この作品は凄いです。大掛かりな舞台装置はなく、ひたすらに役者の動きと、膨大な台詞で物語を魅せ、世界を創り上げる。物書きの端くれとして「言葉」を扱う私には大きな衝撃でした。言葉だけで、これほどの感動を与えられるのかと。これ以上はモノカキ論の粋に突入してしまうので、後でまた。

　さて、私のお目当ては駒田さんでしたが、芸達者な共演者揃いで、遠慮くのびのび演じられているように感じました。今回の役者陣は、シンプルながら技量の求められるこの舞台にふさわしいメンバーだったと思います。

　主役のシラノは、市川右近さん。終始シラノの特徴である大きな鼻をつけていましたので、最後まで素顔は拝めず。カーテンコールで投げキッスをするお茶目っぷりも、私にはもうシラノそのものにしか見えませんでした。台詞回しの抑揚は何となくラ・マンチャの幸四郎さんに似てる……と思ったり。

　シラノが恋するヒロイン・ロクサアヌは安寿ミラさん。タンビエット等で何度も拝見しておりますが、今回が一番好きかもしれません。とにかく美しい容姿で、頭の回転が速く、自分の感情によくも悪くも正直な姫御前。普通の女だったらただのワガママですが、この美しさならさもありなん、という存在を見事にあらわしていました。「あそばせ」という古典的な語尾がしっくり来て可愛い。衣装がまたどれも素敵にお似合いで。ラストシーンの喪服（光が当たると、濃紺の地に黒のストライプに見えました。スクエアに開いた胸元と袖口にシンプルなレース、髪には黒のベール）がとくに好みでした。似たような服がEXENTRIQUEあたりでありそう。

　若く美しい容姿でロクサアヌを魅了する美男のクリスチャンは、小林十市さん。ダンサーさんだけあって、とにかくただ立っている姿だけで美しい。動けばさらに目を引く。冒頭でウサギのダンスを踊るシーンがあるのですが、それだけでも贔屓役者そっちのけで目が釘付けになってしまう。あんなに美しく爪先まで優美に伸びたウサギのダンスは初めて見ました（笑）あと、場面転換にワンフレーズだけ踊ったボレロ。倒れた姿勢から糸で釣られるように身を起こし、踊るワンシーンは何とも印象的でした。

　ロクサアヌに横恋慕するド・ギッシュは、石橋正次さん。実力はなくとも世渡りと悪巧みで出世し、ロクサアヌをめぐってシラノとクリスチャンを死地に追い込む。典型的なイヤな権力者でしたが、戦場でロクサアヌを守ると決めたときに魅せた心意気は素敵でしたね。

　シラノの親友のル・ブレには、演出家でもある栗田芳宏さん。独特の声が渋い魅力を放っていました。

　同じくシラノの古馴染みの菓子屋のラグノオには、深沢敦さん。「阿国」以来でしたが、この人は何をやらせても愛嬌があって、面白いです。素敵なムードメーカー。とくに女性役をやると、観客は出オチ的に大ウケでした。

　そして駒田さんは、シラノと決闘をして「反歌の結びでぐっさり」やられる役や、百人の刺客に狙われ、シラノを頼るリニエール、ガスコン青年隊の中隊長や、ラグノオの不貞な女房、シラノの最期に居合わせるシスター・マルト等、11の役を演じていました。

　シラノの直属の上司・中隊長が一番出番が多く、いつもの駒田さんらしい役でしたかね。ガスコンの心意気にあふれた、さっぱりと男らしい隊長。シラノの武勇と、仲間を明るくさせる言葉を買い、部下として信頼していました。

　しかし何故か印象的なのは、女性役。ラグノオの女房は、店の奥で浮気相手とイチャイチャするのですが、浮気相手に膝枕されて、マントの陰でのキスには脚をピーンと伸ばしたりピクピクしたりの悶絶っぷり。気になって気になって手前のラグノオの歌どころじゃありませんでしたよっ。

