スタッフや関係者が帰途につくのを見送り、ほっと息をついた景山の横に、エイジが立った。

「おい、カゲ。家まで送る」

　ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、エイジが真顔で言う。景山は、思わずまじまじとエイジを見る。景山を送ると言っても、エイジは車で来ているわけでもなく、タクシーを呼ぶそぶりもない。

　景山は曖昧に笑い、片手を挙げてタクシーを停めた。

　何食わぬ顔でドアを開け、エイジだけ乗せてしまおうかと思ったが、腕を引っ張られ、同じ車に二人で乗り込む形になった。

「じゃ、先にエイジの家を経由するか。七番街の……」

　送るというエイジの申し出が聞こえなかったふりをして、景山はエイジの住所を運転手に告げた。コレクション前のトラブルから、社のトップ・デザイナーは疲れ切っているはずだ。早く家に帰して休ませたほうがいいという経営者判断である。

　だが景山の告げた行き先を、エイジはきっぱり否定した。

「違う。そっちじゃない。カゲの家だよ」

　景山はエイジの顔をちらりと見る。別に酔っている様子でもない。だからと言って、自分が運転手に指示するわけでもなく、ずっと景山の腕を掴んだままだ。

　仕方なく、景山は自分の住所を運転手に伝えた。

「お前、まだあそこ住んでたんだ」

　意外そうに、エイジが言う。自分で送ると言ったくせに、エイジときたら、景山の家がどこかも把握していなかったのだ。

　景山は、小さく肩をすくめる。

「事務所から近いし、引っ越す理由もなかったしね」

　ニューヨークに来てから、景山はずっと住所を変えていない。引っ越した、なんて話も一度もしたことがないのだが、エイジはそんな話があったかどうかも憶えていないのだろう。

　エイジという人間は、自分以外の人間に驚くほど興味が薄い。自社のスタッフの顔や名前さえ、ろくに記憶していないくらいだ。ちなみにエイジのほうは何度か住居を移していて、そのたびに景山は転居を手伝っている。

　景山がタクシーを降りると、エイジも黙ってついてきた。

「どうぞ。散らかってるけど」

　数日ぶりのアパートの鍵を開けて、エイジを先に入れてやる。

　２ＤＫの景山の部屋に、実は散らかるほどの物はない。仕事柄、服だけはたくさん持っているが、一部屋をまるごとクロゼットにしているので、居住空間である一部屋には家具も物もなく殺風景なほどだ。

「風呂入って寝るだけの部屋だから」

　問われるともなく、会社経営者らしからぬ簡素な住まいの言い訳をする。実際、景山は毎日夜中にしか家に戻らなかったし、事務所に泊まり込むことも多い。

　エイジは黙ったまま、部屋の真ん中に突っ立っている。部屋には、来客を座らせるソファもないのだ。

「ごめん、何もなくて。とりあえずベッドにでも座ってて。ホラ上着、こっちにかけるから」

　景山はエイジの上着を脱がせると、自分もタイを取り、ジャケットを脱いで、壁のハンガーに掛けた。

　二人ともパーティー仕様のタキシード姿である。本当はすぐにでも服を脱いでシャワーを浴びたかったが、今はエイジが居る。

　景山はキッチンでお湯を沸かし、ほうじ茶を煎れた。事務所ではコーヒーばかりだから、日本茶は久しぶりだ。ニューヨークでは嗅ぎ慣れない、凛とした香りが漂う。

「もう酒よりお茶がいいだろ」

　会社のノベルティのマグカップに注いで、一つをエイジに渡す。エイジはベッドの縁に腰掛けたまま受け取り、香り高い湯気にうつむいた。

「終わったな、今年のコレクション」

　景山も、エイジの隣に腰を下ろす。エイジは、目を伏せたままだ。

「明日マスコミの反応、どう来るかな」

　去年は、エイジがメイン・ステージの大トリだったにもかかわらず、新聞も雑誌もこぞってサブ・ステージのサエキのことばかり書き立てた。従来のメンズのコンサバ路線を飛び出した、新鮮味とエネルギーがウケたのだ。正統派のエイジの服を、旧時代の象徴と片づける記事さえあった。

