| 炎 天 |
真っ黒な世界の輪郭を鮮烈な輝きが瞬時にして照らす、その刹那に嘉は目覚めた。
昨夜からの傷の痛みと、渇きと空腹と疲労と、硬い大地に押しつけていた骨格のきしみと、冷えきった体のぎこちなさと、諸々の不快感で浅くなっていた眠りには、暁光はさながら大音響のように感じられた。 目覚めても、すぐには瞼が開かなかった。それだけの力でさえも意識しなければならないのである。瞼の向こうの輝きがひどく重い。 それでも、明けたばかりの空は蒼みを含んで冷ややかである。 硬い土の上で加減しながら首を巡らす。視界に、入口だけ焼け落ちているがあとは煤けた壁をほぼ完全に残した木の小屋が入る。風がなかったからだろうか。昨夜の記憶ほどにはよく燃えなかったらしい。熱気もすでになく冷めきっているところからして、すぐに鎮火してしまったのだろう。 嘉はぼんやり考えながら、のろのろと腹ばいになり、体を起こそうとした。 力が入らない。 状態を支えようとつっぱった肘が、自分でも不思議なくらいにぐらぐらふるえてつぶれてしまう。土に頬をつけて、嘉は速い呼吸をくり返す。あたりはしんと静まり、自分の吐息ばかりが耳についた。 たった一人、体を起こすことすらかなわずに、こんな人里はなれた土の上に転がっているのだ。思えば奇妙な光景である。ふっと嘉は他人事のように思う。 風がすいと耳朶に触れて過ぎる。その冷たさを追って、嘉はさっきからまるで静寂のように調子を変えず聞こえているのが物音だと、知覚する。 ざあざあと、ともすれば意識の底に沈んでしまいそうな遠い響き。水音である。気づいてみれば随分はっきりと耳に注ぐほどに聞こえている。地につけた腹にもかすかな振動が確かに響いている。 水が流れているのだ。 そう思っただけで、体中が清列な水に心身洗われる心地好さを錯覚した。体の内側が新鮮な水分を欲している。昨夜不快になぶられた肌が爽快な水の触感を望んでいる。 嘉は肘を張って、ずるずると這って移動を始めた。 自分でもあきれるくらいの体力だと自覚しながらも、何の感情もわかなかった。肘に小石が細かく突き刺さってくる。腹が地に擦れて思わぬ熱と痛覚を伴う。それでも機械的に動く身の軽さは滑稽な程だ。 どこにどんなふうにしていようと、確かに自分は存る。こうして身動くことができるのだ。 地につけていた視界を遮る大地がふいに途切れた。前進していた肘が動きを止め、さらさらと砂の落ちてゆく音がみるみる遠ざかる。文字どおり開けた視界のはるか下方に、先からの水音の正体が渦を巻いて降りかかる砂粒を呑んでいる。 切り立った断崖の下を、一昨日までの雨で水かさの増した川が濁流となって過ぎているのであった。 傍らを小川が流れ、下方の濁流に滝となってまるで白糸のように吸いこまれていた。昨日から見覚えのある、男たちの小屋の付近を流れていたものだろう。澄んだきれいな水はいくらそそいでも、黄色く濁った渦に呑まれては跡形もない。 水だ。 嘉は肘で体を起こし、よろめきながら立ち上がると、涼しそうな滝の注ぎ口に向かった。 崖の縁を危うい足取りが踏む毎にぱらぱらと砂の崩れる音がしたが、嘉はまるで構わなかった。いっそ濁流に転落してしまってもよかったのである。 あの清水を飲めば、毒を盛られた「月蝉」が死んだように、自分も死ねるのだろうか？ だが清水の毒に身を浸す前に、嘉は声を聞いたのである。 「坊っちゃま！」 とうに帰ったはずの、健気な従者の必死の叫びであった。 声のほうを振り向いて、煤けた小屋の陰から走り出たその姿を認めると、嘉はびくりと体が震えるのを感じた。 昨夜の不快な感触が一時にまざまざと蘇り、嘉は反射的に、それともはずみであったのか、よろけた爪先を濁流のほうへ体が傾くように蹴った。 驚いたのは潁である。 眼前の急に声も出せず、ふわりと浮かんだ小さな主人の体を抱きとめようとして、腕をのばし、つかんだと思ったときにはすでに宙に投げ出された後であった。 ひゅうと空気が耳を裂き、落下速度に四肢の自由は奪われている。 嘉の華奢な身体をそれでも離すまいと思う間もなく、黄濁した渦まくものが視界を遮った。 長雨で水かさが増していたことは、かえって幸運であったかもしれない。