　それからシスター衣装なのに口ヒゲが印象的なシスター・マルト。シスターだけに楚々とした仕草で、話し方もお上品ですが、タルトのあんずを食べる食い意地を同僚に指摘されたり、お茶目な一面も。毎週土曜日にシラノのために「居間で一番いい椅子」を運び、シラノにからかわれる可愛いシスター。シラノの死を悟り、だが言葉にはせず「後で食堂へおいでなさい。大きなお椀にスープを差し上げましょう」とだけ言って去る。シラノはもう食堂には来られないだろうとわかっているのに。何でしょうか、あの慎ましいシスターが大変愛しいです。ヒゲなのに。

　さて以下、かなり詳細に物語に突入します。そんで舞台の感想というより、モノカキ論に脱線します。

　舞台の始まりは、ブルゴン座に入り込んで遊ぶ子供たちのシーンでした。一番最初に舞台に現れるのが駒田さんでした。スモッグのような服を着て、周囲をキョロキョロ見回し、手招きして仲間を呼び入れる。みんなで何して遊ぶかの相談になり、ウサギのダンスを踊ったり、やがて芝居を始めることになり……ただの古びた劇場が、やがてパリの劇場、パリの街に見えて来ます。

　そして次の役は、酒を愛する男。やっぱり飲兵衛の役か、とファン一同納得（笑）役者は袖に引っ込む間もなく、一役終わるや舞台左右に並べた椅子に積んだ衣装に早替えし、また次の役に。役の慌しい入れ替わりとともに、舞台装置は何も動かないまま「○○の場」という書き割りだけで、場面も入れ替わって見える不思議。

　ヴァイオリンとアコーディオンのたった二人の楽隊がまた絶妙でしたね。必要に応じて拍子木やシンバル、太鼓なども叩きつつ、哀愁に満ちたメロディで場を満たす。それだけで十二分。凝った舞台装置や大人数のオケは使わない、この舞台の心意気が表れていたと思います。

　何より私が感動したのは、この舞台の主役は紛れもなく「言葉」であるということ。舞台装置や音楽は簡素で、ただそこに役者の台詞だけがある。そして物語のテーマも、言葉の力であるということ。

　有名な古典ですが、テーマ説明を兼ねてざざっとあらすじを。主人公のシラノは、剣豪で、詩人でもある、ガスコーニュ生まれの心意気に生きる男。いとこのロクサアヌに恋心を抱くが、大きな鼻の醜い容貌のため、告白することさえあきらめている。ところがある日、ロクサアヌに呼び出され、喜んで会いに行けば、他の男との仲を取り持って欲しいという相談。シラノは本心を語らず、愛しいロクサアヌの頼みを引き受ける。

　ロクサアヌの想い人・クリスチャンは、若く美しいが、言葉で愛を語ることはできない口下手な男。口を開いたが最後、ロクサアヌに嫌われてしまうとシラノに泣きつく。

　そこでシラノは、自分がロクサアヌ宛に書いた手紙をクリスチャンに授ける。クリスチャンの美しい顔を借りて、ロクサアヌに愛を語ろうという目論み。

　やがてロクサアヌはシラノの美しい愛の言葉に夢中になり、戦場からも毎日愛の手紙を届ける彼に感動し、危険な戦地に駆けつける。「最初はあなたのお姿に恋していたけれど、今はあなたのお心を愛している。たとえあなたが醜くなろうと構わない」と告白。

　ショックを受けたのはクリスチャン。ロクサアヌが愛しているのは、自分ではなく、シラノの言葉だと知り、絶望して敵の砲火に飛び込み戦死する。ロクサアヌの腕の中で息絶えるクリスチャンを見て、シラノは真相を語らぬまま、十四年の歳月を経る。

　喪に服し、修道院で過ごすロクサアヌの元に、古い友人として毎週土曜日に尋ねていたシラノ。十四年過ぎたある日、初めて定時に遅刻する。実はシラノは、暗殺者の手により頭に負傷し、瀕死の状態であった。日没後、暗闇でクリスチャンの手紙を朗読するシラノの声に、ロクサアヌはやっと手紙の真相を悟る。だが時既に遅し。ロクサアヌと友人たちに看取られ、シラノは絶命する。