　以来、ずっとエイジは気にしていた。この業界、流行に見捨てられたら終わりである。ブランド・イメージの色褪せは、デザイン善し悪しに必ずしも比例しない。この一年、エイジがどれだけ悩み、苦しみ、足掻いてきたか、景山は誰よりも近くで見ている。

「正統派と新進気鋭のライバル、実は同じ学校出身の二人、同じテーマで激突コラボ、とはマスコミの食いつきそうなネタをうまく考えたな。あとはオサダがうまく盛り上げるだろ。あいつの仕切りは、学生時代から強力だもんな」

　やることはやった。あとは反応を待つしかない。

「ま、外野はこの際どっちでもいいや。今日のエイジの服はスゴかったし、おれも生きてる。おれはそれだけで充分だ」

　景山が笑うと、エイジはやっと顔を上げた。

　さっきから、景山ばかりしゃべっている。自分から着いてきたくせに、景山の部屋に入ってから、エイジはずっと黙り込んだままだ。

　昨日のことを、気にしているのだろう。それで、着いてきたのだ。

　だいたいエイジが景山を送ると言い出すなんて、どうかしている。いつもなら、天才デザイナーを送るのはマネージャーの景山の役割、つまり逆なのだ。

　エイジのマグカップが空になったのを確かめて、景山は立って、マグカップを取り上げた。

「疲れたろ、エイジ。タクシーを呼ぼう。帰ってゆっくり休めよ。おれはもう平気だから」

　なだめるように声をかけると、エイジは激しく身震いした。

「平気って！　もうちょっとで死んでたんだぞ、お前！　睡眠薬なんか飲むなって、いつも俺に偉そうに説教していたのはお前だろ！」

　いきなり、怒鳴られた。

「……ごめん」

　条件反射であやまる。景山のくせだ。

「あやまるなよ！　お前にあやまって欲しいんじゃなくて、俺は、俺は……！」

　エイジは言葉を失い、泣き出しそうに眉根を寄せて、うなだれた。何か言おうとして、うまく言葉にできず、両手でもどかしく口を覆う。

　激昂してすぐ怒鳴るのは、エイジのくせだ。そうして思ったことをすぐ口にする割に、自分の気持ちを人に伝えるのは不得手ときている。

　うなだれたままのエイジに、景山は頭を下げた。

「おれが悪かった、エイジ。自殺未遂なんて、ばかなことをした。ごめん」

　穏やかな景山の声に、エイジが首を左右に振る。

「……死ぬかと、思った。お前が死んだら、俺も死ぬかと。お前がいなけりゃ、俺は何もできない。コレクションさえ、投げだそうとした。俺が悪いのを、俺の自信のなさを、焦りを、苛立ちを、全部お前のせいにして、楽になろうとしたんだ。お前に酷いことを言って、八つ当たりだった。お前なんかいらないなんて、嘘だ。俺は、お前がいなけりゃ……」

　エイジの声が、低くかすれる。顔を上げたら、泣いているのかもしれない。

「……言わなくていいよ、エイジ」

　エイジをやさしく遮って、景山は囁く。

　自信家のエイジの弱音を聞いたことがあるのは、たぶん世界中でも景山だけだ。エイジの辛らつな物言いは、精一杯の強がりだと、景山は知っている。エイジは本当は誰よりも自信がなくて、だからこそ誰よりも努力をして、繊細な心を嵐にさらして戦っている。エイジの弱さを、景山だけは知っているのだ。

