朝

　満を持し、自ら望んでの挙兵ではない。以仁王らの平家追討令以来、対する源氏の頭領の血筋である彼は、雌伏し続けることも出来ず、窮鼠猫を噛む思いで挙兵したのだ。

　さしあたり平兼隆を夜討ちにしたものの、翌朝には早川の合戦に敗れた。

　父の仇を討ち、いずれは平家を滅ぼす。そうは思っていた。だが、それが今であるとはどうしても思えなかった。幼少から伊豆に幽閉されていた身で、蓄財もなければ武器も兵糧も揃わぬ。全国に散らばる郎党とも思うようには連絡が取れず、従うはわずかな手兵のみ。各地で打倒平家に決起した者たちも、次々首を討たれている。

　元来、思慮深く慎重な性質である。源氏の名を一身に背負う大将でありながら、頼朝は勝算を少しも見積もってはいなかった。気弱だったわけではない。現実的に過ぎたのだ。

　源氏の名のもとに集まりつつある軍勢の中心に床几を据え、頼朝は、いかに犠牲を少なくして落ち延びるかを考えていた。

　頼朝の軍に、源九郎義経が現れたのはその頃である。

　忽然と、彼は現れた。

　ある程度の軍勢には、先陣としんがりがある。遠くから近づいてくれば、何かしらの兆候が見え、規模が窺えるものだ。ところが、義経の軍はわずかに五十騎ばかり。真っ青な空の下に旗印を白く光らせ、いつの間にか頼朝の陣に寄り添っていたのである。一陣の風の如き、鮮やかな登場だった。

　本陣の帷幕に招じ入れられると、彼はためらいもなく地べたに膝をつき、頭を垂れた。紫裾濃の鎧の肩に、兜を取り去った黒髪が散り掛かる。彼はつややかな髪を結わずに垂らしていた。

「兄上。九郎義経にございます」

　弟はそう名乗った。兄弟が別れたのは物心もつかぬ幼少の頃である。元服してからの互いの名にも、凛々しい武者姿にも、少しも覚えはない。

　だが変声期の掠れを残す声に兄と呼ばれ、頼朝に不意に感傷が突き上げた。

「九郎、か。主君の礼はよい。面を上げよ」

　親しみを込めた声に、白い面が持ち上げられる。絵巻物から抜け出たかのような、完璧な若武者がそこにいた。とうに元服は済ませているはずだが、いまだ少年のあどけなさを残す華奢な骨格、細面の輪郭に紅潮した丸い頬、空を映す澄んだ瞳が真っ直ぐに頼朝を見つめる。

　周囲に控えていた者が、思わず感嘆の吐息を漏らした。

　頼朝と血の繋がった、源氏直系の若武者に寄せる周囲の期待は大きい。だが目の前の若者は、巨大な期待を跳ね返してなお余りある存在感だった。

　ありていに言えば、その類希なる美貌にみな気圧されたのである。

　そういった周囲の感嘆と、値踏みするような好奇の視線を一身に浴びながら、義経は身じろぎもせず頼朝の目だけを見つめていた。並外れて美しく生まれついた者に特有の、人目を歯牙にもかけぬ傲慢さは、そのまま身についた気品となる。

　紅い唇が、物問いたげにわずかに開いた。

　声にはならぬが、誰かの名をかたどる。唇の間に覗いた皓歯と対照的な闇が、奇妙な蟲惑をはらんだ。

　ぞくりと背を何かが走り、頼朝は反射的に床几を蹴った。刹那、時を忘れ、戦を忘れ、頼朝は弟に駆け寄り、弟の手を取った。節くれのない、子供のように滑らかな手指だ。

　何故、そうしたかはわからぬ。或いは美貌の蟲惑に毒されたのかも知れぬ。

　兄弟の母・常磐も、姿かたちの美しさだけでなく、その存在だけで無性に人をひきつける不可思議な魅力があったという。弟は母の面影を継いだのか。もう、記憶には母の顔もないのだが。