　あらすじだけでもめまぐるしく劇的ですね。っつか、なげーよ、私のあらすじ（笑）重要なエッセンスだけ残したつもりですが。

　何が凄いって、シラノは自分自身の恋の成就よりも、自分の言葉がロクサアヌに愛されることを選んだこと。もちろんその背景にはクリスチャンとの友情、シラノの生き方・心意気があるわけですが、モノカキの端くれとしては衝撃でした。

　ロクサアヌはシラノの言葉に恋し、口づけし、手紙の人格を愛し、ついには夫クリスチャンよりもその言葉を愛すると断言してしまいます。シラノの言葉はロクサアヌを射止め、その結果、クリスチャンを傷つけ死に追いやります。手紙の言葉がそれほどの力を持つとは、シラノ自身、思いもよらなかったのでしょう。

　ロクサアヌが自分を愛していることに気づきながらも、善良なるクリスチャンの死を前に、シラノは真相を語ることはしませんでした。

　言葉の裏側には通常、それを発した人格があります。けれど時として、言葉は単体で世間へ出て、発言者にも思いがけない力を持つことがあります。むしろ、言葉だけを取るならば、発言者の意図が正しく伝わるほうが稀かもしれません。受け手の感性によって変容することがほとんどです。

　だからこそ「言葉」を扱う者は、己の魂を言葉に託すことに命をかけ、伝わらない想いに焦れて苦しみ、少しでも伝われば、このうえない幸福を感じます。私が小説を書くとき、そのほとんどは想いを満足に伝えることのできない拙い恋文で、ほんの少しでも受け取ってくださる読者の存在は、奇跡の僥倖だと思っています。決して謙遜ではなく、むしろ他人同士が感情を完全に共有することはできないという、人間のコミュニケーション能力への絶望と呼ぶべきかもしれません。これはたぶん、小説も戯曲もきっと役者も、言葉を真剣に扱う創作をする人間には、共通の想いなのではないでしょうか。

　死の間際、シラノは自分の戯曲がモリエールに盗作されたことを知ります。シラノは「モリエールはいいことをした」と言い、観客が大受けだったことを聞いて喜びます。そして口にする「私の人生は、人に糧を与え、自らは忘れ去られる人生だ」という台詞。シラノは彼自身が認められることより、彼の言葉が、たとえ他の人間のものとしてであれ、世に出て、人々に影響を与えることを至上としたのです。

　モノカキならば、一度は達してみたい境地。自分の言葉の裏には、いつでも自己顕示欲や自惚れが渦巻いていて、そのくせ拙くて人に満足に想いを伝えることもできない。そういったしがらみから解放されて、純粋に言葉として美しく、なおかつ人の心に響く言葉を、いつか発してみたいものです。シラノの人生は、そういう意味で憧れですね。それが人として幸福かどうかは、微妙なところですが。

　羨ましいとすれば、ロクサアヌでしょうか。美しいというただそれだけで、すべての男に崇拝され、守られ、賛美の言葉を送られる。夫の死後は、喪に服し、悲しみに酔いしれる優雅な暮らし。ただやっぱり幸福には見えませんね。

　地位と名誉と財を築いたド・ギッシュも、必ずしも幸福には見えない。

　何を幸福の基準とするかを自分で決め、それを貫くのが幸福だとすれば、死ぬまであの心意気を貫いたシラノは、やっぱり幸福なのかもしれません。現実にはありえませんが、彼の生き方には、強烈な憧憬の念を抱かずにはいられません。

　ラ・マンチャのキホーテに似てる面もあるかな？とも思いますが、キホーテがめざしたのが絶対的な理想や正義を世に示すことだったのに対し、シラノが貫いたのは、己の言葉や心意気、一種の美学であり、美醜の判断は人それぞれで、他人（たとえばド・ギッシュ）にとってはゴミクズ同然であることも自覚し、逆に他人に受け入れられることがどれほどの僥倖であるかを知っています。そしてすべての行いの結果を、自分自身で受け止める、このあたりが好きなんですよね。

　……何だか舞台からかけ離れた長文になってしまいました。とにかく「言葉」の力に圧倒されたということで。台詞そのものは古典的な訳文なので、難しくて聞き取れない部分も多いんですけどね。リズムが美しくて、耳に触れる感触だけでもうっとり。そんな言葉に酔いしれる舞台でした。