがカーマインはごくごく無造作に取り上げた眼鏡を床に放ると、至近距離からためらいもなく覗き込んでくる。

　薄暗い玄関で、至近距離にぼやける赤い髪、眼差しの強い琥珀色の瞳、両端をつり上げた唇。あとの景色は輪郭を失い、見慣れたはずの自分の家の壁の模様さえ、曖昧な霞に溶ける。

　頼るものもなく、体の自由を押さえ込む男の腕に、しがみつく他にない。手探りでつかまえた体温だけが、世界の中で確かな輪郭。

　だが。

　当のカーマインは、こちらを見ているのかどうか。

　不意に動きを止められて、ぼやけた視界に琥珀色の視線をたどると、どうもよそ見をしている。

　夢中で気づかなかったが、玄関の外の廊下に、人の気配でもあったのだろうか。それとも、こ特有の気まぐれで、ふと何事かを思い出しただけなのか。

　人を玄関先に押し倒しておきながら、いきなり他に関心が移ることもあるのだ、この男ときたら。

　だがその無神経さに腹を立てるどころか、愛しささえ疼いてくるのは、つくづく病だと思う。

　これは、彼を愛する淑女たちの知っている、プレイボーイのカーマインではない。紳士の仮面もかぶらず、剥き出しの好奇心と欲望に素直な、ハイスクールの頃から変わらぬ少年のような、ありのままのカーマイン。

　その彼に、直に触れているのだ。たとえ、一瞬後に彼の興味が途切れるとしても、今は。

　数秒か、数分か。

　静寂の後、カーマインが再びこちらを振り返る。

　琥珀色の瞳がゆっくりと近づいて、赤い髪が額に触れ、互いのまつげが頬をくすぐる。こらえきれず、先に目を閉じてしまう。

　唇が触れた後は、彼の体温が伝えていた世界の輪郭さえ、曖昧に溶ける。甘くやわらかく、自分と彼との境界を見失うほどに。

　伸ばした指先に冷たい銀縁が触れて、遠くかすかな音色を響かせた。

Fin.