断崖に接近した二人の落ちた部分は本来ならば水流からはずれた淀みであるはずだった。 岩壁を崩れ落ちたそのままの、あまり削られることのない巨石が、鋭利にとがった先端を水面近くにもたげている。だが水かさが増えたためにその先端は水底へ沈み、二人が到達するまでに水渦の抵抗も十分にあったのである。 水面をつき破り、俄かに減速したところで、潁は咄嗟に嘉を抱き寄せるようにした。何が見えたわけでもないし、落下時の衝撃で脳震蘯を起こしかけていたのだから、まったくの反射であったろう。はずみで二人の身体はくるりと回転し、嘉の頭のほうは水面へ向かって難を避けた。 代わりに、水底へ沈んだ潁は左の顔面に激痛を覚えた。尋常な痛みではなく、覚えずうめきが洩れて、潁は開いた口腔に濁流を呼びこんでむせた。 手の力をゆるめかけて、再びきつくつかむ。 いったい嘉のどこを握っているのか、激痛の原因は何であるのか、どちらが上か下かもわからぬままであったが、何も移らぬ視界に必死に目を凝らしつつ、潁は速い水の流れを感じ取っていた。 あと数秒で水面に浮上できるはずだ。……かつて母に習った水潜りの術を身体が思い出している。 魚のようになればよい。とうに亡い母はたしかに魚のような美しい泳ぎ方をした。 ざっと水面に持ち上げられる。またすぐに沈んでしまうから、わずかな一瞬で息をため、岸の位置を確認しなければならない。無駄でも、少しずつ軌道を修正し、陸に近づけて行く。その間もずっと、潁は嘉の身体を離さなかった。 どれくらいそうしていたのだろう。潁の爪先が確かな川底に触れた。触れたと思った次には、もう岸へ向けて押しあげられている。 嘉を抱え、転がるようにして、潁は浅瀬へ上がった。手をついた泥には雑草が生え、思いがけず上がってきた水位にさらさらなぶられていた。 胸を圧していた水圧がゆるむなり、潁は黄濁した泥水をむせながら吐いた。耳の奥でごうという響きとかん高い耳鳴りがせめぎ、つうんと鼻腔が痛む。左顔面は眼球を中心に恐ろしく痛みだし、水音で聞こえなかった脈動が痛みを助長する。 まだ荒い息をつきながら、しっかりと抱えていた嘉を引き起こす。 かなり早くに気を失っていたのだろう。水を飲んではいたが、吐かせてやると呼吸を取り戻した。濡れた衣服を脱がせて見ると細かな擦り傷のほかには出血も見当たらない。自分の袖を裂いて硬く絞り、その身体を拭ってやる。結った髪を乾きやすいようにといて、潁はとりあえずほっと息をつく。 それから改めて自らの痛みを思い出した。 痛みのもとを探ろうと、利き手をのばし無造作に顔面に触れる。ぬるりとすべる指先にぎくりとする。左半面がべったりと、鮮血にぬれているのである。 たしかに、こめかみが脈うつごとにいやな出血の感触がある。川底にぶつけたものだろう。視界が狭いように感じているのも、左目が開かないからであった。 潁がまず心配したのは、出血多量のために自分の意識が遠のくことであった。無事に嘉を屋敷に連れ帰るまでは呑気に気絶などしていられない。思いつくや上着を脱ぎ、力まかせに裂いて、てきぱき左顔面を縛る。 思いきりきつく結んだつもりだが、右目は残さねばならぬし、頭骸骨の形もあるし、止血の目的にはせいぜい気休め程度だろう。 一刻も早く帰り着かなければ。 嘉は外傷こそないがかなり衰弱しているように見える。早くきちんとした手当を受けさせなければ何があるかわからない。 潁は立ち上がれぬままで空を見やり、方位を確かめ、川と川原を見比べて行くべき方を選んだ。とにかく、人のいるほうへ。 屋敷までは、持たないかもしれない。 片膝を立て、小さな嘉の身体を肩へかつぎ、立ち上がる。思ったよりも嘉は軽かったが、自分の身体がどうにも重い。それだけの動作でくらくらと気が遠くなりかける。ただでさえ、右目だけの視界では心もとないのに。潁はちっと舌打ちし、それでも歩き出した。 蒼ざめた光だけを地に投げていた太陽はいつの間にか高く上り、昨日と同じ炎天の兆しを見せている。潁は、その後のことをよく覚えていない。 |
続 |
１８禁描写が終わったと思ったら、痛い描写。
ほんとに当時から（いや当時のほうが）ショタ鬼畜だったようです。
次回、幸福終了？