「よく顔を見せてくれ、九郎。こうしてお前と、また生きて会えるとは……」

　目頭に熱いものが込み上げた。

　自分の中に、これほどの肉親への愛情があったとは、頼朝自身思ってはおらぬ。情の深い人間でないことは自覚のうえだ。

　だがそれでも、目の前の若武者の典雅なたたずまいに、兄を見上げる星月夜の瞳に、止め処もなく涙が零れた。この美しい若武者が自分の弟であること、奥州からわずかな手勢で駆けつけたこと、そうした絵物語のような状況に感動したのかもしれぬ。

　物問いたげだった義経の唇はもう、形よく引き結ばれていた。先ほど何者かの名を呼んだのは、或いは頼朝に父の面影を求め、見つけ損ねたのか。潤んだ瞳は心なし醒めて、涙を流す兄を映していた。

「よくぞ、生きて。九郎。血の繋がらぬ者ばかりのこの陣に、血を分けたお前を迎えられ、初めて人心地がつく気がする」

　涙のついでに、ぽろりと本音が漏れた。滅多なことでは己の胸のうちを他人に見せる頼朝ではなかったが、このときばかりは何かのたがが外れていた。

　源という旗印の元に集まったこの軍で、奇妙なことだが、源氏の直系である頼朝だけが疎外感を覚えていた。今、頼朝を大将として付き従うのは、一度ならず平家に従いその禄を食んでいた者たちである。伊豆の幽閉時代から頼朝を擁護していた北条一族は別としても、居並ぶ将はこの戦から源氏になびいた者ばかりなのだ。

　少しでも隙を見せれば、離れていく。それどころか、いざ裏切りとなれば、真っ先に狙われ平家に献上されるのが頼朝の首である。

　平家の春を生き永らえて源氏に与する以上、命のために主を左右する者たちであることに違いはない。彼らの本意はどうあれ、幼少から幽閉されて育った頼朝には、その程度には根深い猜疑心がある。

　平家を倒そうと下手に西へ動けば、味方であるはずの東国武士に背後を襲われる。だが平家に立ち向かわねば、いずれ内から外からじわじわと嬲り殺される。まさにそうした頼朝の苦境には、血を分けた身内の存在がありがたかった。

「情けないことを言うようだが、我は一人きりで心細かったのだ。九郎」

　周囲の者がかすかに非難の目を向ける。血のつながりがないからこそ、この機に平家を裏切り頼朝を主君と仰ぐ一世一代の決断を乗り越えてきた者たちにとっては、いささか不満な物言いではあったろう。

　だが涙に咽ぶ兄の手を握り返し、義経が頷きながら微笑を浮かべると、そのような嫉妬はいかにも無粋に思え、みな黙ってうなだれた。

　と、涼やかな微笑を浮かべていた義経の紅い唇の両端が、きりりと不敵に持ち上がった。

「打倒平家は生まれながらの我が宿命。この義経に一軍をお与えいただければ、今すぐにでも西国へ発ち、きゃつらを根絶やしにいたしまする。

　兄上は東国武士を束ね、ゆるりとお待ちください」

　その剣呑な微笑が涙にかきくれる眼に映ったかどうか。

　兄弟の再会という美しい情景に、頼朝は珍しく酔いしれていた。

◆

　その晩は、陣中にもかかわらず酒が用意された。

　煌々とかがり火を焚き、歩哨がひっきりなしに行き交う中、頼朝の本陣から時折和やかな笑い声が響く。不謹慎でもあったが、昼までの頼朝のまるで敗軍の将の如き沈鬱な面持ちからすれば、むしろ士気は上がったかも知れぬ。

「兄上。私はご酒はもう」

　義経が苦笑し、丁重に杯を断る。頼朝はその手をとって強引に杯を握らせ、酒を注いだ。酒が回っても顔色の変わらない頼朝には珍しく、大分酔っている。ほろ酔いはどうも酒のせいばかりでもないようだが。