　それなのに、あの晩だけは、エイジの弱さを受け止めてやれなかった。

「おれもお前のいつもの八つ当たりだってわかってた。わかってて、逃げたんだ。だから、ごめん」

　両手で顔を覆い、うつむいたまま、エイジは肩を小刻みに震わせている。

　景山はマグカップをベッドボードに置くと、エイジの隣に座り直して、震える肩を抱いてやった。

「らしくないぞ。エイジの口が悪いのは、今に始まったことじゃないだろ。お前がそんなにしおらしいと『気持ち悪い』よ」

　景山のクスクス笑いに、腕の中のエイジの肩の強ばりがわずかに緩む。面と向かって好意を告げられると、照れて「気持ち悪い」と言うのはエイジのくせだ。エイジの無愛想と口の悪さは、極度の照れ性のせいでもあるのだ。

「でもエイジ、憶えていてくれよ。おれは、お前が望むなら、おれの命なんかちっとも惜しくない。エイジのそばにいられないなら、おれの生きている意味もないんだ」

　ゆっくりと、エイジが顔を上げる。きょとんと見開かれた目が、景山の言葉の意味をぼんやり探っている。

　あの日、睡眠薬のもたらす深い闇から戻った日。

「カゲのためにコレクションに出品する」と言い切ったエイジに、旧友たちは「お前らデキてる？」と騒いだ。デキている、わけがない。「できている」は双方向が前提で、景山からエイジへの想いは、基本的に一方通行だ。

「エイジ、おれが寝てる枕元で、おれに好きな人がいるかどうかも知らないって言ったって？　オサダに『片思いなら、学生時代みたいにプロデュースしようか？』ってからかわれたよ。ったく、人の気も知らずにさ」

　学生時代、景山に初めて彼女ができたとき、仲を取り持ってくれたのはオサダたちだった。オサダが飲み会や旅行を企画し、周囲の連中が景山を褒め、盛り立てる。おかげで何となく彼氏彼女の形にはなったが、景山は結局彼女に、自分の気持ちを言葉で伝えたことはなかったように思う。淡い恋は、激しく燃え上がることもないまま、やがて薄れた。

　思えば景山は、あの頃から恋愛に淡泊だったのかもしれない。相手の何かが欲しいわけじゃない。相手に何かを伝えたいわけでもない。ただそばにいられれば、相手を想っていられれば、それでいい。

　そんな景山を、オサダたちは奥手とからかったものだが、それは大人になった今も変わらないらしい。

　エイジは、左右で二重の厚みの違う目に景山を映したまま、景山の話の意図をまだはかりかねている。まるで子供のような無防備な表情に、景山はつい意地悪をしたくなる。

「どうせおれは奥手だよ。ずっとそばにいて、面と向かって告白しても、気付いてももらえないし」

　肩を抱き寄せ、耳元で囁く景山に、エイジは目を見開いて驚いた。

「って、え、え……！？」

　みるみる頬が赤くなる。一見クールにも見えるエイジだが、こういうリアクションの素直さは、学生時代から変わらない。

「そう真面目に考えるなよ。別に無理にどうこうするつもりもないし。おれは今まで通り、お前のそばにいられればいい。お前のそばにいて、お前の作る服を誰よりも早く見て、世の中に送り出したいだけだ」

　景山は淡々と語る。

　きっと景山は奥手というわけではなくて、感情そのものが淡泊なのだ。学生時代に恋愛感情を口に出したことがないように、今のエイジへの想いも、気付いたらそうだったというだけで、はっきり自覚したことはない。

　エイジにお前なんかいらないと言われ、酔っていたとはいえ、自殺をはかった事実には、正直自分でも驚いている。エイジの拒絶の言葉が、逆に景山の感情を引っぱり出したのかもしれない。

「それから、おれもデザインして、これからは縫製もやるよ。エイジみたいな才能はないし、手先も不器用だけど、やる。自分の足で、お前のそばを歩くことにした」

　生死の境から戻った病院のベッドで決めた、誓約を口にする。

　景山はいつも、エイジの才能に魅了され、その才能を輝かせることばかり考えていた。景山がマネジメントを引き受けたからこそ、エイジがデザインに専念できた事実はあるが、あまりにもエイジの才能に寄りかかりすぎていたかもしれない。