「兄弟再会の祝いだ。もう少し付き合え、九郎」

　上機嫌の兄に、義経は目礼して一息に杯を干した。飲み振りはいいが、色白の頬と耳朶に、桃色の酔いがほのかに差している。

　空になった杯に次の酒が注がれると、背後からにゅうと腕が伸びた。

「それでは代わりに拙僧がいただく」

　無礼な腕の主は、雲をつく大男だ。初めて本陣に現れたときから今の酒席までも、ぴたりと影のように義経の背後に寄り添っている。無論武装解除されているが、背が高いので妙な威圧感がある。

　拙僧と称し、首に大玉の数珠をぶら下げているところからすると、どうも僧侶らしいが、ざんばら髪は肩を覆うほどに長い。剃髪せぬ理由を尋ねると、破戒僧ゆえ、と無愛想に答える。京で義経に剣で敗れ、家来になったと聞くが、いまひとつ出自のあやふやさが否めない男には違いない。

「弁慶。控えよ」

　振り返り、義経は無礼を咎めるように、反面安堵の覗く声色で、大男を制した。が、それを無視して、弁慶と呼ばれた男は杯を煽り、遠慮会釈もなく酒息をつく。

「無礼であろう、弁慶。兄上、いや、源氏総大将の御前なるぞ」

　重ねて義経が叱り付ける。弁慶は顔色ひとつ変えずむしろ義経を睨み下ろした。

「ではご忠告いたすが、それ以上ご酒をおあがりになると、殿のほうこそ無礼を働くことになりますぞ。

　鎌倉殿、杯を横取りした無礼はどうぞお許し願いたい。義経殿は酔われると、人が変わったように暴れますゆえ」

「ぬけぬけと。そなたが飲みたい口実であろうに」

　背を守るように仁王立ちする弁慶を、義経が肘で小突く。

　弁慶はけろりとして、空になった杯を主に戻した。

「そなた、武蔵坊弁慶と言ったか」

　頼朝が声をかけると、弁慶は初めて恐縮したように頭を下げた。

　とは言え、義経の背後を動く気はないらしい。義経専用の壁にでもなったつもりであろうか、仁王立ちのまま頑として動かない。

「物心もつかぬ頃に別れたゆえ知らなんだが、九郎には酒乱の気があるのか」

「は。恐れながら。我が殿は酒に酔ったときと、寝入りばな、まるで人が変わったようになることがございます。

　ご気性烈しく、傍若無人に振る舞い、拙僧の腕力を以ってしても押さえきれぬ暴れようは、さながら鬼のようで」

　答える弁慶は極めて真顔である。嘘偽りどころか、誇張というわけでもないらしい。一見たおやかに見える義経だが、彼にも一族特有の鬼が潜むのだろうか。

「こやつ。主を鬼呼ばわりするか」

「鬼にお仕えしているのだとでも思わねば、やりきれぬときがございますゆえ」

　義経が苦笑を浮かべ、肘で弁慶をつつく。

　先から時折見せる仕草だが、刹那表情があどけなく緩む。兄である頼朝に初めて相対し、緊張しているようだが、弁慶が背後に立っているだけで義経が心情的に寄りかかっていることは容易に見て取れた。

「九郎」

　はい、と答える義経の背後で、弁慶が同じように頭を垂れる。

「……九郎はよい家来を得たな」

　小さく囁くと、主従は揃って破顔した。

　頼朝の元にはかくも心を預けられる家来はおらぬ。その事実が単に彼が人材に恵まれなかったという運によるものか、持って生まれた人徳というものなのか。

　いずれにせよ、頼朝は一生ただ一人で生きねばならぬととうに覚悟を決めている。或いは、源氏の嫡子として生き残ったときから、彼のうちには人に心を預けられぬ修羅が棲んでいたのやも知れぬ。

　九郎は、呪われた源氏一族らしからぬ眼をする。幼少時に平家に蹂躙され、雪辱のため血で血を洗う戦場に出て行くというのに、澄んだ瞳にはまるで邪気がない。心を預けて弁慶を見、兄を真っ直ぐに映す。

　兄と弟の、器の違いというものか。だとしたら、天がいずれか一方を選ぶときがやがて来る。

　仲睦まじい主従は、頼朝の胸に去就する思いにはまったく気付かぬようであった。