　オサダにもサエキにも無謀だと笑われたが、景山がこれからもエイジのそばにいるために、決めたことなのだ。デザインや縫製が形にならなくても、他の誰が知らなくても、エイジにだけはそれを知っていて欲しかった。

「……俺は、どうすればいい？　俺はお前に、何ができる？」

　驚き、混乱し、赤面し、だが穏やかな景山の様子に安堵したらしいエイジは、ごく生真面目に聞いてきた。

「どうって。どうもできないだろ？　別に今まで通りでいいよ」

　エイジの肩を抱いたまま、景山は笑う。

　景山は本当に、今まで以上のことは望まないのだ。エイジのそばにいて、マネジメントをし、八つ当たりの的にだってなってやる。そうしてエイジの才能を支えられるなら、それが景山にとっての幸福なのだ。

「うん……勃ちそうにない」

　数秒おいたエイジの答えに、景山は思わず吹き出した。

　たしかに恋愛には肉体がつきものかもしれないが、景山だって、エイジに勃つかどうかなんて考えたことはない。だがエイジは、景山に肩を抱かれたまま、生真面目に考えてしまったらしい。彼なりの、誠実さなのだろう。

「だからいいんだって、何もしなくて」

　景山は苦笑しながら、エイジの肩を叩く。

　だがエイジは、どこまでも真剣だった。生真面目な表情で、顔を上げてまっすぐに景山の顔を見つめる。

　その男らしい性格とは裏腹に、たまに女性に間違えられることもある、中性的に整ったエイジの顔。眉をひそめた思わしげな表情に、いつも飽きるほど見慣れているはずの景山さえ、瞬間身をすくめる。

「なあ。これくらいなら、できるかも」

　景山が動きを止めた隙に、いきなり唇を奪われた。

　皮膚の一部がほんの少し触れただけの、間違ってぶつかっただけだと言い訳もできそうな、瞬間のキスだ。それでも景山は相当驚いて、動揺した。

「やめろよ。無理して、そんなの、いらない」

　目をそらし、何でもないふりを装いながら、耳まで赤くなっていくのがわかる。触れられて初めて、景山の体もエイジに反応していたのだと、思い知らされる。

「無理なんかしてない。俺が、したいと思ったんだ、お前に」

　エイジはまだ真顔だった。目をそらした景山の頬に手をかけて振り向かせ、もう一度唇を寄せる。今ならまだ逃げられる、と思いながら、景山は痺れたように動けない。

　二回目は、事故では言い訳のできないキスだった。頬に触れていたエイジの指が、景山の髪に差し込まれ、熱い舌が乱暴に入り込んでくる。景山はいつだって、強引なエイジのやり口に、逆らえた試しがない。

「……ン」

　息ができないほど、長い。景山はようやく逃れようと身じろいだが、エイジの両手にがっちりと捕まれて、逆にベッドに押し倒されてしまう。

　学生時代からずっと、誰よりも近くにいたのに、こんなふうに触れたことがなかった、互いの体温、鼓動、吐息。触れたところから、熱い何かが溶けて皮膚の内側にじわりと広がる。

「……エ、ジ」

　唇の離れた隙に、制止したつもりの声は、消え入りそうに甘くかすれた。

「このまま、してもいいか？」

　真顔で聞いてくる。色の白いエイジの顔が、今日はやけに赤い。ギリギリに押さえ込んだ衝動に、苦しげに眉根を寄せている。いつも他人に無関心なエイジが、その情熱を向けるとき、こんな表情をするのか。

「……いいよ。エイジがしたいなら」

　小さく、答える。

　覆い被さってくるエイジの髪が、景山の首筋に触れて流れる。

　長い髪に指を絡ませながら、景山はそっと目を閉じた。